にっぽん縦断 こころ旅
令和元年7月16日
火野 正平 様
チャリオ くん
スタッフの皆様
京都市 金子 武紀(たけのり)(76歳)
「森の小人(こびと)とお地蔵さん」
拝啓 いつも拝見し、我らが高齢者代表「正平さん」の言動にニンマリとしながら、チーム正平への「追い風」のつもりで応援しております。
さて、私の「こころの風景」は、50年前に「村の駐在さん」として赴任した、京都府内の山間地域「美山町平屋」における
①「深見トンネル付近の紅葉と杉木立(すぎこだち)のコントラストの美しさ」と
②「平屋駐在所裏の平林寺(へいりんじ)前にあるお地蔵さん」であります。
昭和44年、美山町の駐在所への赴任を突然命ぜられましたが、町の交番巡査だった私は美山町を知りませんでした。そこで先ず「地図」で美山町を探しますと、美山町は、正平さんが嫌うところの「濃い、濃い茶色に彩(いろど)られたいかにも山間地」の様相を呈しており、しかも美山町への交通は電車が無く、京都駅からバスで、峠を幾つも幾つも越え、3時間もかけてようやく到着する大変なところでありました。
(現在は各峠が殆どトンネル化しており、通行時間も2時間足らずに短縮)
赴任途中のバスの中で、京都市内育ちの妻が涙ぐむのを慰め励ましながら、美山町への最後の峠「深見トンネル」付近に差し掛かりますと雪が残る道路(国道162号線・周山街道)の両側に、真っ直ぐに聳(そび)え立つ杉の木立(こだち)が美しく、今にも森の中から、あの白雪姫に仕(つか)える「こびと達」が躍り出て来そうな美しく幻想的な雰囲気に、私達夫婦は揃って感嘆の声を上げてしまいました。この幻想的な「杉木立(すぎこたち)」と「秋の紅葉」は巡査夫妻の心を掴み、後日、何度も、二人で散策しながら「全ての親戚、知人をこの場所に呼んでこの美しい風景を見せてあげたい。」との思いを強くしました。そして私達は、一生懸命に地域の駐在夫妻として奮闘し、地域の皆さんとも仲良くなり、最初泣いていた妻が、やがて「あなた、もう一生(いっしょう)駐在所勤務しましょうね。」と言うようになりました。
しかし、大変だったのは、50年前の美山町には産婦人科の病院が無かったことでした。半年後、妻はお産に失敗しました。男の子を死産したのです。
私達は、駐在所の裏約200メートルにある無住寺「平林寺」の手前にある祠(ほこら)のお地蔵さんを、「死んだ息子」として拝むことにしました。
そして間もなくして妻は再び身ごもりました。先のお産に懲りた私達は「やはり産婦人科の医者に掛からなければ」と思いましたが、一番近い産婦人科のある病院は、約20キロ離れた隣町の「和知診療所」でした。当時の巡査の安月給では大変でしたが、ここは無理して中古の軽四貨物車を購入しました。そしてこんどはオンボロ軽四車で当時はまだ舗装されていないガタガタ道を、時間を掛けて診療所へ通いました。一方で二人は毎日、毎日駐在所の裏の「お地蔵さん」へお参りしては「安産」を祈ったのでした。そのようにして十月(とつき)後、遂(つい)に次の男の子が生まれました。二人は嬉しくて嬉しくて、お地蔵さん、オンボロ軽四、助けてくれた地域の皆様等、もう、ありとあらゆる人(物)に感謝感謝でした。
その後、私達にとって、駐在所裏のお地蔵さんは家族の一員であり、何かにつけて、お祈りに行く大切な場所となりました。妻と二人でどんな遠くに引っ越しても万難(ばんなん)を排(はい)してお参りに行きました。ただその妻も6年前に亡くなりましてからは、やはり76歳の老人には遠い場所となり足が遠のき、お参りもご無沙汰がちであります。
正平さん、福井県境から国道162号線を約30分京都へ南下した所ですので、是非お通りいただきまして、私達夫婦に代わってお地蔵さん(息子)に会ってやってください。
敬具。
京都市
金子武紀さん(76歳)からのお手紙