密着! としまえん 最後の夏
「史上最低の遊園地」「プール冷えてます」など、斬新なキャッチコピーで世の中を驚かせ続けてきたとしまえんが、8月31日、閉園。番組では、コロナ禍で迎えた最後の夏に密着した。出会ったのは、としまえんに亡き父との思い出を重ねる人や、新たな人生の目標をプールのスライダーに見出した人たち。中高年中心に多くの人が自らの人生と重ね合わせて閉園を惜しんでいた。
94年間、まさに時代とともに歩んできたとしまえん。その最後の日々を記録した。
出演者
- 太田光さん (爆笑問題)
- 武田真一 (キャスター) 、 合原明子 (アナウンサー)
94年間 どんなときも 笑いと元気を
武田:きのう惜しまれながら閉園した、としまえんに来ています。太田さん、シンボルである「カルーセルエルドラド」、回転木馬に特別に入れていただきました。幼いころに何度も乗ったことがあるんですね。
太田さん:何度もということないけど、何回は乗ったことがありますね。これが多分サッチーが乗ったやつだと思うんですけど…。
武田:そうですね。野村沙知代さんが。
太田さん:ちょっとへこんでますからね。
武田:へこんではないですけどね(笑)。
太田さん:まさか「カルーセル」だとは思わなかったね。フルネームで聞いたことない。「エルドラド」とは聞いたことあるけど。カルーセル麻紀さんとは何か関係があるんですか?
武田:じゃなくて(笑)。
合原:とても歴史がありまして、113年前にドイツで造られて、その後、アメリカに渡り、セオドア・ルーズベルト大統領や、あのマリリン・モンローも乗ったと言われています。日本に来たのが1971年。購入額1億円と言われています。
太田さん:すごいよね。
武田:昭和、そして平成、令和と幾多の時代の波を乗り越えながら、きのう(8月31日)まで続いてきたんですけれども、太田さんはこの閉園についてどうお考えですか?
太田さん:閉園となると最初に聞いたときは「ええっ」て。一応、田中(爆笑問題・田中裕二さん)は特に中野区だから、きょうも本当は来たかっただろうけど、あいつもはやりに敏感なんで。びっくりして、まさかなくなると思ってなかったけど。でも、忘れちゃうんだよね。別に今、閉園きのうされたっていっても、あっ、きのうだったの、ぐらいの感じで。
武田:しばらくするとね。
太田さん:ディズニーランドが出る前はここがメインでしたけれども、あそこからちょっとね、いい気なもんで、こっちはなくなると「何でなくすんだ」と言うけど、「おまえが行かないからだろう」という話でしょう、恐らく。
武田:本当に人の心は移ろいやすいものなんですけど、やっぱり残したものもすごく多かったんです。
太田さん:思い出はあります、確かに。
武田:図らずも、コロナ禍という未曽有の危機の中で迎えることになった最後の夏。としまえんは、私たちにどんなメッセージを残してくれたんでしょうか。
スゴ技!水面を滑走する中高年
最終日、私が驚いたのが…。
合原
「水しぶきがいっぱい飛んできました!」
「スライダーズ」という、およそ100人の愛好会です。こちらは会に入って間もない人。
合原
「水を切りながら。すごい速いですね。途中でちょっと落ちちゃいました。難しいんですね。」
しかし、数年間練習を積めば、ご覧のとおり。絶妙なバランスで10メートルほど水面を滑り、“上陸”できるようになるんだそうです。
さらに上達すると、こんな技まで。
合原
「速いですね、速い!何回転したんだろう。いっぱい回転した。」
合原
「なんのポーズでしょう?」
「大仏です!」
代表の松川啓一さん、52歳です。としまえんに通い続けて20年。最終日は、会社の有給休暇を使ってまで駆けつけていました。
松川啓一さん
「卒業式の朝とか、お葬式じゃないけど、そういう悲しい切ない気持ち。でもプラスすがすがしい気持ちがあり。最後までみんなで楽しくお別れをしたいと考えています。」
合原
「楽しくお別れできそうですか?」
松川啓一さん
「みんな泣いちゃうのかな。」
50代でも青春 かけがえのない“仲間”
スライダーに夢中になる松川さん。50代ならではの深いわけがありました。
松川さんは、バブル経済が崩壊したころに就職し、営業の仕事を続けてきました。厳しいノルマが課され、長時間、昼夜を問わず働く日々。精神的に追い詰められ、仕事を辞めました。
松川啓一さん
「朝礼して夜帰ってきて、そのまま会社で飲みに行くと。仕事大前提での毎日。毎日、胃が痛いというか。つらかったですね。」
同じころ、としまえんもバブル崩壊の影響を受け、入園者数は大きく減少しました。それでも、決してユーモアを忘れることはありませんでした。
1997年 CMより
“たっくーん。東京初めてだよね。どこ行きたい?ん?”
