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BS時代劇「立花登 青春手控え」放送開始しました!

第一回 はじめに

『立花登青春手控え』第一回放送御覧頂きありがとうございます。演出部の前原です。

 

主人公の医師・立花登は出羽亀田(現秋田県亀田町)出身で、叔父の小牧玄庵を頼りに江戸へ上京します。

冒頭その亀田の全景として使われた実景は京都市右京区京北町(旧:山国村)にあるパラグライダー場から撮影した素材に、当時の亀田城下絵図を参考にCGで城下町をあしらったものです。 

スタッフが何度も山々を尋ね歩きロケ地を選定、撮影されました。丹波山国のもつ山紫水明の美景が活かされたと思いますが、亀田の方々はどのような感想を持たれたでしょうか。このように本作は物語の冒頭からこだわって製作されています。

 

今後その一端を本コラムで紹介していきたいと思います。

 立花登01-01

 

小伝馬町牢屋敷

物語の舞台となる『小伝馬町牢屋敷』は、慶長十一(1606)年江戸城修築時に立て替えられたものです(現中央区小伝馬町一丁目、十思公園あたり)。約2,600坪の広大な土地に最大四百名の囚人が収容されていました。これ以後明治八(1875)年、市ヶ谷刑務所に移管されるまで約270年間、江戸の犯罪人を一手に預ってきました。表門は松竹撮影所のオープンセットを使って撮影されています。通常スタッフから『奉行所』と呼ばれる、火付盗賊改めの役宅や、吉良上野介の屋敷になったりする建物です。牢屋敷の周囲には忍び返しと言われる防犯用の柵が設けられているのですが、これが内向きにも、つまり脱獄者対策にも設えられているところが通常の屋敷とは異なります。

牢内には様々な職に従事する人々がいました。まず牢屋奉行配下の役人で、平塚平志郎(マキタスポーツ)のような牢屋同心たちが約50名。鍵役、小頭、打役、数役、世話役、平番、物書役、賄役、勘定役などの役がありました。代々世襲でその役を務め、牢屋敷の隣りにある組屋敷などから通っていました。その下に、万平(みのすけ)など牢内の雑用を務める、下男(しもおとこ)とか張番とか呼ばれる者たちが約40名いました。万平が着ている半纏には背中に「出」の文字が白く染め抜かれていますが、これは牢屋奉行・石出帯刀の「出」です。一見変わった文様ですが、考証に基づいた意匠です。同心の手伝いの他、賄いの世話や病囚の世話もしました。そして本作の主人公立花登(溝端淳平)が務める牢医。これは本道(内科)2名、外科1名いました。土橋桂順(正名僕蔵)はもう1人の内科医です。本道は毎朝夕牢内を見回り(外科は一日おき)、昼間は交代で牢屋敷に詰めていました。診療のほか牢医の仕事として拷問の立ち会いがあります。科人が拷問の末死亡せぬように、牢屋同心に諌言したり、気付け薬や傷薬を与えていました。牢内は不衛生で悪臭に満ち、囚人も栄養状態が悪かったため、多くが病にかかりました。このような有り様であったため、まともに牢医を務めあげようとすればかなりの激務となったであろうと想像します。

 

 立花登01-02.jpg

 

遠島刑

いわゆる島流し。今回遠島刑となった勝蔵と、おみつの別れのシーンは大覚寺の大沢池を江戸湾に見立てて撮影されました。重罪者が島へ送られる時は永代橋から小舟を出したとされています。橋は嵐山の太鼓橋を永代橋に見立てて撮影しました(このような一見木造に見える橋はロケ地として大変貴重な存在です。しかも太秦の撮影所から車で10分)。ちなみに両ロケ地を繋ぐ小舟ののぼりには「るにんせん」と書かれています。軽罪者の乗る船には「流人船」と漢字で書いて区別していたそうです。勝蔵は八丈島か三宅島あたりで生活し、運が良ければ赦免され再び本土の地を踏めたことでしょう。遠島刑になった者が生きて本土の地を踏めた確率は、統計によると四割弱だそうです。

 

おわりに 

第一回目だったので少しボリューム多めでしたがいかがでしたか?

今後は牢内生活や柔術について語れたらと思っております。次回からもよろしくお願いします。

 

 BS時代劇「立花登 青春手控え」公式ホームページはこちら

 

投稿者:スタッフ | 投稿時間:20:45 | カテゴリ:立花登青春手控え

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