クローズアップ現代 メニューへ移動 メインコンテンツへ移動
2024年1月31日(水)

能登半島地震1か月 暮らしの再建は今 輪島朝市の人たちの選択

能登半島地震1か月 暮らしの再建は今 輪島朝市の人たちの選択

千年を越す歴史を持つ輪島朝市は地震で300棟が焼失したとされます。その11日後、取材班は輪島朝市に入り、商店や食堂、輪島塗の販売店を営む人たちを取材。120を超える工程がある輪島塗は職人が一人欠けても産業が成り立たず、漁は海底が隆起したため再開できません。厳しい避難生活を強いられる上に、先行きの見通しが立たず故郷に残るか離れるか、選択を迫られていました。八方ふさがりの中でも再起を図ろうとする人たちの記録。

出演者

  • 丹波 史紀さん (立命館大学教授)
  • 桑子 真帆 (キャスター)

※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。

輪島朝市の1か月 焼失・損壊した朝市通り

地震発生から14日目。
朝市通りでは、安否不明者の大規模捜索が続いていました。
立ち入り禁止とされた場所で、押し問答している男性がいました。

朝市通りで食堂を営んでいた 中道肇さん
「こっち側に(自分の)店があったんですよ。この中に。焼け残っているものがあるかないか見たいんですけど、いつになったら入れるんですかね?」

食堂を営んでいた中道肇さん。店の中に残されているものがないか、探しに来たといいます。

360メートル続く通りに商店や出店が並んでいた輪島朝市通り。中道さんの店は、その真ん中にありました。

朝市で買った魚なら持ち込みも自由。さばいて、刺身にして出してくれる人気店でした。

取材班
「何かありましたか?」
中道肇さん
「何もない。ただ焼け跡だけ」

7年間営んできた店は跡形もなくなっていました。

中道肇さん
「全然もう無理。瞬間的に無理。これはショックでかいですよ。今後いったいどうすりゃいいの」

中道さんの自宅は、朝市通りのほど近くにあります。

扉には、応急危険度判定で「要注意」を示す、黄色の貼り紙。

中道肇さん
「裏のほうの家は倒壊しとるんですよね」

両隣の木造住宅が倒れ込んでくる恐れがあるため、「要注意」判定となりました。
石川県全体で「要注意」判定の数は、8,790戸。立ち入ることが「危険」とされた赤色の判定は、1万2,615戸に上りました。

建物の応急危険度判定(石川県)
・要注意 8,790戸
・危険  12,615戸
中道肇さん
「何も出ない。給水所からもらってきた水」

中道さんの自宅は断水が続いていました。

それでも輪島に住み続けたいと考えている中道さん。今、思い出されるのは、朝市通りを人々が行き交い、言葉を交わす光景です。

中道肇さん
「地震前から必ず朝市通りを撮って『おはよう』って。朝出てくるおばあちゃんとか顔なじみですよ、みんな。『おはよう』って形で出てくるから。乳母車押しながら。みんな笑っとる。向かい同士でしゃべりながらゲラゲラと、おるのが楽しみで。その方々が大体10数人亡くなった」

先の見えない避難生活

朝市通りの中心にある焼け焦げたビル。

漆器店 店主 塩山浩之さん
「穴だらけのあれが自宅兼ビル。絶望ですよね」

ここに毎日通っているのが、輪島塗の店を営んでいた塩山浩之さんです。
自宅でもあったビルが火災で全焼。輪島塗の器や箸、商売道具すべてを失いました。
塩山さんは今、幼稚園の一角を間借りし、避難生活を送っています。

取材班
「こちらで寝ていらっしゃる?」
塩山浩之さん
「そうです」

食事は炊き出しや支援物資。疲労が蓄積し、インフルエンザにもかかりました。

塩山浩之さん
「自分が思っているよりも免疫力がおちていたのか。薬なしです」

避難生活がいつまで続くか分からない中、塩山さんは、今は先のことまで考えられないといいます。

塩山浩之さん
「まだ自分の中で整理できていないんだなっていうのがわかりますね。寝てても錯覚を起こすときがあって、避難して休んでいるんですけど、自分がどこにいるのか分からないような感覚に襲われるときもあります。不思議ですよね。いまだに焼失した、失った感覚がまだない」
塩山浩之さん
「こことこちらは漆器屋さんですね」

