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2020年3月23日(月)

増田明美「知・好・楽でみんなのテールライトに」~インタビューここから~

「インタビューここから」。今回は「細かすぎる解説」でおなじみの増田明美さん。日本初の女子マラソンのオリンピック選手です。増田さんが歩んできた陸上人生に小野文惠アナウンサーが迫りました。

テニス少女だった増田さんを陸上の世界に導いたのは"テニス部の顧問"

女子マラソンのレジェンドとしての原点は、ふるさとの房総半島にある中学校。「エースをねらえ」にあこがれていたテニス少女の増田さんが、陸上を始めた場所です。

小野:増田さんは中学時代、テニス部でしたんですよね?それなのに、いつ、どういうタイミングでオリンピックランナーになっていくんですか?

増田:それはね。町内一周駅伝大会にテニス部から助っ人で、私、出て。結構足速くって、私の前を3人、高校生のお兄さんたちが走ってたんだけど、私がごぼう抜きしたの。そうしたら、陸上部の先生が、「いや、増田さんは、こっちの陸上のほうが合ってるから、こっちへいらっしゃい、いらっしゃい」って言って。テニス部の先生が、止めてくれるかなと思ったら。テニス部の先生も、「あなたはね、テニスあんまり才能ないから、あっちへ行きなさい、行きなさい」って感じで。

鈴木美千代先生

増田さんを陸上の世界に導いたのが、テニス部の顧問だった鈴木美千代先生です。

小野:当時顧問でいらっしゃって、増田さんを陸上の世界に押し出した人物。

鈴木:そうですね、はい。

増田:なんで止めてくれなかったんですか(笑)。

鈴木:いやー、それはそうですけどね、やっぱり、もう。

小野:いや、どんな生徒さん?

鈴木:ダントツ速かったんですよ。

小野:足が?

鈴木:はい。

小野:増田さんのほうは、どうだったんですか?

鈴木:いや、もう泣いて。

小野:泣いて?

鈴木:もう絶対嫌だって言いました、本当に。

増田:私、泣いたっけ。

鈴木:そういいながらも、家から学校まで走っちゃいけないっていうのに、毎日朝走って来ちゃうんです。

増田:7キロあった、今日測ったら。

鈴木:そうでしょ。

増田:うちから学校まで。

小野:7キロですか。

増田:7キロね。

小野: 自分で走って登校するようになってたんですか。

増田:だって、ほら、テニスのときは頑張ったって、すぐに成績出なかったけど、陸上は、ちょっと頑張ったらどんどん記録よくなって。地区大会で勝って、千葉県大会でも優勝なんかするから欲が生まれちゃって。もっと強くなろう、もっと強くなろうって。

小野:そんな先生から見ると、実際、陸上への扉を開き、増田さんを陸上の世界へ送り出したということは誇らしいお気持ちでしたでしょ、その後。

鈴木:ええ、そうですけど、ずっとその後を追ってみるとちょっと挫折したり、倒れたり、そういう姿を見たくないから、この子の走ってる姿は、しばらく見られなかったです。

数々の大会で優勝 "天才少女"と呼ばれる

日本陸上選手権 女子3000メートル (1981年10月23日)

小柄な増田さんは常に先行逃げ切り。高校3年生の時には、日本選手権で3000メートルと1万メートルで優勝します。さらに、初めてのマラソン(千葉県の光町。現・横芝光町で開かれたマラソン)で日本最高記録を出して優勝しました。

小野:5000メートル、3000メートル、1万メートル、10キロ、20キロ、30キロ、42.195キロで日本記録。これ、すごいことですよね。

増田:そうね、当時は天才少女って言われちゃって。

小野:「天才少女」とか「金の卵」、「彗星(すいせい)のごとく」、「希望の星」、「最年少日本記録」とありました。そのころ、どんなだったんですか?