“お台場。”
♪窓の外には としまえーん
当時、居場所を失ったように感じていた松川さん。近所にあるとしまえんを訪れたとき、子どものようにスライダーを楽しむ人々と出会い、のめり込んでいきました。
松川啓一さん
「仕事ばかりしていたので、純粋にコミュニケーションを友達ととることもあまりなかった気がする。1つの目的とか目標で友達ができるようになって、共に楽しむという部分では、性格もいい方向に変わった。」
50代を迎え、体力の衰えを感じている松川さん。毎日トレーニングを重ねています。
松川啓一さん
「6.5秒くらいで(水面に)行っちゃうので、この状態をイメージして。大事なのが最後の、1・2のタイミングで起きる。」
「こんなお父さんを見てどうですか?」
娘 奈央さん
「頑張り屋さんだと思います。」
“家族をつなぐ庭” いつもそこにある場所
思い出を詰め込んだ帽子を作った、野村あずささん。
野村あずさ
「チカチカしようか。すごいでしょ。」
職業は帽子デザイナー。仕事の傍ら、週に3回も来ていました。
野村あずさ
「家がですね、あそこなんです。」
合原
「あのマンション。本当に近いですね。」
野村さんは、としまえんのすぐ隣に自宅があります。野村さんは小さいころからお父さんと来ていたそうですが、きっかけがユニークなんです。
大のゴルフ好きだった父の吉三郎さん。およそ50年前、としまえんにあったゴルフ練習場に通うのが目的で、このマンションを購入しました。
吉三郎さんが夢のマイホームを手に入れた1970年代。日本列島改造論が叫ばれ、マンションブームに。都心からほど近いこの地にも、マンションが次々と完成し、住民にとって、としまえんは庭のようになっていきました。
毎週末、ゴルフの練習に行く吉三郎さん。野村さんは、その帰りに遊園地に立ち寄るのが楽しみでした。
野村あずささん
「父は最期、家で亡くなったんですけれど、家から送り出すときに妹が、としまえんの見える場所で、父は上向いてるから見えないんですけど、ちょっと顔の布外して『お父さん大好きだったとしまえんだよ、また来ようね』って。何かにつけてはとしまえんで写真とって、何かにつけてとしまえんで遊んでという思い出の場所なので。」
2人の子どもがいる野村さん。毎年、年間パスポートを更新しています。
野村あずささん
「彼らの(やっている)ゲームを聞いても、私分からないんですよ。彼らの話も『としまえん』っていうキーワードで話ができる。私たちの共通言語です。」
すぐそこにある遊園地。閉園を間近に控え、改めてその大切さに気付きました。
野村あずささん
「家族ですよね。いつもいるのが当たり前。ふだんは気がつかないんですよ、当たり前だから。そんな場所かな。」
コロナ禍でも楽しい思い出を
としまえんといえば、おもしろい広告。
1986年 CMより
“あつい…。”
“プール冷えてます としまえん”
合原
「“史上最低の遊園地”“不快”。結構ポスターで『不快』って書くの勇気いりますよね。
こうしたクスッと笑える広告で、暗い世の中を明るく照らしてきました。
コロナ禍でも、その精神を貫き通そうとしていました。入社40年、内田弘さんです。
としまえん 事業運営部長 内田弘さん
「わたくしエルドラドで結婚式をあげました。」
人々を楽しませるために、何かできることはないか。世界初の流れるプールにも、こんな逸話があるそうです。
内田弘さん
「多摩川のほうに行って、社員の腰にひもをつけて流して、どれが一番気持ちいいんだということで、結果、一番心地いいい流れというのが毎秒1メートルということになったそうです。」
内田弘さん
