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2001年/台湾=NHK/カラー/110分
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●2002年 ヴェネチア映画祭 コンペティション部門ノミネート
●2002年 台北金馬奨
最優秀作品賞、観客賞、最優秀台湾映画賞 受賞
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【シノプシス】
端正で美しい顔をもつアウェイ。チンピラの彼がいつも気に掛けているのは、ミン。彼の双子の姉で、癌の末期患者だ。余命10日と言われたミンは残り少ない日々を家族と過ごすためにホスピスから戻って来ていた。彼女は、アウェイにとっても最愛の肉親なのだ。水槽の前にいるミンは、かつての恋人アチャと海に潜って熱帯魚を触った時のことを思い出していた。半年前ミンは病気が発覚して、恋人との別れを決意したのだった。
アジェは何もすることがなく、親戚が組織する小法団で、商売人を相手に、或いは寺の縁日で神を迎えては送り返すという日々だ。遊び好きで仲間には人気のアウェイだが、やっかいごとも多く、喧嘩も絶えない。
アウェイとアジェは同じ集合住宅に住み、異なった環境ながら仲良く暮らしているが、ある日アジェがちんぴらにそそのかされ、暴力団組織に足を踏み入れてしまう。親分に気に入られた2人は、ピストルまで与えられ、羽目をはずし始める。ところが、やりたい放題を続けていたある日、取立て先で相手方の親分を射殺してしまったことから、2人は逃亡する。
アウェイは、安ホテルを営む姉のかつての恋人アチャを訪ねる。ホテルでは、アウェイの自宅と全く同じ水槽に同じ熱帯魚が泳いでいる。夜、2人はアチャと共に海へ向かうが、アウェイは砂浜で嘔吐を始め、叫び声をあげる。アウェイが診療所に行く時を同じくして、ミンはこの世を去っていく。翌朝ホテルの一室でアウェイは呆然とベッドに腰掛けている。受話器からは家族の声がする、ミンが死んだと…。汽車の中での2人は沈黙したままだ。
2人は静かに懐かしの小路に立っている。そこには射殺したやくざの組員が大勢で彼らを待っていた。2人はひた走るが、そのうち声があがり、打ちのめす音がする。そしてアジェが刺されて倒れた。悲痛な表情で立ち尽くすアウェイ。
翌日、アウェイは復讐へ向かうが、傷を負って自宅への道を戻る。するといつもの長い小路に、アジェが座っている。アウェイはアジェの名を叫び2人はまたしても小路を疾走していく。空き地で息を切らし、振り返ると再び仇が追ってきた。2人は急いで飛ぶように走り、真っ黒などぶへと飛びこんだ。アウェイは目を閉じ辛そうに吐いている。突然アウェイはアジェの声を聞く。「アウェイ! なんだよこれ! ここどこだよ?」アウェイが目を見開くと、水中には、色鮮やかな熱帯魚もいる。この風景はまるで、アウェイの家にある水槽の世界そのものだ。2人は顔を見合わせ、笑う。呼吸をする。アウェイにもアジェにも忘れられない、美しい青春のひとときである…。
暉峻創三(映画評論家)
黒暗」の向こうの『美麗時光』
主要登場人物の「職業」設定だけから言えば、これは一種のチンピラものだ。アウェイ、アジェという従兄弟同士。ふたりは表の社会ではドブネズミのように底辺をさすらうのみで、何の救いも展望もない日々を過ごしている。おまけにアウェイの双子の姉は余命幾許もない。しかしそんな彼らもチンピラたちの社会に入ると、ちょっとばかし一目置かれる存在になれ、日ごろの鬱憤を晴らすことができる。こうして2人は、ヤクザ組織に深く関わっていく。
しかし実際にスクリーンに映し出される『美麗時光』は、チンピラものとはまったく似ていない。過酷で絶望的なばかりに見える表社会という暗黒に、張作驥(チャン・ツォーチ)は常に一筋の別世界からの優しげな救いの光の存在を暗示することを忘れてはいないからだ。その「光」の源は、ヤクザたちの社会にあるのではない。たとえば開巻部にいきなり姿を現す、熱帯魚が泳ぐ水槽がそれだ。
どんなに暗くて辛い現世、人生を描いていても、それらは最終的にどこか仄かな光明の射し込む祝福されるべき場所・人であるという甘美な世界認識は、一貫して社会の裏面、暗部で生きる人々を描き続けてきた張作驥の映画のなかでも、とりわけ前作『最愛の夏』あたりから強く滲み出てきはじめたように思う。『最愛の夏』の原題は『黒暗之光』だが、この「黒暗」にさえ「光」があるという逆説的な並列こそ、彼の近年来の世界観のダイレクトな表明なのだ。