恩師 滝田詔生先生

増田:そのころはね、やっぱり、のってるからね。のってるときって楽しいですよね。そういう良い結果が短時間でできたっていうのは、まず、恩師の滝田詔生(つぐお)先生が、やっぱりね、美千代先生に負けないぐらいの熱い人でしたからね。

まるで戦争に行くみたいだった「日本代表」

高校卒業後、地元の実業団へ進んだ増田さん。女子マラソンが初めて正式種目となるロサンゼルスオリンピックを前に、「天才少女」は、オリンピック期待の星となっていったのです。

代表に選ばれ、暑さ対策として、ニューカレドニアや宮古島などで合宿。しかし、炎天下でのトレーニングで、20歳の増田さんは、肉体だけでなく、精神的にも追い詰められていきました。

増田:こっちは暑さ対策で、ちょっと調子よくないのに、最後の調整合宿で宮古島の地元の女子高校生に抜かれちゃったりしてて自信ないわけですよ。

小野:そのことはすごくショックだったってことですか?

増田:めちゃくちゃショックで、地元の高校生に抜かれるような人がオリンピックに行っていいのかしらって。出発の2週間ぐらい前ですよ。壮行会で皆さんが、「日の丸に恥じないように頑張ってきてください」って。

小野:大河ドラマ『いだてん』の世界になっていくんですね。

増田:『いだてん』に近かった、あれによく似てた。責任を持って走ってきてくださいって。どっか戦争に行くみたいな感じだったのね。「日本代表」っていうね。

小野:
そうですか。

増田:
だから私、最後の壮行会をすっぽかしたんだもん。

小野:
すっぽかすというと、行くって言っておいて行かなかった?

増田:そうなの、マスコミの人が100人ぐらい待ってたらしいんですけども、私はその場に、応援される場所にもういたくないっていう一心で、逃げたいと思って、どこでもよかったんですよ。

小野:どこ行かれたんですか?

増田:ポスターが電車の中に貼ってあって、それが鎌倉の八幡宮?「あっ、ここだ」っていって、そのまま鎌倉まで行っちゃって。もうね、自分が現実から逃避してるから、私は、帰ってこないんだもんって気持ちがあったのね。私は鎌倉に行って、江ノ電に乗って海を見ながら、私はシャボン玉みたいに消えちゃうんだもんっていう。

小野:それは、死のうと思ってらしたの?

増田:死ねないんだけど、たぶん、消えてしまいたいって。

オリンピックは途中棄権という結果に

ロサンゼルス五輪 (1984年)

オリンピックのスタートラインに立った増田さん。思い切り飛び出しますが、調子は良くありませんでした。4キロ付近で、後続に追いつかれます。そして、16キロ付近。増田さんのオリンピックは途中棄権という結果で終わりました。

小野:どんな気持ちであのとき…。

増田:自分がすごく惨めでしょうがなかったっていう気持ちですね。描いていた私のマラソンっていうのは、調子は悪いんだけども、いいイメージしかないんですよね。まぐれが起こるかもしれないって、悪くても入賞してるかもしれない、あと、もしかしたらメダルとるかもしれない、って思ってたのに、まったく逆のマラソンをやっていて飛び出したものの、4キロで追い付かれて。

小野:心が折れると走れなくなるものですか?

増田:そう。それで、「これを日本中の人がテレビで見てるんだ」っていうので、「また、かっこ悪いな」って。「あっ、惨めだな、私」って。私はもう日本には帰れないなって。あの時に思ったんですよ。

小野:日本に帰れないという思いになって、実際帰って、どうだったんですか?

増田:帰ってね、本当にね、ゲートを出てきたら、家族と親戚がみんな迎えに来てくれてるっていうことを知ってたから、家族のほうに走っていったんですよ。そうしたら、通りすがりの人に顔を見られたのね。その人が男の人だったんですけど、私に気付いて、指さして「おい、非国民!」って、それが成田空港に着いての第一声でした。

小野:なんでそんなこと言うんですかね。

増田:だから、時代だったんじゃないかな。うちのおばさんがそのときに迎えに来てくれてて、その声に、私以上に反応しちゃって、言われた瞬間に、自分がかぶっていた青い麦わら帽子をさっと私の頭にかぶして隠したの。親戚も惨めよね…。だから、やっぱり、成田空港はつらかったね。あれから、みんなして逃げたね。麦わら帽子をかぶって、スー、サササササッて逃げるようにして成田空港を後にしたことは、よく覚えています。

小野:でも、そこから今の増田さんにはどうやってなられたのですか?