「泥臭くて、おしゃれじゃなくて、おもちゃ箱をひっくり返したような遊園地です。みなさんの生活に密着した、いつでも来られる遊園地であったことは間違いなかったのかなと思いますので。『最後までどんな状況であっても、みなさんのそばにいましたよ』というのが、うちの役割。」
としまえん 事業企画部 小峯亮一さん
「キャッチ!はい、どうぞ。いいよ、1個持っていって。はい、おめでとう。」
最後の4日間、社員たちの発案で実施したのは、縁日でした。
小峯亮一さん
「祭りの雰囲気がない夏。でもとしまえんでは、それを少し味わえる。ちょっとお客様の気持ちが和めばいいなと思いますね。」
夏の風物詩・花火も、最後の2か月はお盆や週末に打ち上げました。
毎年、夏休みには離れて暮らす孫と一緒に訪れてきた、79歳の男性です。ことし(2020年)は感染予防のため、孫と会うことはできませんでした。それでもいつものように花火を打ち上げ、最後まで明るい気持ちにさせてくれた、としまえんに感謝していました。
石黒一さん
「毎日8時から上がって、音が聞こえるんですよ。パチパチパチくらいの音だけどね。本当に楽しかったですよ。」
コロナ禍で、大切な思い出ができた子どもたちもいます。修学旅行など、学校行事がほとんど中止になった地元の小学6年生たち。「卒業アルバムに載せる写真がない」と、思い出を作りに来たのです。
小学6年生
「移動教室とかなくなっちゃったので、思い出作りとかで。」
担任の先生がカメラマンを買って出ました。
担任
「わー、いい絵が撮れた!ハハハ。」
小学6年生
「遊園地が学校の中でも一番最初の最高の出来事になったので、すごいみんなうれしかったです。」
開園から94年。戦争、高度成長、バブル崩壊東日本大震災、そして新型コロナ。どんな時代でも楽しい思い出を残してくれるとしまえんでした。
子ども
「としまえん大好きです。」
「としまえん、ありがとう。」
いつまでも“らしさ”忘れない
閉園まで5時間。スライダーズの代表・松川さんは、この日、まだ一度もうまく上陸できずにいました。
「もう次が本当にラストです。」
松川啓一さん
「プレッシャー与えないでください。残り50年生きなきゃならないんだから。」
「松川!松川!松川!」
いよいよ、最後の滑りです。
見事、この日一番の上陸でした。
松川啓一さん
「あぁ泣いちゃった、やべえ。」
「ともに成長して、大きくなってこられた仲間なので、いつまでもずっといい関係でいられると思う。それはやっぱり、としまえんのおかげだとみんな思っていると思う。だから、ありがとう。」
としまえんのすぐ隣に住んでいる野村さん。手作りの帽子で、すっかり子どもたちの人気者になっていました。家族一緒に花火を見て、としまえんとお別れです。
野村あずささん
「小さい頃からとしまえんで写真を撮ってきて、写真に思い出が残りますよね。たぶん(帽子は)その延長です、私にとっては。閉園という大きい節目を(この帽子に)落とし込んで、思い出にしたいという気持ちがある。」
多くの人に惜しまれて閉園するとしまえん。この遊園地の最後らしいメッセージを見つけました。
“としまえんで育ったも同然 悲しい、ぴえん。”
“とか言って来年もやってるんでしょ!うそがへたくそ。だって、としまえんだもん。”
94年間 どんなときも 笑いと元気を
武田:としまえんと共にあった、さまざまな人の人生。木馬に乗りながら真剣な表情でご覧になる太田さんの姿も印象的だったんですけど。
太田さん:ラブホテルじゃないですよ。
武田:なかなかシュールな光景ですけれども(笑)。どうご覧になりましたか?
