文化財を身近にする無線伝送技術への期待

大槻 知明 慶應義塾大学理工学部情報工学科 教授

写真:大槻 知明

私事を書いて恐縮だが,私の趣味の一つは美術館・博物館巡りである。同じ場所も含めて年間30回以上,さまざまな美術館・博物館を訪れて楽しんでいる。茶器から絵画,彫刻,鋳金まで,よく言わせてもらえば幅広く楽しんでいる。お気に入りの美術館・博物館はいくつもあるが,その中でも特に気に入っているのが,ファンも多い「トーハク」,すなわち東京国立博物館である。上野にある東京国立博物館は,昨年150周年を迎え,それを記念して,同館が収蔵する国宝89件すべてを含む名品と,150年の歩みを物語る関連資料を公開する特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」が開催された。とても人気のある特別展で入場券の予約が困難であったが,幸いにも訪れることができ,数々の名品を堪能することができた。

東京国立博物館の収蔵品は約12万件にも及び,おもにこれら収蔵品や寄託品で構成される「総合文化展」では,常時3,000件が展示されている。これら展示を楽しむには,1日ではとても足りないが,当然のことながら誰もが頻繁に訪れることができるわけではない。各展示はとても見やすい状態で展示されているが,近づける距離には限度があり,なかなか細かい箇所まで見られない展示もある。また,例えば埴輪などの内部や仏像の裏側など,展示中には見られない箇所も多い。それらがどの様になっているのか想像するのも楽しみ方の一つであるが,実際にどうなっているのか気になって仕方がない作品も数多くある。

そのような願望に応えてくれるプロジェクト「8K文化財プロジェクト」が,東京国立博物館とNHKによって進められている。「8K文化財プロジェクト」は,8K映像技術や最先端の3Dスキャナー,フォトグラメトリ技術(さまざまな角度から撮影した写真を基に3Dモデルを生成する技術)を用いて,東京国立博物館に収蔵されている各種文化財の超高精細映像から3D CGデータを作成し,プロジェクションマッピングやAR・VRなどの映像技術も活用しながら,宝物の細部の研究を進めると同時に,これまでにない文化財の鑑賞方法(=楽しみ方)を訴求・追求するものである。「8K文化財プロジェクト」や制作された作品は,「見たことのない文化財」というNHKの番組で放映されたので,ご覧になられた方も多いと思う。私は,幸いにも実際にデジタル機器を用いて,いくつかの作品を楽しむ機会を得られたが,遮光器土偶の内部や,室町時代の甲冑かっちゅうの細部,代表的な女面おんなめん小面こおもて」の細部や裏側など,通常はなかなか見られない箇所を超高精細映像によって,しかも自由に動かしながら自由な視点で見られ,それらの迫力に圧倒されながら堪能した。「8K文化財プロジェクト」として3D CGデータ化する作品数は限られているそうである。今後,多くの収蔵品の超高精細映像による3D CGデータ化が進むことを願わずにはいられない。それと同時に,これら超高精細映像を,自宅など,好きな場所で,いつでも気軽に楽しめるような時代が来ることを強く願う。

これら文化財の3D CGデータは,まさに「イマーシブコンテンツ」の代表例である。その制作には,360度映像などの大容量コンテンツや,形状・質感・振動・音源の特性など3次元空間の情報を余すことなく取得できる技術や,取得した情報を,いかなる場所からでも安定して送り届ける無線伝送技術などの制作技術が必要である。また,イマーシブコンテンツを好きな場所で楽しむためにも,超大容量の新しい無線伝送技術が必要である。

超高速・大容量の無線伝送を実現するには,さまざまな技術が必要である。その中でも複数の送受信アンテナを用いたMIMO(Multiple-Input Multiple-Output)はキー技術の一つである。MIMOは携帯電話などの移動通信システムや無線LANなどでも必須の技術となっている。例えば,移動通信システムでは,第6世代移動通信システム(6G)の2030年までの実現を目指して研究開発が進んでいる。6Gでは,現在商用サービスが開始されている5Gに比べて,多くの指標で特性改善を目指している。通信速度に関しては,最大100Gbps超を目指しており,非常に多くのアンテナを用いるMassive MIMOは,それを実現するためのキー技術の一つである。

また,超高速・大容量の無線伝送の実現には,広い帯域を確保できる新しい周波数帯の活用が必要である。十分に活用されていない周波数帯として,ミリ波帯があげられる。また,6Gではテラヘルツ帯の移動通信システム利用を目指した研究開発も始まっている。ミリ波やテラヘルツ波といった周波数帯は,アンテナをはじめとする装置の小型化に適しており,鋭い放射指向性を持つなどの長所がある。その反面,大気吸収や降雨減衰が大きく,また直進性も強いなどの(場合によっては)短所となる特徴も併せ持っている。さまざまな技術的課題はあるものの,その広帯域は大きな魅力である。

本特集号では,前述した文化財の3D CGデータのようなイマーシブコンテンツ制作に必要な,無線伝送技術の研究開発動向について解説されている。まず,400Mbps級の無線伝送を実現する技術として,広い周波数帯域幅を使用して大容量の無線伝送が可能な42GHz帯のミリ波を用いた伝送方式の中で,電力増幅器を効率良く動作させることが可能なシングルキャリア(SC:Single Carrier)変調の信号に対し,周波数領域等化(FDE:Frequency Domain Equalization)を適用するMIMO-SC-FDE技術が紹介されている。次に,近年注目されている,離れた場所で番組制作を行うIPリモート制作について,無線によるIPリモート制作の実現を目指し,双方向化によってIPパケットの伝送に対応したFPUの研究開発について紹介されている。さらに,無線伝送の高速化と安定化の両立に向けて開発が進んでいる,送受信ウェイト行列により複数の独立伝送路を構成して伝送するSVD(Singular Value Decomposition)-MIMO方式に,各独立伝送路に割り当てる変調次数を適応的に切り替える適応送信制御を併用するシステムが紹介されている。これら技術は,移動通信システムなどと共通のものも多くあるが,番組制作や放送配信などの特有の制約があり,放送独自の技術も見られる。これら技術開発の進展によって,イマーシブコンテンツの制作が進み,また,イマーシブコンテンツの伝送技術も整備され,文化財などのイマーシブコンテンツを好きな場所でより気軽に楽しめるようになることを願っている。