増田:やっぱり、人ですよね。私、人って本当にありがたいなって思ったのも、そのオリンピックの後で。

立ち直るきっかけとなった出会い

増田さんが立ち直るきっかけとなった出会いが、アメリカでありました。「自分を変えたい」とオレゴン州ユージーンに留学した増田さん。

ルイーズ・オリベイラコーチ(右)

そこで出会ったのが、ブラジル人のルイーズ・オリベイラコーチです。練習に加わった増田さんは、思いもよらない言葉をかけられました。

増田:私がチームに入って1週間ぐらいしかたってないんですけども、ルイーズコーチに「明美、練習が終わった後来なさい」って呼ばれたの。何だろうって思って行ってみたら、「明美、僕はあなたを見てると、つらくなる」って言い始めるの。「えっ、どうして?」って聞いたら、「明美は毎日毎日よい結果を出したいって、思ってるでしょ」って。「でもね、よい結果というのは、自分が生きていてハッピーだって思えるときに生まれるんだよ」って言い出したんですよ。

小野:その答えを見つけられたんですか?

増田:あっちの練習は足痛めると、飛び込み専用のプールに行くんですよ。首だけ出たところで走るの、足が着かないところで。

小野:水中トレーニングを。

増田:でも、すっごいきついトレーニングで筋肉つくんです。一生懸命やってる私の顔を見て(ルイーズコーチが)ゲラゲラ笑っているんだもん。私は、もうさ「こっちが一生懸命やってんのに笑って何、この人」と思いながら。それで途中から力が抜けちゃって、その顔が面白いっていって。だから、ちょうど私の当時の性格には、ぴったりの指導者でしたね。

小野:思い詰めていた増田さんの心をほどいてくれた。

過去の自分を乗り越えたい

1988年の大阪国際女子マラソン 増田さん(左から2番目 ゼッケン31)

1988年の大阪国際女子マラソン。増田さんは、再びマラソンに挑みます。途中棄権したロサンゼルスオリンピック以来のマラソン。過去の自分を乗り越えたいと走り始めます。

増田:沿道からも優しい声援なんかもあって、「増田さんお帰りー!」なんて言われて、走ってたんですよ。そしたらね大阪城を超えた所、男の人の太い声で、「増田、お前の時代は終わったんや」って言われちゃって。またその声に負けちゃって。その瞬間が恥ずかしかったのね。

小野:だけど、無視して走り続けないと、心が折れると思います。

増田:今だったら私、大丈夫よ。今は、おばさん力だから。「もう終わってるよ、終わってるよ。でも頑張るよ、私」って言って、はねのけられるんだけど。当時は24歳、やっぱり、屈辱っていうか。私、その瞬間足が止まっちゃって。

小野:本当に、そんな心ない言葉を24歳でぶつけられたら、どんなにオレゴンでたくましくなって帰ってきていても、心が凍りつきますよね。

増田:逃げたいって、また思って、こんな無様な姿を沿道でもテレビでもみんなが見てるって。もう私の時代が終わってるって思って見てる人が多いんだったら、地下鉄乗ってホテルに帰りたいっていって、そこで地下鉄を探しながら歩いちゃって。

小野:でも完走なさったんですよね?

増田:そうしたらね、完走できたのは、歩いてる私を6人の市民ランナーの方が追い越していったんですけども、誰ひとりとして素通りしなかったの。みんな、気にかけてくれて。

増田:この歩いてる私の横に来て、走らせようとしてね。手拍子を打ったり、右肩をぽんとたたいて走り去ってったり、後ろ振り向きながら「増田さん、一緒に走ろう」って言ってくれる人とか、そういう人の後ろ姿が素敵なの。私、またその後ろ姿見てたら走りたくなって(笑)。

小野:あ、そうですか、それで。

増田:そう、それで後ろついて行った。最後の6人目の人としばらく走って、長居陸上競技場に運んでもらった感じ。みんな本当に気にしてくれて。だから、私、長居の陸上競技場に帰っていったら、生まれて初めて走りながら涙が止まらなくって。

小野:それはどんな涙で?

