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わたし × 祖母 × 中学時代の先生  - 語れなかった10年…祖母と孫 いま交わす言葉 -

東日本大震災で母と姉を亡くした髙橋佑麻さんと、中学時代の恩師・制野俊弘先生。
前回の対話で話題にのぼったのは、震災について「身近な家族にこそ語れない」ということでした。あの日見た光景、家族を失ってから何を思って生きてきたのか…。佑麻さんは、制野先生の作文の授業で初めてその胸の内を明かしましたが、家族とはこの10年、お互い話すことなく過ごしてきたといいます。
今回、佑麻さんはこの対話の場をきっかけに、大切な家族と気持ちを分かち合いたいと、祖母・功子(いさこ)さんを迎えて3人で語り合うことにしました。震災のあと、母親がわりとなって佑麻さんを支えてくれた祖母。孫と交わした言葉とは…

(仙台放送局 ディレクター 岡部綾子  報道局 社会番組部 ディレクター 武井美貴絵)

髙橋 佑麻さん(21)
宮城県東松島市で、小学5年生のときに被災。自宅に津波が押し寄せ、母と姉が目の前で流された。その時の思いを初めて打ち明けたのが、中学の作文の授業。 現在も東松島市で父と弟と暮らし、祖母が母親がわりとなって世話をしてくれている。
髙橋 功子(いさこ)さん(81)
佑麻さんの母方の祖母。震災で娘(佑麻さんの母)と孫(佑麻さんの姉)を失い、自宅も流された。震災後は、料理や洗濯など孫たちの世話をするために、ほぼ毎日佑麻さんの家に通う生活に。
制野 俊弘さん(55)
元 宮城県東松島市 中学校教員(現 和光大学 現代人間学部人間科学科 准教授・副学長)
震災発生時、宮城県東松島市の中学校で保健体育の教員。 1100人以上の死者が出た東松島市では、多くの子どもが家族や大切な人を亡くした。 そんな子どもたちの心と向き合いたいと、震災発生の3年後「命について考える」作文の授業をおこなった。

言えなかった思い ~祖母と孫・死の受け止めの違い~

母と姉を亡くしたときの気持ちを、家族には言えなかったという佑麻さん。祖母・功子さんも、孫を傷つけたくないと、震災の話題に触れることを避けていました。初めて心の内を知ったのは震災発生から3年後。制野先生の授業で佑麻さんが書いた作文を読んだときでした。

(佑麻さんが書いた作文については、こちらの対話を参照)

佑麻:おはようございます。

祖母・功子:おはようございます。

制野先生:制野と申します。どうも。おばあさんに会いたい会いたいと思いながら。本当にこのたびは。

祖母・功子:制野先生ね。本当に大変お世話になりました。

制野先生:どうですか、最近。体調とかどうですか。

祖母・功子:体調はもう年重ねてるからそれなりですけどね。

制野先生:いくつになられるんですか。

祖母・功子:(数え年で)82歳です。

制野先生:82歳。昭和・・・

祖母・功子:15年生まれです。

制野先生:そうですか。じゃあちょっと体力的にも。

祖母・功子:限界に来てて。

制野先生:限界に来てますか。

祖母・功子:10年も経つとね。だって震災当時72歳ぐらいね。震災の前までは牡蠣むきだのして働いてはいたんだけど、震災でやめた。その時で。

制野先生:今回の震災のことはやっぱ悔しいって思いがあるんですね。

祖母・功子:そうですね。この人(佑麻)も、やっぱり自分では本当は救えただろうっていう無力感っていうのを感じてたのかなと思って、そのころね。分かんない。作文まで何も言わなかったから。

制野先生:本人が?

祖母・功子:本人の口からも聞かなかったしね。どうやって亡くなったんだろう。子どもたちどういう状況だったんだろう。今でも分かんないこといっぱいあるけどね。

制野先生:作文を読み返すとね、書くのも本人つらかったと思うんですよ。

祖母・功子:(母と姉が津波に流されたのが)目の前だから。自分ができなかった、助けることできなかったこと、亡くしてしまったっていうのがみんなごっちゃになってすごかっただろうなって。でも心に思ってたことを作文に吐き出したっていうことで軽くはなったと思うし、私もいろんなこと知ることできたしね、すごく良かった。

制野先生:そうですか。それまでの気持ちって、そしたらもっとモヤモヤした感じだった?

