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ヨーロッパ初の移民・難民の遭難者データベースを作った法医学者

20歳前後の若者の遺体。着用していたTシャツには故郷の砂が詰まった小さな袋が結い付けられていました。

別の少年の遺体のジャケットの内側には、西アフリカ・マリ共和国の中学校の成績通知表が縫い付けられていました。

それらは、アフリカからヨーロッパを目指して古い漁船に乗り、遭難で命を落とし、1年以上放置されたあとに引き揚げられた移民たちの遺品です。

どこの誰かもわからないまま埋葬された遺体から移民たちの身元を特定して、100組もの遺族と引き合わせてきた法医学者への取材から、人間の尊厳について考えました。

(報道局 政経国際番組部 ディレクター 池田亜佑)

放置される「アイデンティティを欠いた遺体」

書店でふと手に取った本の帯の文章に、私はドキリとし、引き込まれました。

「アフリカや中東からの移民をいっぱいに乗せたボートが転覆し、多くの名もなき死者が埋葬されているというのに、世界の法医学コミュニティはまばたきひとつしていない。アイデンティティを欠いた遺体をそのまま放置しておくことがなにを意味するのか、じゅうぶんすぎるほど知っているはずの人たち、ほかのたくさんの災害に際しては、他人を押しのけてでも救助の手を差し伸べようとした人たち、そんな『私の』コミュニティに属す誰ひとり、指一本動かそうとしなかった。」

(『顔のない遭難者たち 地中海に沈む移民・難民の「尊厳」』より)

本の著者で法医学者のクリスティーナ・カッターネオさんは、アフリカや中東からの移民がヨーロッパの入口として目指すイタリアで、国内の事件や事故の被害者の解剖や分析に関わってきました。イタリアが面する地中海は、実は最も死の確率が高い“世界一危険な海”としても知られています。IOM(国際移住機関)によると2014年以降、死者行方不明者は少なくとも2万8千人に上るといわれており、たびたびニュースで報じられています。しかし、日々のニュースで伝えられる遭難した船の犠牲者たちの遺体が、その後どう扱われているのかを知る機会はほとんどありません。

ディレクターの私自身、遭難事故の報道に従事することはあっても、その犠牲者の遺体のゆくえについて立ち止まって考えたことはなかったという事実を突きつけられました。一方で、家族の行方がわからないことが、残された人たちにとってどれほどつらいことなのか。東日本大震災で行方不明者のご家族にお話を伺った経験が、私の心にも刻まれていました。

ヨーロッパを目指す途上で命を落とした人たちの“人生”を知りたい。私はカッターネオさんへの取材を進めました。


『顔のない遭難者たち 地中海に沈む移民・難民の「尊厳」』クリスティーナ・カッターネオ著、栗原俊秀訳、岩瀬博太郎監修、晶文社

移民・難民の遺体の身元特定に動き出す

ミラノ大学が運営する法医学に関する小さなミュージアムで私たちを出迎えてくれた、カッターネオさん。彼女が遭難した移民の遺体に目を向けたのは、2013年と2015年、立て続けに数百人が犠牲となる事故が起きたことがきっかけでした。

ミラノ大学法医学部 クリスティーナ・カッターネオ教授
地中海で遭難した人たちの遺体。その多くは、イタリアやスペイン、マルタなどの海域で引き揚げられます。しかし、出身国を離れて移動の最中にあったこうした遺体の扱いについて国際的な決まりはありません。イタリアでも、遺体の多くは単に数として記録されるのみで、個人情報などが記録されたり公開されたりすることもなく共同墓地に埋葬されるか、検察や研究機関で保管されてきました。

2013年春、カッターネオさんは赤十字国際委員会で働く知人から、「ヨーロッパで暮らす移民や難民から、家族が海を渡ってきているはずなのだが連絡がつかないという問い合わせが増えていて、どう対応したらいいのか困っている」という相談を受けたといいます。この時に初めて、イタリア人ではない、命を落とした移民たちの遺体を取り巻く状況について知ったといいます。しかし、当時の状況で出来ることはほとんどありませんでした。

遺族から寄せられた“ありがとう”のことば

2013年10月、イタリア南部のランペドゥーザ島沖合でおよそ600人の移民を乗せたボートが転覆しました。犠牲者の多さから大きな注目を集めたこの事故に際し、検察は、引き揚げられた366体の遺体の詳細な情報を取りまとめました。しかし、最終的に身元を特定するには、遺族らの情報と照合する必要がありました。