塩山さんが携わってきた輪島塗もまた、先行きが見通せない状況にありました。
日本を代表する伝統工芸、輪島塗。その特徴は、1つの漆器を作るだけでも120を超える工程に分かれていることです。
しかし、輪島全体で1,000人を超す職人のほとんどが被災し、ばらばらに。一つの工程が欠けても成り立たなくなるため、産業再開のめどが立っていません。

塩山浩之さん
「たった1軒、漆器屋さん1店舗だけ残っても、なかなか輪島塗として復活するっていうのは難しい。一番は、携わるすべての人たちが前向きに思えるようになって初めて『じゃあ、やってみよう』というふうになると思います」

故郷に残るか離れるか

地震から2週間がたっても、インフラの復旧の見通しが立っていませんでした。
そんな中、行政は、県の内外への一時的な避難を呼びかけていました。

朝市通りで食堂を営んでいた 中道肇さん
「えいちゃん、どうや?どっか出てっか?」
「俺もう津幡(金沢の隣町)へ行く。だって生活できんもん。まず自分の基盤作ってから戻ってくる」
中道肇さん
「俺は最後まで輪島残るよ」

朝市通りでも、輪島を離れる人が増えていました。

朝市通り商店店主
「明日、金沢行く」
中道肇さん
「気をつけて」
朝市通り商店店主
「ありがとう。お互いに」
中道肇さん
「いない、いない、いない。(連絡をとっている)メンバーの23人のうち13人は(輪島に)いない。あとの10人は避難所におる者と、自宅におる者は俺だけじゃねえか。次会えるかどうかって、それが一番の心配じゃないですか」

ここにもまた1人、輪島をいったん離れようとする人がいました。
親子3代で海産物の露店を開いていた南谷良枝さん。

海産物加工販売店 南谷良枝さん
「何年もかけて一生懸命働いて、やっと持つことができた夢の工場です」

干物などを作っていた加工場が被災。

南谷良枝さん
「いしる(魚しょう)の2トン樽(だる)なんですけど、底が抜けてしまって」

代々受け継いできた魚しょうのたるも壊れました。

南谷良枝さん
「これ何年後には魚しょうになる予定やった子たちです。言葉にならなかったですね」

震災前の南谷さん。
生まれ育った輪島を盛り上げようと、朝市の魅力を積極的に発信していました。

南谷さんのYouTubeより
「輪島の海塩で味付けしてますよ」

30年以上なりわいを続けてきた輪島を離れたくない。しかし、南谷さんは、輪島での暮らしに限界を感じていました。

南谷良枝さん
「大きな余震がきて夜も寝てられない状態で、まずは家族の命を守ること。身も心もちょっとボロボロ。ちょっとしんどくなってきている」

無事だった自宅で、母親や親族9人と避難生活を送ってきた南谷さん。インフラの復旧が思うように進まない中で、家族に及ぶ命の危険を考え、輪島を一度離れる決断をしました。

南谷良枝さん
「一歩外に出て、頭をクリアにして(輪島に)帰ってこようかなと思ってます。輪島の朝市は、私の原点です。本当は離れたくないですね」

生業再建なるか

一方、輪島に残ると決めた中道さんは、なりわい再建の道を探り始めていました。

朝市通りで食堂を営んでいた 中道肇さん
「ここ(自分の)製塩所なんです。もうぐちゃぐちゃです」

中道さんが食堂と共に営んでいた、塩作りを行う工場。

中道肇さん
「ちょっともう、いちから作り直しって感じですね。電気が通ったらしいんですけど、果たして動くか動かないか」
中道肇さん
「(電気が)きとる、きとる、きとる、オーケーや。これはラッキーや本当に」

塩作りに欠かせない特注の電熱器は無事でした。
しかし、別の問題が。

輪島港は、地震で海底が隆起して水深が浅くなり、半数以上の船が出港できなくなっていました。塩の製造に必要な海水をくみにいけないどころか、朝市の名物だった海産物も、とれるめどが立ちません。町全体の復興が進まない限り、朝市も復活出来ないのではないか。中道さんは、そう感じるようになっていました。