増田:私をここまで連れてきてくれた6人の人の優しさ、ありがとうっていう気持ちと、自分に対しても、昔の自分だったら、「お前の時代は終わったんや」っていう言葉には見えっ張りだから勝てなかった。

小野:それは誰だって…。

増田:でも、その言葉に勝って、「ここに戻って来れた、あなた偉いよね」っていう、自分に対して偉いよねっていう。

小野:本当、そうですね。

増田:いろんな気持ちが混ざり合っちゃって。30位でゴールしたんですよ。本当に、新しいスタートをきることができました。その新しいスタートきることができたのは6人の方のおかげ。

増田さんが陸上を始めたふるさとの街では、今、増田さんの名前を冠したマラソン大会が開かれています。増田さんが今伝えたいことは、「走ることを楽しんでほしい。」ということです。

小野:増田さんご自身では陸上をやってきた人生、どう思っていらっしゃるんですか?

増田:本当に陸上で走り続けてきてよかったと思ってます。陸上があったから、こういうようにいろんな方との出会いもあったし。私の後輩たちにも、頑張ってる人たちにいい出会いがあってほしいなって。だからね、今の選手たちにも私みたいなタイプの子がいると、ちゃんとしゃべるときがある。

小野:そうなんですか。

加世田梨花選手

増田:あのね、今、名城大学に加世田梨花ちゃんっていう成田高校の後輩がいるんですよ。「ちょっと昔の私に似てるな」って。顔つきとか、人を寄せ付けない世界に入っちゃってる感じが。加世田さんに会ったときに、自分の話をしたのね。アメリカでこうなって、でも、私はそういうアメリカでそういう経験をしてて、日本に帰ってきたら私にぴったりな言葉に出会ったって。それは論語で「知・好・楽(ち・こう・らく)」っていう。

小野:知・好・楽。

増田:この言葉に出会った時に「ああ、ルイーズコーチが言ってた言葉だ」って当てはまっちゃって。どういう意味かっていうと、私の解釈は、一つの事に打ち込んでるときに、そのことをよく知ってることは素晴らしい。でも、知ってるだけの人よりも、それを好きでやってる人が勝っていると。それよりも楽しんでる人がよい結果につながりますよって。加世田さんに言ったときには、「加世田、私のオリンピックは知で終わってたんだよ」って。陸上競技よく知ってて、40キロ走もやってきたって。でも、大舞台を楽しもうっていうところまでいかなかった。そんな話を加世田さんにしたら、この前、加世田さんにアンケート用紙、中継の前に見たら。何て書いてあるかな?座右の銘って見たら、「知・好・楽」って書いてあったの。可愛いでしょ?(笑)。

小野:やっぱり、陸上競技の増田さんはトップランナーなんですね。先行して、後ろの人たちのためのともしび、テールライトっていうか。

増田:テールライト、いいですね。そのテールライトで行きたい。テールライトで照らします。

小野:ありがとうございました。

増田:ありがとうございました。

小野文惠(聞き手)

平成4年入局。初任地は山口。「ガッテン」と「鶴瓶の家族に乾杯」を担当。4月からはラジオ第1の新番組「高橋源一郎の飛ぶ教室」(毎週(金)午後9時5分~)を担当。増田さんの美しいお声と明るいお人柄は憧れです。

杉嶋亮作(PD)

平成16年入局。現在、「インタビューここから」の制作のほか、ラジオ第1「増田明美のキキスギ?」(毎週(金)午後8時5分~)のMCを務めています。4月からはラジオ第1「ちきゅうラジオ」(毎週(土)(日)午後5時5分~)も担当。「細かすぎる解説」が生まれる増田さんの取材力に刺激を受けています。

塚原泰介(CP)

平成11年入局。これまで、「あさイチ」や「おはよう日本」でリポーターを務める。いまは、「インタビューここから」など、アナウンス室が制作している番組のプロデューサー業務を担当。

                   
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