太田さん:おそらく惜しんでいる人たちは、われわれと同世代でしょう。俺も田中もラジオで、としまえんなくなるってビッグニュースだと思ったら、意外と若い人とか、武田さんだって、きょう初めて来ましたよね。何の感情もないって言ってたよね。
武田:私、熊本出身で…。
太田さん:意外と人によって、われわれにとっては大変な遊園地なんですよ。「泥くさくて」とさっき言ってたけど、それこそ俺の記憶もまあ曖昧になってるんだけど、子どものころここに来るっていうのはね、ディズニー以前は、としまえんといったら、エンターテインメントの圧倒的な場所だったから。ああいう自虐的なことやるようになったのはたぶん、ディズニー以降、だんだん遊園地ってそのものがちょっとさびれてくるというか。そういうふうにだんだんシフトチェンジしていった記憶がありますね。
武田:太田さんも、ジェットコースターなどに何回もお乗りになったと。
太田さん:俺は、中学校のとき、友達と2人で。1日フリーパスって3,000円だったんですよ。それでちょうどね、こういう船のバイキングとか、ああいうのができたころで。フリーパスでいくらでも乗れるのね。あのバイキングに13回乗って、全部に乗る。要するに元を取ろうということで全部乗って、2周か3周ずつ乗って、気持ち悪くなるんですよ。気持ち悪くなると、ジェットコースターに乗るのね。すとんと落ちて、また乗れるんだよね。それでまた乗るわけ。としまえんの乗り物って遠心力なんですよ、全部。回ってるの。壁に吸いついて床が落ちていく、無重力という乗り物があって、それをなんかぐるんぐるん回されて。結局、最後、家に帰ってげえげえ吐いた思い出があります。もう必ず吐く。
武田:だから“史上最低の、不快な遊園地”。
太田さん:でも、あんなに乗るばかいないけどね。それが中間テストの真っ最中で、明くる日、テスト休もうかと思ったぐらい。
武田:(笑)それぐらい身近な存在だったということですね。
太田さん:7つのプールなんて、よく人だらけで、流れるプールすごかったって身動きが取れないんですから。ただ流されていくだけだから。俺、埼玉だから、ここが海だと思っていましたからね。
武田:お台場まで行かずにね。
太田さん:7つの海だ!って。
武田:印象的なのは広告ですよね。
合原:そうなんですよね。さまざまな時代にわたって、ユニークな広告がたくさん作られたわけですよね。
武田:宮沢りえさんが隠れていた…。
太田さん:そうねサンタフェのね。そんなの覚えてないけど。やっぱり俺はサッチーの木馬に乗っている…。
合原:エルドラドに乗っていらっしゃる広告ですよね。
太田さん:そうそうそう。
武田:きょうは諸事情があってお見せできないんですけど、気になる方は…。
太田さん:あれが一番、サッチーの歴史の中で一番の業績ですよ!
合原:すてきなポスターでしたよね。
太田さん:すてきとは言い切れないけどね(笑)。
武田:いろんな方の人生と共にあったんですけど、すごく身近で、家族みたいなという。
太田さん:確かにそのときはそう思うんだけど、どんどん美化していくと思う、記憶の中で。それでいいんじゃないですかね。俺の朝霞テックって埼玉だから、朝霞にそういうのあってやっぱり潰れていって、多摩テックかなんか潰れていったけど、やっぱりそのときだけだもんね。ああやって人生の中でずっと来てた人にとっちゃ喪失感はすごいだろうけど、われわれは子どものころに来て、あと大学、この辺になるともうね、来てないもんね。
武田:としまえん、私は地方出身でそんなに思い入れはないんですけれども。熊本にもあるんですよ。「サンピアン」というのがあって。よく行ったんですよ。やっぱり。子どものころね、女の子と一緒にね、行きましたよ。皆さんやっぱりどの地方にも、そういう心のふるさとみたいなのがあると思うんですよね。確かに今、そんな思い出さないんですけど、でもやっぱり時々思いますよ。
太田さん:思い出の中にいるのが似合う感じがしますよね。特に、俺きょう思い出したけど、これ見たときに、うちのおふくろが大好きだったなこれって。今、きょうここに来て思い出したね。乗り物は全然だめなんだけど、やっぱり夜になって、こっちから見て俺が乗っているの見るのが、あそこのメリーゴーラウンドはきれいだから見たいって言って。俺メリーゴーランドなんか乗りたくないのに、乗っけられてぐるぐる回されて。また、げえげえ吐いてという感じだったんですね。あと花火大会ね。あれもやっぱり思い出がありますね。
武田:やっぱり、子どもをどこに連れていこうかと思ってね。
太田さん:ここしかなかったですからね。
武田:遠くまで行くのも大変だし、そういうお母様の愛情もあったんじゃないですかね。
太田さん:そうね。だんだんそういうふうに思っていくんだろうね。そうやって、これがなくなっちゃって、みんなの頭の中でどんどんいい場所になっていくような気もしますよね。小学校の校舎だってみんなそうでしょう、結局。校庭だって、こんなに小さかったっけって今行くと思ったり。何かもっとすごいとこだったような気がだんだんしていくから。人間って美化するからね。
武田:本当にきのうで閉園してしまったんですけど、そうやって皆さまの心の中でいつまでも回り続ける。そういうものであるんでしょうね。
太田さん:そうでしょうね。でも僕、本当に、東京周辺のごく一部の人なんだなというのは思ったね。
武田:東京の人たちの、心のふるさとからお伝えしました。