船に乗っていた移民や難民たちの家族はどこにいるのか?どうやって連絡を取ればいいのか?移民の中でも特に祖国からの迫害を逃れる難民の場合は、出身国の政府が責任を持って遺体の身元調査に協力してくれることは考えられません。

ヨーロッパに渡った移民や難民たちが、海を越える家族の安否を気遣っている事実を聞いていたカッターネオさんは、大学の研究所の仲間たちと、遭難者の身元特定に向けて動き始めました。しかし、周囲の法医学者などから予想外の反応を受けたといいます。

カッターネオさん

「最初の反応は『移民や難民の家族は遺体を捜していない、ほかに問題を抱えているから』というものでした。彼らには、自分たちと同じように追悼し悲しむ感情に浸る必要性がないというのです。『難しすぎる、不可能だ』とも言われました。」

長年、行方不明者の家族と向き合ってきたカッターネオさんが考えたのは、遺族のことでした。家族が生きているのか死んでいるのかわからない状況が続くことは、「あいまいな喪失」と呼ばれます。その精神状態がいかにつらいものであるかを、実感を持って知っていました。

「お金も手段も限られ、方法がわからなくても、とにかくやってみよう」。カッターネオさんらは決意をかためました。自らが所属する法医学の研究所を窓口に、各国の大使館や国際赤十字などを通し、犠牲者の出身国とみられる国の人々に調査を行っていることを周知。DNAの採取や聞き取りを行っていることを伝えました。

犠牲者の出身国とみられる国の人々へ周知し調査

さらに、ヨーロッパで暮らすアフリカや中東出身の移民たちへも、思い当たる人は問い合わせてほしいと、様々なルートを通じて呼びかけました。反応がどれほど来るのかわからずに始めた取り組みでしたが、結果は想像を超えるものでした。
 
最初に面会を行った2014年10月からの1年半で、ドイツ、スイス、スウェーデン、ノルウェーなど、ヨーロッパ中から、「犠牲者のなかに自分の家族がいるのではないか」と考えた人たち、計70組、160人が集まったのです。中には、カッターネオさんの研究所の入り口のベンチで寝泊まりをしている人もいました。大切な人の消息を少しでも早く知りたいという人々の思いを痛感したといいます。

最初の2か月で、身元の特定ができたのは9人。その後も現在にいたるまで、カッターネオさんらは寄せられた問い合わせと身元特定の取り組みを続けています。

カッターネオさん

「人々の反応は、“ありがとう”ということばでした。“真実を届けてくれてありがとう”と。訪れたすべての人たちが、死者の特定に役立つと考えたものをポケットやバッグいっぱいに詰めていました。それだけでも、移民の遺族たちが犠牲者を捜していることを、十分に証明したと思います。」

遺品が伝える“私たち”と同じ人生

さらに、2016年夏、1隻の古い漁船が地中海で引き揚げられます。2015年4月、リビアを出発して数時間後に転覆したこの船。定員30名ほどの船内に約900人の移民や難民が乗り込み、生存者はわずか28人でした。

引き揚げられた船

872人の死者・行方不明者のうち、船内と、その周辺の海域に残されていた遺体は、527名でした。海中に1年以上留め置かれていたことなどから、損傷が激しくなっていました。

身元の特定に向けてカッターネオさんたちは、遺体と遺品を丁寧に整理・分析していきました。20歳前後の若者の遺体が身に着けていたTシャツに結い付けられた小さな袋に気づいたとき、カッターネオさんは当初、「ドラッグ」ではないかと当惑しました。

しかしそれは、故郷の土でした。アフリカ、特にエリトリア出身の移民に、よく見られる行為なのだと知り、カッターネオさんは、自らが知らず知らずのうちに抱えていた“偏見”を恥じたといいます。

ほかにも、少年の遺体のジャケットの内側には、西アフリカのマリ共和国の中学校の成績通知表が縫い付けられていました。

遺品の中から見つかったマリ共和国の中学3年生の成績通知表

トレーナーやバンダナ、十字架など、遭難者たちが最後に身に着けていた多くの遺品。中には「海を渡らないで」と家族から送られた手紙もありました。

16歳ころとみられる少年の遺体が身に着けていた手紙
カッターネオさん

「個人の所有品は、非常に雄弁です。触れたとき、この人たちが“人間である”という事実を突き付けられます。彼らはまさに私たちなのです。彼らがポケットに入れているものは、私たちとまったく同じものだったのです。」