祖母・功子:モヤモヤどころかもうね、何て言うかどうしたらいいんだろう。どうしたら…やっぱり生きてていいのかしらっていう、何て言うかそういう気持ち。若い子たち死んでんのに私生きてていいのかしらって。誰にも話してない。同じ家族でも話せない。この思いはね。だからこの人(佑麻)も気持ちを言ったらみんな心配するから何も言わないってね。

制野先生:やっぱね、大事な人のそばにいればいるほどしゃべれないよね。

祖母・功子:やっぱり近い人には話せない。ニコニコしてなきゃならない、何にもないようなフリをして。

佑麻:やっぱり(祖母の気持ちは)全然分かんない部分だったので、そこは話せないって思ってたからこそ、やっぱりこういう場(対話の場)があると助かったなと思いますね。

制野先生:作文にちゃんと墓参りに行きなさいみたいなことを、おばあさんはよく言うんだけど俺はお墓参りに行かなくても忘れないって書いてある。

祖母・功子:だからそれだと思うの。自分は受け入れたくなかったんだろうなって。墓の水かえるのは下着かえるのと同じだとかいろいろなこと言うじゃないですか。だから私は1か月に1回ずっと行ってるんです。11日は1人でね。

制野先生:月命日に。

祖母・功子:月命日は必ず行きますよ。年に20回ぐらいは拝むのかな。この人(佑麻)たちはやっぱりそれを受け入れたくなかったんだろうなとは思います。そして私が一生懸命、昔の人だから、朝にあげたり何なりする。

制野先生:お茶あげたり水あげたりね。

祖母・功子:そういうことするのはなかなか受け入れられない。家族の死、受け入れられなかったんだろうなとは思ってます。子どもは分かんないと思う。

制野先生:これから生きていかなきゃならないからね。俺は親と子のすれ違いとかっていうよりは、むしろ世代の考え方の違いなだけであって佑麻たちだっていずれ大人になれば同じようなことになっていくし。

祖母・功子:私、今、気づいたんですもの、10年経って。

制野先生:死を認められないっていうね。

祖母・功子:その気持ちなんだと思うのね。

制野先生:おばあさんはそうやって自分の気持ち整理をしようってしてるけど、本人はまた別な段階の整理の仕方をたどってるんだよね。

母親がわりになってくれた祖母へ…

祖母・功子さんは、孫たちを10年間、育ててきました。でも実は、弁当づくりや身の周りの世話をいくらしても、母親の代わりにはなれない、そんな葛藤を抱えていたと言います。初めて孫の前で明かした思い。佑麻さんが祖母・功子さんにかけた言葉は・・・

髙橋功子さん

制野先生:おばあさんだってお母さんの役目を2回しなきゃいけないっていうね。

祖母・功子:震災前は生活一緒にしてなかったから、私たちね。

制野先生:朝早く来て夜。

祖母・功子:夜は泊まるんです。泊まって、朝、孫たちを学校出してから自分の家に行って。旦那(佑麻さんの祖父)もいるしね。またこっちに夕方戻ってっていう感じ。そしてまた泊まって。

制野先生:そしたらおじいちゃんだって大変だったよね。

祖母・功子:じいちゃん今でも1人で。

制野先生:おじいさん逆に寂しがってんじゃねえか?

佑麻:だと思います、むしろ。

制野先生:先生、おじいさんの立場だったら、寂しいなって思うのね。ボケてなくてもボケたふりするかもしれない。

佑麻:なるほど。

祖母・功子:やっぱり孫だからね、誰かが世話しなきゃいけないもの。もう夢中だったね、本当に。ただこの人たちを育てなきゃいけない。ご飯食わせて弁当を詰めて、ただ使命感で動いてたような。愛情も感情も何にもなかったかもしれない。だから申し訳ないなと思ってるね。

佑麻:いや、全然もう。何かしてくれるだけでありがたかったから、そんな申し訳ないとか思わなくていいかなとは思う。

祖母・功子:でも本当にもっともっとしてやりたいこといっぱいあったけどもね。本当にご飯食べさせて洗濯してとか。そんなことぐらいしか。

制野先生:普段、我々だって例えば実のお母さんだとしたって愛情なんてそんな大それたものは表立って表現しないけど、だけどご飯作ってやるとか洗濯するとか掃除するとかそういうのでしか伝えられないじゃないですか。