中道肇さん
「漁師さんが活発に動かないことには、観光の街として食べるものがメインですから。『私たちが生きとる間に輪島は良くならんわね』みんなそういう考えでおるんやから。これどうすんのって、どうもできんやんか、実際に」

地震からおよそ3週間。公的支援が十分に行き届かない中、人々は自力で復興の道を模索し始めていました。
輪島塗の店の代表、田谷昴大さん。自宅や工房が全壊し、家族で金沢に避難しています。
この日、輪島に戻り、かろうじて残った店の倉庫から漆器を運び出そうとしていました。

「ちょっと中、一回確認したほうがいい」
「割れとらん。昴大、割れとらんぞ」
漆器店 代表 田谷昴大さん
「あー、良かった」

製造再開の見通しは立ちませんが、無事だった漆器をオンラインなどで販売しようとしています。

田谷昴大さん
「本当にたくさんの人の手間暇と努力があってできあがっているものなので。復興の0.000何歩くらいの感じです。まだまだ先なので、一歩いかないですね。でも生きてて良かったです。この漆器たちが」

さらに、田谷さんは輪島塗のクラウドファンディングを立ち上げました。漆器の生産を受注し、他の漆器店や職人に仕事を分け合う取り組みです。田谷さんは人とのつながりを頼りに、なりわいを立て直そうとしています。

田谷昴大さん
「あれがギャラリーです」

田谷さんは、今月、朝市通りに輪島塗のギャラリーを開く予定でした。建物は全焼しましたが、もう一度この場所にギャラリーを建て直そうと考えています。

田谷昴大さん
「朝市なくなると輪島じゃないって思うくらい、朝市って僕らの中じゃ大事な場所。いま自分たちができることって、輪島塗を通して復興に貢献することなので、地震に負けてないよ、みたいなところを発信していきたい」

朝市の灯 絶やさぬ

地震から23日目。
朝市の中道さんは、2時間半かけて輪島から100キロ離れた金沢へ向かっていました。避難でばらばらになっていた朝市の仲間が、金沢で集まることになったのです。

「みんなハグや」
「ヒゲ生やして」
中道肇さん
「だって、剃(そ)る水がねえ」
「(会うのは)12月30日の朝(ぶり)」
中道肇さん
「もう顔忘れとったもん」

今回の再会には、もうひとつ目的が。
金沢の港で避難する仲間を中心に、加工や販売を再び始めようというのです。

港の関係者
「当社のほうで、ここが使えるのではないかなという場所とか、こんな使い方もありますよ、というご案内をしていきますので」

作業や販売ができる場所を提供してくれるという申し出がありました。
輪島をいったん離れた南谷さんの姿もありました。

「こんだけスペースあるとなんでもできるね」
輪島をいったん離れた 南谷良枝さん
「発送伝票も作れるし、荷造りできるね」

南谷さんは、金沢にしばらく生活の基盤を置くことを考え始めていました。

南谷良枝さん
「すぐにでも仕事始めたいんで、早く加工したい。おばちゃんたちも一緒にやろうって言ってくれとるし。本当は輪島に帰りたいんですけど、しばらく10年くらいは金沢なのかなと思っていて」

いつか輪島で朝市を復活させるために、中道さんたちは行政にかけあったり、義援金を募るなどして、朝市再開を模索し始めました。

中道肇さん
「どんなふうになるか分からないけど、次につなげればいいわけで、だから、この人らの『朝市の灯を消さないんだ』という気持ち。(朝市通りは)場所じゃなくて人。みんな朝市通りと言うけど、実は人なんですよ。人がつないでいくもので。(朝市の)風景って、もうなくなっちゃったけど、何年後か、またその格好になれば、それまで、どこでもいいからやっとれば必ず(輪島で)復活すると思いますし、つなぐこと、これをやめたら終わり」

暮らしと生業の再建は

<スタジオトーク>

桑子 真帆キャスター:
今夜は、被災者の生活再建について研究をしていらっしゃる丹波史紀さんをお招きしています。丹波さんは、東日本大震災のその後の暮らしを、原発被災者の方の取材を中心に調査していらっしゃいますけれども、今回の震災から1か月になる皆さんの様子を見て、どういうことを感じていらっしゃいますか。