数か月をかけて整理した遺体の情報や遺品の数々。カッターネオさんらはそれらを研究所で管理し、身元の特定に向けた調査を続けています。その後、イタリア政府とも連携してヨーロッパで初めての移民・難民の遭難者向けデータベースを創設し、引き揚げられた遺体のDNAなどの情報と、家族の情報を照合できる仕組みも作りました。これまで、500組以上の家族から問い合わせがあり、およそ100体の身元を特定することができたといいます。

“あの人たち”の死を“私たち”の死と同じように

今年6月にもギリシャ沖で500人以上が犠牲となった遭難事故が起きるなど、今も地中海で命を落とす移民や難民は増え続けています。移民や難民も一人一人が家族や希望を持つ“人間”であることを、私たちは無意識のうちに忘れていないか。

地元ミラノで開かれた市民との対話の場に登壇したカッターネオさん。集まった人たちに、こう問いかけました。

集まった市民に向けて語りかけるカッターネオさん
カッターネオさん

「ウクライナでは、いまヨーロッパをあげて犠牲者の身元特定が進められています。戦争が始まって2週目に、私にも協力依頼が寄せられました。“自分たちに似ているかどうか”で、誰の身元を特定するか選別されているようです。それを考えることは恐ろしいですが、認めざるを得ないと思います」。

今年6月、ミラノの劇場で、カッターネオさんの経験をまとめた著書を元にした朗読劇が1週間にわたり上演されました。

映像も交えて演じられた朗読劇

平日夜にもかかわらず会場は満席。観客は、カッターネオさんの問いかけを、受け止めているようでした。

観劇に訪れた30代男性
観客の男性

「胃をこぶしで殴られたような痛みを感じました。映像や言葉が強烈でした。」

観客の女性

「人々は戦争や抑圧に苦しんで逃れてきているのだから、(いまの状況は)非人道的です。地球は皆のものです。」

カッターネオさん

「人々が『(身元特定は)難しい』と言うとき、それは『移民は“私たち”じゃない。なぜ煩わされなければいけない?』という意味です。あまりにも明確でひどい差別であり、人権の冒とくです。私たちの多くが無自覚であることを、科学は浮き彫りにします。私たちは誤っていることを認識し、正す責任があるのです。」

「私が相対しているのは『人間』の名で呼ばれるすべての存在」と、カッターネオさんは話します。貧しい人でも、豊かな人でも、地位がある人でも、誰にも知られずに亡くなる人であっても、一人一人に物語があり、尊厳がある。カッターネオさんの、遺体を扱う手元とまなざしが、法医学者としての厳しさと同時に、とてもやさしいのが印象的でした。

取材後記

「人間としての感情は、国籍にかかわらず誰にとっても共通である」という当たり前の事実。日々の報道の中で“難民”や“移民”としてひとくくりに伝えているうちに、私たちはそれを無意識に忘れてしまっていないか。カッターネオさんの実体験に基づくことばは、私の心にぐさりと刺さるものばかりでした。

カッターネオさんによると、この取り組みで得られた死亡証明書によって、父親が地中海で遭難し遺児となった子どもが、ヨーロッパで暮らす親せきのもとに引き取ってもらうことができたケースも少なくないそうです。心のケアという面での意義とともに、遺族の将来を切り開くという面においても、遭難した難民や移民がどこの誰なのかをきちんと把握・確認する必要性は大きいと、カッターネオさんは指摘していました。

NHK BS1 国際報道 2023「海を渡る難民・移民に“生きた証”を」6月28日放送

ヨーロッパを目指す難民や移民の多くが、海を渡る過程で犠牲となる一方で、彼らへの対応は年々厳しさを増している。こうしたなか、イタリア人の法医学者、クリスティーナ・カッターネオさんは、ヨーロッパ初の移民・難民遭難者向けのデータバンクを創設。その経験を記録した著書の日本語版が昨年出版された。当時の記録やカッターネオさんの言葉を手がかりに、これまで光が当たらなかった難民問題の側面を描く。

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