関東大震災からの復興期、東京の下町から新しい商店建築のスタイルが登場し、瞬く間に各地に広まりました。表は、一枚の板のように平らな面。そこにさまざまな装飾をあしらって、一見洋風。ところが、裏側は木造・瓦屋根の和風建築。まるで、家の正面に大きな看板を取り付けたかのよう──そのため、「看板建築」と呼ばれます。大正の末から昭和初めに次々と建てられた看板建築は各地の町並みに豊かな表情をそえてきました。 |
壱のツボ 絵を描くように軽やかに
関東大震災の翌年に建てられた商店の外観は6本の線が目を引きます。この線、実はお店で扱う商品であるハケをかたどったもの。モダンなセンスで、ハケの毛並みを単純な線だけで表わしました。 |
昭和5年に建てられた茨城県石岡市の商店はギリシャ神殿を思わせるデザインです。石造りのように見えますが、実はモルタル。地元の左官職人が、西洋建築をまねて造りあげました。素朴さが、親しみを感じさせます。 |
建築家・建築史家の藤森照信さん 藤森 「看板建築は正面が真っ平らなんですね。だからそのデザインは基本的にはキャンバスに絵を描くのと変わらないんですよね。誰でも非常にやりやすかった」 ひとつめのツボ、 |
昭和3年に建てられた東京・神田の商店も、建築の素人によるデザインです。タイル張りのモダンな装い。屋号も、ローマ字で表しました。ところが軒先のカーブは、天守閣などにも見られる日本古来の形。
|
当時の店主は、友人に紹介された画家に建物のデザインを頼みました。最初のデザイン案は実際建てられたものとはずいぶん違います。建築に関しては素人だった店主と画家はその後幾度も試行錯誤を重ね、現在見るようなデザインにたどりついたのです。 |
関東大震災後、銀座や日本橋の高級店はひとまず仮の店舗で営業を再開します。短期間で消える仮設建築だからこそ、人目をひく、大胆な店構えを競いました。この自由なデザイン精神を引き継いで、東京の下町を中心に建てられたのが看板建築でした。 |
看板建築はすぐに地方へも広がりました。昭和5年に建てられた茨城県石岡市の商店は左官の親方、土屋竜之助が手がけたもの。コテ一本でモルタルをさまざまなかたちに仕上げる左官の技によって、店の正面を西洋のイメージで飾りました。 |
石岡で多くの看板建築を手がけた土屋竜之助が最初に手がけたのが昭和3年に完成した理容店。堂々たる屋根飾りには、モルタルに小石を混ぜて石そのものの質感を生み出す「洗い出し」という高度な技が使われています。建築家に頼らず、自由にデザインした店構えは今もランドマークとして親しまれています。 |
弐のツボ 輝きのちサビ 緑青の味わい
看板建築には銅板を使ったものが多くあります。関東大震災で火事の被害が大きかったことから、燃えにくい素材として選ばれました。 |
東京・築地。震災直後に建てられた鶏肉店は道路に面した3つの壁に銅板が張られています。現在は深い緑色をしている銅板ですが、完成当初は陽の光を受けてまばゆく輝いていました。 |
赤い色に輝く真新しい銅板は、空気中の酸素や水と反応することで褐色に変化し、さらに長い時を経ると、緑色に覆われます。その正体は「緑青」と呼ばれる、サビ。これが、銅に落ち着いた味わいを与えているのです。 |
江戸時代以来、銅板は神社や寺の屋根に使われてきました。火を防ぐことに加えて、高い耐久性が理由です。この耐久性には、緑青が大きな役割を果たしています。 |
東京藝術大学(文化財保存学)の桐野文良さん。 桐野 「緑青は鎧(よろい)のように銅を保護している。その働きによって銅は非常に耐久性のある、長持ちする、世代を超えて伝えて行ける素材になっている」 銅のサビ・緑青は、いったん表面を覆うとそれ以上は進行しにくいのが特徴で、酸素や水を遮る膜となって、劣化を抑えます。 |
銅板を張った看板建築には見どころがあります。銅板の表面に、幾何学的な紋様が施されています。モチーフを細かく繰り返す紋様はかつて江戸の人々に好まれたもの。着物や建具などさまざまなところで使われていました。震災で東京から失われてしまった江戸の面影。それを留めたいという人々の思いが現れているのです。 |
|
金属の中でも柔らかく加工しやすいと言われている銅。銅板による紋様は一見単純なパターンに見えますが、複雑なかたちをしたパーツを雨水が入らないようにしっかりとかみ合わせて作られています。こうした技は「張り物」と呼ばれ、職人たちの腕の見せ所とされました。 |
|