祖母・功子:私がしたのを少しでも覚えていてもらえればいいかななんて思うんですよ。

制野先生:忘れないでしょう。一生ものですよ。

祖母・功子:震災でもいっつも私、こんなこと言ってる。本当に不公平かもしれない、悪いかもしれないけど、お母さん亡くした子どもっていうのは大変だなって思うの。お父さんが育てるのも大変だし、周りが結局見てあげなきゃ。

制野先生:そうだよね、そうだよね。

祖母・功子:いつまでも経ってもそれから抜けれない。大切なお母さんっていうのは、そのぐらい大切なんだろうなって思います。お母さんの代わりは私たちもできないんだ。おばあさんだってなんだって。でもな、いくらかの足しになりたいなっていう気持ちはやっぱり抜けないからね。なんだか。つらいところだよね、それは。

制野先生:子供にしてみればね、やっぱお母さんと、何だろ。どうしても比較したりとか、こうだったとかって思っちゃうんだろうけど、でも、なんとかかんとか埋め合わせしてくんじゃないですか。そのぽっかりあいた穴っていうのは、おばあさんで半分、誰かで3分の1、誰かで4分の1とかって、少しずつ穴埋めしていって、まあその先にはやっぱ自立しなきゃないわけだから。

祖母・功子:そうですね。

制野先生:いつまでもね、親に頼ってられないっていうのはみんな共通だから、ただその時期がな、早すぎたもんな、佑麻たちはね。突然だったしね。そりゃ先生も簡単には言えないけど、いずれ自立して別な形で穴埋めしていくしかないなと思うな。穴埋めってなかなかできないかもしれないけどな。

祖母・功子:そうだね。

制野先生:そしたら佑麻もやっぱり自立しなきゃいけないな。

佑麻:そうですね。それは確かに。

祖母・功子:佑麻にも言われんの。ばあちゃんいいよって。してあげる、俺するからって。今、家にいるから家のこともいいよって言われるけども。

制野先生:・・・。まあ、でもちょっとあれだな。おばあさんもそろそろおじいさんに。

佑麻:まあ、そうですね。

制野先生:返還の時期かも分かんない。

佑麻:そう思いますよ。

髙橋佑麻さん

制野先生:佑麻も多分同じ思いかな、なんてのは思ってはいるんだけど。おばあさんにとってはでもね、本当にあっという間の大変な。大変な10年だったね。

祖母・功子:今まで夢中で来たから、何もしないで何もぼーっとしてると、こんなに日長いのかななんて、日長く感じることもたまたまあるんですね。逆にそういう余裕出てきたから。まあ一生、亡くなった家族のことを忘れたらね、申し訳ない。申し訳ないっていえばおかしいけども、忘れたら本当に死んだ人、また死んだのも同じになってしまうから忘れられないけどもね。二度死んでしまうものね。やっぱり一度は死んでも、やっぱり自分の心には生かしておきたい。そういうことだね。

制野先生:そうだね。2回は死なせられないよね。忘れてしまうとかさ。それはダメだよね。

祖母・功子:私はそう思ってるの。だからお墓参りも行くし、そう思ってるのね。そして生きて、まあ生きられるうちは生きていこうと思ってます。

制野先生:おばあさんも自分の体調まず第一にね。孫たちやるから。

佑麻:やります、さすがにね。確かに。いや、でも改めて感謝の気持ちが大きいですかね。(祖母は)自分は力及ばなかったみたいなふうに言ってて、それでも少しでも、代わりにはなれないけどお母さんの代わりに少しでもなれるようにみたいに言ってもらってたというのは、その気持ちはやっぱりちゃんと感じれてたし、そんな僕たちに何もできなかったみたいに思わないでほしいなって思いますね。本当にやってくれる、いてくれるだけでもう本当によかったので。

祖母・功子:何にもやれなかったものね、夢中だったし。

制野先生:でもいてくれるだけでよかったって。

祖母・功子:ありがとう、本当に。

制野先生:まあこれからもまだ続くので。関係はね。

祖母・功子:そうですね、ずっと続きますね。

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