全国各地に残る、明治の洋館。公開されているものも多く、観光スポットになっています。
幕末、開国と共にやってきた欧米の貿易商たちが、自分たちの住まいとして建てたのが、その始まり。やがて、洋館は、文明開化の象徴になっていきます。
東京・台東区。ここに、明治の洋館の傑作があります。
国の重要文化財、旧岩崎邸庭園です。設計は、ジョサイア・コンドル。あの鹿鳴館を手がけたことで知られる、イギリス人建築家です。
三菱財閥の3代目当主、岩崎久彌(ひさや)が、来客をもてなすために作りました。いわば、岩崎家の迎賓館。明治29年に完成しました。
5つの客室、食堂、ホールなど、どの部屋にも、暖炉があります。 暖炉は、その部屋の顔。部屋ごとに、デザインが異なっています。日本の建築で言う、床の間に当たります。さらに、壁紙や天井など、部屋全体が、華麗に装飾されています。 ここは、女性用の客間。天井に貼られているのは、刺繍を施した絹です。どこを見ても、優雅で華やかな旧岩崎邸。しかし、決して見逃してはならない見所があります。
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洋館の鑑賞、一のツボ。 「洋館の醍醐味は”階段”にあり」。まず、階段がどこに作られているのか、見てみましょう。
旧岩崎邸の平面図です。階段は、この館の中心に位置しています。玄関を入り、廊下をくの字に曲がった先にあります。館に招かれたつもりで、旧岩崎邸に入ってみましょう。
廊下を渡っていくと、急に、目の前が広けます。ここが、階段室。主人の岩崎家当主は、ここで、来客を迎えたといいます。
客が主人と出会う、劇的な空間。それは、洋館全体の印象を決定づけるほど、重要な役割を持っています。
太い柱に施された豪華な浮き彫りも、場面をドラマチックにする、演出の1つ。この柱があることで、部屋の奥行きが強調され、広く見えるという効果もあります。 出会いの演出だけでは、ありません。さらに、この折れ曲がった階段が様々な見せ場を作ります。
館の主人との出会いに始まり、様々な見せ場を演出する、階段。今度洋館を訪ねたら、その醍醐味を、存分に味わってください。
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東京三田の慶應大学に、ちょっと変わった洋館があります。
三田演説館。明治8年に、福沢諭吉によって建てられました。
外観は、極めて和風。土蔵などに使われる、なまこ壁と呼ばれる壁で、覆われているからです。でも、中に入ると、そこは完全に洋風。アメリカ中西部の教会をモデルにしたと言います。
実はここ、日本の演説発祥の地として、知られています。
英語のスピーチという言葉を「演説」と訳したのは、福澤諭吉でした。 400人の聴衆を前に、福澤の門下生たちがここに立ち、以後、演説という習慣を、日本に根付かせたのです。
写真家の増田彰久(あきひさ)さん。洋館に魅せられ、40年近く撮り続けています。この演説館の和洋折衷こそ、時代の空気を、よく表していると言います。
今日2つめのツボは「洋館の中の”和”を楽しむ」。 見え隠れする和のテイストを探り出すと、明治という時代が、浮かび上がります。
明治初期、学校や役場、銀行などの施設が、次々と洋館で作られました。しかし、この時代の洋館には、西洋一色には染まらない、独特のスタイルがあります。 長野県・松本市にある、旧開智(かいち)学校もその1つ。
建築の指揮をとったのは、地元の大工の棟梁、立石清重(たていしせいじゅう)。立石は、新しい時代への熱い思いを、この小学校の校舎に込めています。
校舎中央の、正面玄関。ここを飾る、幾つもの彫刻が、そのメッセージです。
まず、車寄せの上にある竜。この、天に昇ろうとする竜こそ、ここで学ぶ子供たちを表しています。 子供たちよ、今こそ、雲を突き破って、天使の遊ぶ、西洋の天上界を駆けめぐれ。これが、立石の願いでした。
東洋の竜と、西洋の天使という、奇妙な取り合わせの背後には、明治の人たちの教育への理想が、隠されていたのです。
和洋折衷の洋館。その、到達点とも言うべき建築を、紹介しましょう。
盛美館(せいびかん)。明治42年、津軽の大地主・清藤(せいとう)家の24代当主・盛美(もりよし)によって建てられました。
立派な洋館に見えますが、よく見ると、1階は純和風です。日本建築の上に洋館を建てた、愕きの構造なのです。
当時、盛美(もりよし)は、広大な日本庭園を造っているところでした。それを一望する建物には、近代化を象徴する洋館がよい、と考えたのです。
日本庭園は、一階の座敷に座った時の、目の高さで鑑賞するように、設計されています。庭を眺めながらくつろぐ空間は、やはり和風がいい。仕事を請け負った棟梁はそう考え、一階を、純和風にしたのです。
2階の洋館部分も、内部は洋風と和風の、ユニークな組み合わせで溢れています。 まず、床は畳敷き。そして窓にはカーテン。天井からは、シャンデリアが下がっています。2階の別の部屋にも、ここにしかない、和洋折衷が見られます。
この部屋の床の間。床柱には、なんと、大理石が使われています。一体どうして、こんな不思議な和洋折衷になったのでしょうか。
棟梁から直接、その理由を聞いた人がいます。清藤家の現在の当主、清藤茂夫(しげお)さんです。
欧米の文化を吸収する一方で、日本の良さをなんとか残したい。洋館の中の和洋折衷には、そんな棟梁たちの、心意気が感じられます。
洋館には、ある伝統の技も、隠されているんです。
長野県・佐久(さく)市に、明治8年に建てられた旧中込(なかごみ)学校。この学校も、地元の大工の棟梁が建てたものです。
一見瀟洒な洋館に見えるこの校舎。実は伝統の技が、随所に生かされている。 そう言うのは、全国各地の近代建築の調査・研究で有名な、藤森照信(てるのぶ)さんです。
3つ目のツボは、「優れた左官の技を味わう」。日本の、漆喰を使った左官の技術は、世界のトップクラス。それが、洋館に使われています。
壁など、建物の表面の仕上げをするのが、左官職人です。その技術は、江戸時代、土蔵などが多く作られるようになって、発達します。その技で、職人たちは、洋館に挑んだのです。
先ほど紹介した盛美館。ここはまた、左官技術の展覧会のようです。彫刻に見えるこの装飾。実は、漆喰で作ったものです。そして、シャンデリアの上の天井飾り。これも、漆喰です。
欧米では、このような細かい細工は、型を作り、そこに石膏を流し込んで作ります。
左官職人の大久保雅一(まさいち)さん。この道60年。多くの文化財の修復などを手がけてきました。
左官職人が使う漆喰は、石灰に糊と麻を混ぜたものです。
石膏より、固まるのに時間がかかるため、少しずつ漆喰を盛り上げて、形を作っていきます。日本の左官職人は、この技術で、どんな物でも作り上げるのです。
まず、真っ白な漆喰の上に、灰墨を混ぜた黒い漆喰で、線を引くように、模様を描いていきます。ある程度漆喰が乾いたら、鏝で、丁寧に磨きをかけます。この作業を、何時間も続けると言います。
こうして、自然の大理石と見間ごうほどの、つやと質感が生まれるのです。
明治の洋館に注ぎ込まれた、左官職人たちの技と情熱。それがこの時代にしか見られない、独特の表現を生み出したのです。
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