『黒暗之光』の最も「美麗」な「時光(時間)」は、最後の最後、愛する父とボーイフレンドを失って悲しみに暮れているはずのヒロインの向こうで花火が打ち上げられた瞬間にあった。その瞬間を、監督の張作驥は、花火単体で撮るのではなく、大層な苦労をしてまでヒロインの実家の窓越しに見える花火という構図で提示していた。そのことは、『美麗時光』を見た今、改めて思い出すと興味深い。華麗な幸福の光源は、画面手前の大半を占める黒暗の向こう側、窓という枠を潜り抜けたその先に存在するものとして描写されていたからだ。『美麗時光』の水槽の光やそこで泳ぐ象徴的意味を付与された熱帯魚も、窓枠越しの花火と同様、室内の暗がりの奥の、水槽という「枠」の向こう側に光り輝くものとして提示されている。
水槽だけではない。『美麗時光』には、実のところ「美麗」な風景など、ほとんど出てきはしない。いたって日常的で、狭くて、薄暗くて、みすぼらしくさえあるロケーションばかりがむしろ選ばれているように思われる。にもかかわらず、その画面には不思議と、ある神々しさのようなものが、閉塞感とは対照的な外の明るさを感じさせる開放感が、そこかしこに漂っているのだ。その気配のヒントとなるのが、窓枠の向こうの花火同様に水槽という枠の向こうで光っていた水やそれを反射する魚。これらと同様の構図が、実は『美麗時光』には頻繁に採り入れられている。家の窓や扉は開け放たれ、その「枠」の向こう側にはいつも光り輝く世界が広がっている。また近所の特権的意味性を与えられた路地も、左右に立ち並ぶ家に挟まれて、現実世界とその向こうの世界を区切る枠として機能しているかのようだ(そしてそこでもしばしば画面手前は暗く、奥により輝かしい光が降り注ぐようになっている)。どんなにつまらない、ドブネズミのような生き方に甘んじている人間にも、ちょっと向こうを見ればそこには必ず、等しく美麗な光降り注ぐ世界が待っているんだよ。そう張作驥は言いたいのかもしれない。
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【監督プロフィール】
1961年、台湾の嘉義(チアイー)に生まれる。中国文化大学の映画演劇科を卒業後、ツイ・ハークとイム・ホーの『棋王』、ホウ・シャオシェンの『悲情城市』(1989)などで助監督を務める。台湾テレビと公営テレビでテレビドラマを監督し、国立劇場での舞台『這些人、那些人』の監督、脚本を手掛ける。長編デビュー劇映画は、1993年の『暗夜槍聲』。これはプロデューサーのジェイコブ・チョンに改竄されたにも関わらず、香港と広東の映画祭に招待された。第2作の『チュンと家族』(1995)は、自主製作により作られた。この作品はニューヨーク、MOMAのNew Directors & NewFilms映画祭をはじめ多くの映画祭に招待され、テサロニキで監督賞、プサン国際映画祭で審査員特別賞を獲得する。第3作目となる『最愛の夏』(1999)は彼自身の独立製作会社、チャン・ツォーチ・フィルム・スタジオで撮った最初の作品となり、1999年の第12回東京国際映画祭でグランプリ以下3部門を独占したほか、2000年の第13回シンガポール国際映画祭でグランプリとNETPAC/FIPRESCI賞、1999年の第36回台北金馬映画祭で最優秀オリジナル脚本賞、最優秀編集賞、観客賞、審査員特別賞を受賞し、カンヌ映画祭監督週間にも招待された。
【監督からのメッセージ】
ある種、凝縮された青春の陰影
ある種、ロマンに満ちたやりきれない若い日々
光は変わらないものと思う
すべては変わらないとつい、思うのだが
理由も必要とは思えない
必要なのは僅かに踏み留まること、そして僅かなイリュージョン
ある刹那において
実は存在することが大事なのだ
深く茂る森林は緑の木々によって成るのかもしれない
激しい水の花(水しぶき)は急勾配に流れる水と
それを阻む壁によって成るのかもしれない
人の感覚は数々の麻痺によって成るのだろうか
時の流れは短く留まる回億が組み合わさって成るのだろうか
去っていく以前のつかの間の停留に向き合う
実は自分の存在がこれほどに大事だったとは
実は自分の存在が、変えることの許されないものだったとは
或いは、或いは…
或いは自己のすべてが、新たなる記憶の始まりかもしれない
或いは今こそが存在の始まりなのだろうか
或いは終わりのその果て、なのだろうか
思い始めるのは…自分に属する…美しい時のかけらだ
スタッフ:
監督/脚本:チャン・ツォーチ
エグゼクティブ・プロデューサー:ルー・シィユェン、上田信(NHKエンタープライズ21)
撮影監督:チャン・イーミン
美術監督:チェン・ホァイエン
音楽:チャン・イー
編集:リャオ・チンソン
プロダクション・マネージャー:マァ・タイシャン
キャスト:
アウェイ:ファン・チィウェイ
アジェ:ガオ・モンジェ
アウェイの姉:ウー・ユゥジィー
アチャ:ツェン・イーチャア
アジェのおじ:ツァイ・ミンショウ
アジェの兄:フー・ホァンジー
アウェイの祖母: ユゥ・イェンメイ
日本語字幕/小坂史子
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