読み込み中です...

2019年3月19日(火)

ソフトボール・宇津木妙子(シドニー五輪・アテネ五輪日本代表監督)-後編-「あの人に会いにいく」 -シリーズ 第3回-

スポーツの歴史を紡いできた名選手・指導者の知られざる物語に迫る、「あの人に会いにいく」。

ソフトボール女子の日本代表監督として、チームをシドニーオリンピック銀メダル、アテネオリンピック銅メダル獲得に導いた、宇津木妙子 元日本代表監督(65)の指導論、そしてソフトボール人生。後編です。

いよいよオリンピック実施

アトランタ五輪で中国を破った日本代表チーム (1996年)

現役時代にかなわなかった宇津木の夢が、とうとう叶う時がやってきた。1996年のアトランタ五輪。ソフトボールがオリンピックの正式競技に初めて採用されたのだ。当時はアメリカが“絶対女王”に君臨し、アジアでもなかなか中国の壁を突破できない時代。ナショナルチームのコーチとなった宇津木は、チームの4位入賞に貢献。

そして大会後、2000年のシドニー五輪での悲願のメダル獲得を目指して、日本代表の監督に就任した。選手がソフトボールに打ち込める環境を作るのが、指導者の役割だと信じていた宇津木は、協会とかけあい、選手選考や強化方針まですべてに責任を持つ、“全権監督”としてスタートを切る。そして選手たちには、こう宣言した。

宇津木妙子さん

メダルを獲ればソフトボールを認めてもらえる。私は現役でオリンピックには出られなかったけど、みんなはその舞台に立てる。

私も一生懸命やるから、みんなも頑張ってほしい。

宇津木がかかげたのは、守備を固めて守り勝つソフトボールだった。パワーで勝るアメリカに対し、日本には丁寧にコーナーをついて、打たせるピッチャーがそろっていた。塁間が野球より狭いソフトボールでは、一瞬ボールを握り損ねただけで、内野ゴロが内野安打になってしまうため、宇津木は得意の“速射”ノックで選手を鍛えに鍛え、自身の考えるチーム作りを進めていった。

外国選手への苦手意識を克服するため、海外合宿を重ね、実戦経験はオリンピックまでに実に140試合近くにも及んだ。宇津木はメダル獲得へ、考えられること全てに、妥協なく取り組んでいったのだ。

こうしてチーム作りを進める中、宇津木の最も優れていたことは、選手たちと正面から向き合い、自らの「ビジョン」を示し続けたことだと思う。選手登録の制限が厳しいオリンピックでは、わずか15人の選手で大会を戦わねばならない。つまり、複数の枚数をそろえる必要があるピッチャーを除けば、野手陣にはほとんど余裕がない状態になってしまう。守りのソフトボールをするためには、選手にも複数のポジションをこなせるよう取り組んでもらう必要があるのだ。

宇津木は選手に対してことあるごとに、自分がどんなソフトボールをしたいのか、そしてそのためには何が必要なのか、己の戦略を熱く語った。宇津木は戦略だけでなく、選手1人1人に、ポジションや打順についても自らの構想を具体的に伝え、お前はこういう場面でこう起用するよ、その準備をしておけよ、とビジョンを示したという。

宇津木妙子さん

私が目指す戦い方とか、起用方法とかを事前にしっかり伝えておけば、選手が自分でチームで期待されている役割がわかって練習しやすくなる。


メダルを獲るために、選手に余計な不安を感じさせず、自分なりの考えを持って、オリンピックまで過ごして欲しかったのです。

己の戦略を伝える中で、自分の活躍よりも、常にチームを考えよう、そしてソフトボール界のために頑張ろう、と繰り返し伝えた宇津木。チームは徐々にひとつにまとまっていき、最高の状態で、オリンピック本番を迎えることになった。

そしてシドニー

石川多映子選手

満を持して迎えたシドニー五輪。予選リーグ2連勝で、第3戦の相手は、強敵アメリカだ。宇津木が起用した先発、石川は抜群の制球力で打たせてとるピッチングを展開した。11本のヒットを許しながらも、ピンチでは徹底的に鍛え上げられた守備陣がなんなく打球をさばき、アメリカに得点を許さない。

シドニー五輪 予選リーグでアメリカに勝利 (2000年)