「張り物」の技法を継承する板金職人・佐藤賛平さん。 佐藤 「職人の腕の見せ合いというようなところがあったんじゃないか。いろんな紋様があるから、いろんな紋様で技を競ったりした」 |
加工しやすい銅板。さまざまな装飾の技が生み出されました。家紋の浮き彫りは銅板を裏側からたたいて立体的な模様を作る「打ち出し」という技法によるもの。 |
もちろん、紋様をあしらった張り物もあります。職人の技に緑青の色合いが加わり、店に風格をもたらしています。 |
参のツボ 知恵と工夫で狭さと遊ぶ
関東大震災の後、東京では道路が拡張され、一戸あたりの敷地が大幅に狭くなりました。そのような土地に建てられた看板建築にはその狭い空間をうまく使うために、数々の工夫がこらされています。 |
「江戸東京たてもの園」に移築保存されている昭和3年築の文房具店。左右の壁一杯に商品棚を作り付け、いわば壁全体を収納スペースとしました。天井にも、つり棚が整然と並びます。狭さを克服するために工夫をこらした収納設備が、リズミカルな美しさを生みました。 最後のツボ、 |
東京・神田の元洋服店。かつては大家族の暮しが営まれていました。狭い空間に開放感を生み出すため活用されたのが、ガラス戸です。窓だけではなく、間仕切りの建具にもガラス戸を使いました。欄間にもガラスをはめ、光が隅々にまで行き渡るようにしました。 |
もうひとつ、狭さの中で生まれた工夫があります。2階の中央にある、井戸のような木の囲い。天窓から入った光を1階に届けるために作られた吹き抜けです。 |
「光の井戸」が頭上に設けられたことで、明るく開放的な空間が生まれました。 |
なつかしの商店建築を見ていると、祖父が営んでいた田舎の時計店と重なって見えました。駅から商店街を抜けた大通りの突き当たりにあって、大きな“丸時計”が目印。何百メートル離れていても目立つようにという理由からでした。店内は昼間でも薄暗く、壁に所狭しと飾られたたくさんの掛け時計が「チクタク、チクタク」と大合唱のように時を刻んでいました。オレンジ色の電球で照らされた店の奥の作業場が祖父の定位置。その場所は狭いながらも使いやすいよう工夫されていました。作業机の周りは、「引き出し」のついた大小さまざまな木の棚でぐるりととり囲まれていました。一つ一つの引き出しには細かい文字で「ドライバー」、「ねじ」、「ゼンマイ」など、手書きのラベルが整然と張ってあります。きちょうめんだけど、面倒くさがりの性分だった祖父は、店の狭さを逆手にとり、椅子に座っていても手を伸ばせばすぐに必要なものを取り出せるようにしていたようです。拡大鏡を付けた眼鏡をかけ、まるでご機嫌を伺うかのように時計のフタをゆっくりはずし、優しくのぞき込む姿・・・。譲ってもらった手巻き時計を巻いていると、あの時計店で見た光景が時を越えて脳裏に浮かんできます。
楽曲名 | アーティスト名 |
---|---|
Get Out And Get Under The Moon | Paul Whiteman And His Orchestra |
Mack The Knife | Itzhak Perlman, Oscar Peterson |
Wien, Du Stadt Meiner Traume | Jan Lundgren Trio |
St.Thomas | Sonny Rollins |
Emily | 嶋津健一トリオ |
Tennessee Waltz | Patti Page |
It's A Sin To Tell A Lie | 寺井尚子 |
One For Blount | Vijay Iyer |
La Comparsa | Anat Cohen |
Chotto Matte Kudasai | 小林キヨシ |
The Turnaround | John Patton |
Doodlin' | Kai Winding |
Back Bay Blues | MacCoy Tyner, Bobby Hutcherson |
Dedication | Larry Coryell |
Angel Eyes | Bill Charlap |
私の青空 | 藤家虹二 |
Silver Rain | The Most |
Embraceable You | Stefano Di Battista |
Night Club 1960 | 絵里 |
Bopdy And Soul | Turtle Island String Quartet |