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放送法
放送は、人々のために

1945(昭和20) 天気予報3年8か月ぶりに復活
1945 ラジオ第1放送、全日放送開始
1945 『紅白音楽試合』を放送、後に『NHK紅白歌合戦』
1946 『のど自慢素人音楽芸』はじまる
1946 初の選挙放送実施
1946 放送文化研究所設立
1947 街頭録音『ガード下の娘たち』
1950 電波三法成立

1950(昭和25)年4月、電波三法が成立し、新しく特殊法人日本放送協会と電波監理委員会が生まれた。「放送法」により、NHKは、あまねく日本全国で放送が受信できるよう義務を負うことになった。また、民間放送の法的根拠も明らかとなり、1951年には初の民間放送局が開局した。

1950 占領下の放送から民主化へ

放送法

1945(昭和20)年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾した。占領軍総司令部(GHQ)は、「言論・新聞の自由に関する覚書」「日本に与える新聞準則」「ラジオ準則」(ラジオコード)などを出し、新聞、放送などメディアへの対策を重視していた。

1950(昭和25)年4月、放送法などの電波三法が成立した。三法の施行とともに、戦前の無線電信法は廃止され、新しく特殊法人日本放送協会と電波監理委員会が生まれた。「放送法」が制定されて、NHKは新しい組織に改組されるとともに、技術研究がNHKの業務として明確に位置づけられることとなった。また、放送法によって民間放送の法的根拠も明らかとなり、1951年には初の民間放送局2局が開局した。ここに日本の放送界は、受信料によって支えられるNHKと広告放送で収益を得て運営される民間放送が全国各地域に並立される新しい時代に入った。1951年9月1日に、中部日本放送「JOAR」が第一声をあげ、1952年中には、民放は18社となった。

放送法の趣旨は、放送の最大限の普及、放送による表現の自由の確保、放送が健全な民主主義の発達に資するという3大原則に従って、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とするというものである。

新しい放送体制は、戦後のメディアのあり方の大きな軌道を確定するものとなった。なお、電波監理委員会もテレビの初免許と同時に廃止となった。


終戦直後のテレビ研究

戦後GHQにより禁止令が出されていたテレビ研究は、1946年には技研で撮像管と受像管の試作、戦前試作の走査線441本、25フレームの移動用テレビ装置の調整などから再開された。

1949年から技研は各所でテレビ実験を公開した。東京でも日本橋三越において実験を行った。さらに、1950年、技研と放送会館に据えつけられた送信機から交互に実験電波が発射された。この電波は東京・日本橋の三越で開かれている「NHK放送開始25周年ラジオ展覧会」の会場の受像機で受信された。銀座三越周辺で撮影された街頭風景は、4GHz帯の中継装置を使って会館に伝送した。これが初めてのマイクロ波中継である。東名阪以外の地方都市では1950年に列車で、1951-52年にはテレビカーで巡回し、公開実験や展示を行い、テレビの啓蒙を図った。

当時、RCA社製のイメージオルシコンカメラが使用されていたが、その後、技研は1955年にイメージオルシコンカメラの国産化に成功した。

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