結果、アメリカはこの試合、残塁を20も記録。日本は延長11回、タイブレークの末に2対1で勝ち、大舞台で女王・アメリカから30年ぶりの勝利をもぎとった。

宇津木妙子さん

シドニーで一番印象に残っている試合といえば、予選リーグのアメリカ戦ですね。あの試合は、本当に思い通りに進んだというか、戦略を立てた通りのゲーム運びができました。

シドニー五輪 アメリカとの決勝でホームランを打った宇津木麗華選手 (2000年)

このまま勝ち上がった日本は、金メダルをかけ、決勝で再びアメリカと対戦する。その決勝、4回に主軸の宇津木麗華のホームランで先制し、日本がいい流れを呼び込んだ。しかし監督の宇津木には、すさまじい重圧がのしかかっていた。宇津木は今でも、自分の采配を悔やむ。

宇津木妙子さん

せっかく麗華のホームランで“いける!”ってなったのに、私がピッチャーの交代のタイミングを誤ってしまったんです。


決勝開始前から、ピッチャーは先発の増淵から高山へのリレーでいくと決めていました。でも先制後の5回、“ここで交代だ”って頭では思っているのに、体が動かなくなってしまったんです。タイムすらかけることができない。その間にどんどんプレーが進んでしまった。

結果、続投した増淵は同点タイムリーを打たれて試合は振り出しに。このまま白熱した投手戦が続いたが、延長8回、チームはサヨナラで敗れ、金メダルには手が届かなかった。

日本ソフトボール界初の銀メダルという快挙にも、宇津木は自分の采配ミスで、金メダルを逃してしまったという悔しさのほうが強かったという。

その悔しさから救ってくれたのは、世界の頂点目指して4年間、ともに苦しい日々をすごしてきた選手たちの思いもよらない行動だった。

宇津木妙子さん

監督はオリンピックでメダルをもらえないのですが、選手たちはシドニー入りする前に、私のための“金メダル”を用意してくれていたんです。おもちゃのメダルなんですけどね(笑)。


決勝が終わったら、全員で金メダルをかけて記念撮影するつもりだったみたいですけど、結果的に選手が銀メダルなのに私だけ金メダルになってしまって(笑)でも、選手たちの気持ちが本当にうれしかったなあ。

ソフトボール普及に取り組む日々

アテネ五輪で2大会連続メダルとなる銅メダルを獲得し、日本代表の監督を勇退した宇津木。現在は、地元開催の五輪で金メダルを目指す日本ソフトボール協会の副会長を務めるかたわら、子供たちへのソフトボールの指導と普及のため、全国、いや世界中を飛び回っている。

宇津木妙子さん

先日もアフリカのガンビアに行ってきたんです。そしたらね、10年前に教えた現地の女の子がこんどは指導者として参加してくれてね。私が教えてからずっとソフトボールを続けてくれたんだと思ったら感動して。


私は世界中にソフトボールの種をまく。そしてそれが少しずつでも芽を出してくれているなら、本当にうれしい。

取材後、2024年のパリ五輪組織委員会が実施競技の候補から、野球・ソフトボールを外したことを明らかにした。ようやく東京で復帰したのにも関わらず、改めて五輪復帰へ、やり直しを迫られることになった。プロという存在があり、五輪以外で常に注目を集めることが可能な「野球」よりも、「ソフトボール」のほうが、ダメージは大きいはずだ。

落胆している様子を想像しながら、宇津木に改めて連絡をとった。残念な決定でしたね、と。

宇津木妙子さん

そりゃ残念だけど、しょうがないですよね。ソフトボールはヨーロッパで行われる五輪で採用してもらえるだけの人気が、まだまだなかったということです。


でもまずやらなきゃいけないのは、東京五輪を成功させること。日本が金メダルをとる、という意味だけではなく、世界から参加した6チームがスピードやパワー、それぞれの持ち味を存分に発揮して、1人でも多くの世界の人たちに“ソフトボールってすごいな、面白いな”って思ってもらいたいんです。


オリンピックから外れたってソフトボールがなくなるわけじゃない。その次を目指して、また頑張ります。

この人がいる限り、ソフトボールの未来は明るい。そう思えた。

小澤正修

平成5年入局。広島局や大阪局で勤務し、現在はスポーツニュース部デスク、解説委員(スポーツ担当)兼務。野球、柔道などを担当し、3回の五輪やアジア大会などの取材にも当たった。自身も選手として野球に取り組み、春のセンバツ高校野球への出場経験がある。

                   
※NHKサイトを離れます

関連記事

    人気の記事ランキング

      記事ランキングをもっと見る

      最新の記事