スタジオゲスト
丹波史紀さん (立命館大学 教授)
被災者の生活再建に詳しい

丹波さん:
まず、震災から1か月、壊滅的な被害の中で地域を支えてきた方々の喪失感が非常にうかがえました。震災から1か月たって、張り詰めた緊張感から徐々に生活を取り戻していこうとしている段階だと思います。ただ、過去の災害の経験でも、こういった災害直後の張り詰めた状況から、徐々に生活が取り戻していく中で、途方に暮れてしまうとか、先行きが見えないということで、喪失感とか虚無感がさらに増してしまうなんていうことがあります。ですから、震災から1か月たったんですけど、これからのサポートが本格的に大事になってくると思いますね。

桑子:
現在の避難の状況を見ますと、今回特徴的なのが、行政が進めている2次避難というものです。行政は、県内外のホテル、旅館などへの一時的なもので、必ず元に戻れるとしていますけれども、実際に2次避難をしている方は4,792人と、受け入れ態勢に対して15%ほどということになっています。この2次避難については、どのように考えていらっしゃいますか。

丹波さん:
災害から命を守る上で、2次避難というのは1つの選択肢だというふうに思います。一方で、住み慣れた地域を離れることになりますので、孤立感を深めやすくなってしまうんですね。ホテルや旅館に2次避難というのが多いと思いますけれども、必要な情報だとかサポートが滞りがちだという声も聞きます。2次避難をしたから安心ということではなくて、これからの生活再建に向けて、必要な情報提供だとかサポートを丁寧に今後していくということが孤立感を深めないうえでも大事だと思います。

桑子:
国は今回、支援策の案として、まさに「生活再建」に加えて、「なりわい再建」、「災害復旧」の3つの柱で支援金を出したり、補助を出したりといったことを、今、考えています。こうした中で、今後の支援のポイントとして丹波さんが提唱していらっしゃるのが「複線型復興」というもの。これはどういうものなんでしょうか。

今後の支援のポイント
複線型復興

丹波さん:
東日本大震災、特に原子力災害で、長期にわたって避難を余儀なくされた方々の生活再建を考えていくうえで、単線ではなくて複線型の、それぞれの方々の状況に応じた生活再建を目指していこうという考えから生まれたものです。こういった長期避難を余儀なくされる状況においては、生活再建の被害の状況、スピード、それも被災者の方々それぞれ異なってくると思います。行政は、こういったスケジュールを立てて、復興計画を作りがちなんですけど、被災者の置かれた状況、環境というのは異なりますので、そのお1人お1人の生活再建の進度、スピードに丁寧に対応していくことが大事。政府もいろんな被災者生活再建の支援パッケージを示しています。こういった必要な情報提供をすると共に、被災者の方々がきちんと自分たちが生活再建をするための選択をすることができるように、丁寧な対応をしていく必要が、これから大事になってくると思います。

桑子:
ありがとうございます。今、お話にもありましたが、被災した方それぞれに事情や思いがあります。時間の流れ方、感じ方もさまざまです。自分は自分のペースでいいんだ、そう思えるような支援の在り方、その先に復興というものが見えてくるように思います。

それぞれの歩み

火事で店と自宅を失った、漆器店の塩山さん。
この日、発行したばかりの、り災証明書を手に銀行を訪れました。

漆器店 店主 塩山浩之さん
「燃えてしまった普通預金の通帳の再発行を」

生活を再建するための手続きを少しずつ進めています。

「すみません、お待たせしました」
塩山浩之さん
「お体に気をつけて」

この日も、塩山さんは店と自宅の写真を撮りに行きました。

塩山浩之さん
「今日がなかったら明日がまずないので、今日があって、明日があって、その一日を無事に生活できれば次の日がくるので、個人的には、その繰り返しを続けていきたい。いつかは、あんなこともあったねって思えたらいいなと」

それぞれの場所で、それぞれの歩みを進める朝市通りの人々。
能登半島地震から2月1日で1か月です。

見逃し配信はこちらから ※放送から1週間はNHKプラスで「見逃し配信」がご覧になれます。

この記事の注目キーワード
災害

関連キーワード