ドラマに登場した倫理のテーマ。
今週も倫理の監修 神戸和佳子先生に解説してもらいます。
倫理とは、よりよく生きようとすること、そのために考え続けること。
言うのは簡単だけれど、なかなか難しいことです。
今回の高柳は、よく生きようとして、たくさん考えて、でも、それが空回りしているようでした。
例えば、「自分を大切にすること」はよいことで、「自分を傷つけること」はよくないことと言われます。
でも、自分を大切にするって、どういうことなんでしょう。
高崎由梨は、母親の「あなたの身体は神様の宝物」という言葉に傷つき苦しんで、
自分自身を確かめ、保つために、自分に痛みを与えています。
由梨にとって、自分を守るためのギリギリの手段が、自分を傷つけることでした。
痛みだけは、その人自身から、他人が取り去ったり取り上げたりすることはできませんから。
「この傷は、私が生きてきた証だ。」「この痛みは、私だけのものだ。」
そう自分に言い聞かせながら必死で生きる由梨には、「正しい」生き方なんて何の意味もありません。
「他者を大切にすること」はよいことで、「他者に害を与えること」はよくないこととも言われます。
でも、この区別も、そんなに単純ではありません。
これまでたくさん傷ついてきた都幾川幸人は、養護教諭の藤川や高柳に頼り、ときに甘えながら、
なんとか自分を保って、学校に通っています。
高柳は、幸人の求めに応えて身体に触れることは、「正しくない」と考えています。
たしかに、いくら身体を抱きしめても、幸人の抱える根本的な問題が解決するわけではありませんし、
それどころか、学生時代の高柳に先生が説いたように、かえって彼の傷を深めるかもしれません。
「飢えた子に500円玉をやる」ようなことをすれば、明日、明後日の飢えの苦しみは増すばかりです。
しかし、だからといって、温もりを求めて握られた手を離すことが、正しいことなのでしょうか。
なんとか高校卒業だけはさせてやりたいと、手を繋ぎ背をさする藤川は、間違っているのでしょうか。
人間も世の中も、もう少し複雑で、ままならなくて、だから「よく生きる」のは難しいですね。
何も考えずにいれば、すぐに「悪」に足をすくわれてしまうけれど、
考えれば考えるほど、自分の頭の中に閉じこもり、自分だけの正しさに固執してしまう危険もある。
では、どうしたらよいのでしょう。
私たちも高柳と一緒に、来週までしばらく悩んでみましょうか。
〜「心」と「身体」をめぐる哲学〜
今回は、心と体の関係について考えた先哲の思想が多く登場しました。
デカルト(1596-1650)はフランスの哲学者で、「我思う、故に我あり」という言葉で有名です。彼は、この言葉で表されるような考える我、つまり「精神」と、物体としての「身体」は、次元の異なる独立した実体だと考えました。ドラマの中にも登場した「心身二元論」です。しかしここに、自然法則に従う物体である「身体」と物理的な延長をもたない「精神」はどのように関わり合っているのか、という新たな謎が生まれてしまいます。
第3話で「真の自分は魂である」という古代ギリシアの考え方が出てきましたが、西洋には伝統的に、魂(心や精神)こそがその人自身であり、それが肉体という入れ物の中に入っているというようなイメージがあります。都幾川くんもゲームのアイデアの参考にしていましたね。
これに対して、それとは異なる考え方もあります。たとえば、高柳は授業で道元(1200-1253)の「身心一如」という言葉を紹介していましたが、仏教思想や東洋医学には、心と体は区別されないひとつのものとして捉える考え方があります。また、ドラマの終わりには、フランスの哲学者であるメルロ=ポンティ(1908-1961)の「生きられた身体」という考え方が提示されましたが、彼もデカルト的な二元論を否定し、身体は、単なる物体・客体としての身体なのではなく、主体と客体の両義性をもつもの、知覚や経験の基となるものと捉えました。
心っていったい何だろう、人間の心のはたらきは医学や脳科学でどこまで明らかになるのだろう、など、きっと一度は疑問に思ったことがあるのではないでしょうか。これは現代の哲学でも形を変えながら研究されている分野です。先哲の様々な思想を参考にしながら、ぜひ皆さんも考えてみてください。
高校倫理考証 神戸和佳子(ごうど・わかこ)
哲学・倫理教師。中学校・高等学校・大学等の非常勤講師として、哲学的な対話の手法を用いた授業を行っている。東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。共著書に『子どもの哲学−−考えることをはじめた君へ』(毎日新聞出版、2015年)など。
投稿者:スタッフ | 投稿時間:00:00 | カテゴリ:ここは今から倫理です。