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2019年3月17日(日)

ソフトボール・宇津木妙子(シドニー五輪・アテネ五輪日本代表監督)-前編-「あの人に会いに行く」 -シリーズ 第3回-

スポーツの歴史を紡いできた名選手・指導者の知られざる物語に迫る、コーナー、「あの人に会いにいく」。

今回は、ソフトボール女子の日本代表監督として、チームをシドニーオリンピック銀メダル、アテネオリンピック銅メダル獲得に導いた、宇津木妙子 元日本代表監督(65)の指導論、そしてソフトボール人生です。(前編)

ソフトボール界の"名将" 宇津木妙子

ソフトボールと言えば、すぐこの人の名前があがる。1分間に40球打つとも言われる、“速射”ノックで徹底的に選手を鍛え上げ、ベンチではサングラスをかけて、微動だにせずに采配を振るう。グラウンドでは一切の妥協をせず、たるんだプレーには、厳しい言葉を浴びせることもいとわない。

一方で、テレビの解説をしていた北京五輪では、教え子たちの金メダル獲得の瞬間、声にならない声で絶叫し、涙を流しながら、選手ひとりひとりの名前をあげてプレーをたたえていた人情家。それが宇津木妙子(65)元日本代表監督だ。

身長1メートル58センチと小柄な宇津木は、柔らかい笑顔を浮かべてこう話してくれた。

宇津木妙子さん

選手を叱り飛ばすシーンばっかり伝えられるから、“怖い人”というイメージがついちゃったんだけど、自分ではそんなことはないと思うんですよね(笑)。


もちろんグラウンドでは厳しいですけど、選手への愛情では誰にも負けなかったと思っていますよ。

“オリンピック”と“ソフトボール”には意外な出会いが

昭和28年に、今の埼玉県川島町で生まれた宇津木。小学生の頃は走ることが得意で、かけっこでは誰にも負けない、元気の良い女の子だった。のちに日本のソフトボール女子を象徴する存在になる宇津木だが、実はソフトボールよりも先に、オリンピックとの出会いがあったという。

宇津木妙子さん

小学5年生の時に前回の東京オリンピックがあったんです。その時、聖火リレーが私の小学校にも回ってきたんですけど、なぜか私が学校を代表して、聖火を持って校庭を1周したんですね。


6年生もいたのに、どうして私が代表だったんだろうって、思うんですけど、あれでオリンピックという存在を強烈に意識したのは間違いないですね。

宇津木は、すでに自宅にあったカラーテレビのブラウン管を通して、バレーボールの“東洋の魔女“、マラソンの”裸足のアベベ“といった、東京五輪の一流選手の活躍に胸を躍らせた。

しかし中学生になると、陸上競技ではなく、オリンピックでは採用されていなかったソフトボールを始めるのだから、人生はわからない。宇津木は懐かしそうに振り返る。

中学3年の時の宇津木妙子さん(二列目右端)

宇津木妙子さん

当時は住んでいたところが交通の便があまりよくなくて、中学校まで自転車で片道1時間くらいかかったんですよ。自宅近くに住んでいる先輩や友人が、ソフトボール部員が多かったので、一緒に登下校したくて、私もソフトボール部に入ったというわけなんです(笑)。


“ソフトボールってオリンピックでやってないんだ”ってあとで知ったんですけど、それがここまでのめり込むことになるんですから不思議ですよね。

ソフトボールを世界に

提供:宇津木さん

積極的な理由で始めたわけではないソフトボールだったが、宇津木はすぐその魅力にとりつかれた。バットでボールを思い切り飛ばす感触、猛ゴロを華麗にさばいてアウトにした時の達成感。自身について、「エリートじゃなかった」と苦笑いする宇津木だが、高校で国体準優勝などの実績を残し、岐阜県にあった実業団のユニチカ垂井では、内野手、主にサードとして長くプレーした。

宇津木妙子さん(後列真ん中) 提供:宇津木さん

主将も務めてチームを全国有数の強豪に引き上げ、自身も世界選手権の日本代表として、銀メダルを獲得。数多くの全日本タイトルに輝き、13年間プレーしたのちに現役を引退したが、引退時の出来事が、宇津木にある決意をさせた。

宇津木妙子さん

ユニチカには、抜群の人気があったバレーボール女子のオリンピック選手がいて、たまたま引退の時期が同じ頃だったんですけど、その選手には会社から金一封が出たのに、私にはなにもなくて(笑)。


当時の上司が掛け合ってくれて、結局、頂けたんですけど、“あ~やっぱりソフトって、日本代表でプレーしても、まだまだそういうマイナーな存在なんだな”って痛感しました。だから、私がソフトボールをもっとメジャーなスポーツにしてやろうって思ったんです

女性監督として

写真は1998年 日本代表監督時の宇津木さん

現役引退後、ソフトボール界初の“女性監督”として、群馬県を本拠にする日立高崎の監督に就任した。当時、日本リーグ3部のチームの“女性監督”には、苦労が多かったという。“女に何ができるんだ”という声が絶えず耳に入る中、宇津木は、グラウンドで選手を鍛えることに関しては、男女の差はない、それどころか、指導者と選手が同性同士ということで、むしろメリットがあると考えていた。

そのひとつが、練習後、寮などの風呂に選手と一緒に入ってかわすコミュニケーションだった。

宇津木妙子さん

やっぱり選手って、監督に、自分のことをちゃんと見ていてほしいって思うじゃないですか。だから、特に練習中に声をかけられなかった選手とは意識して、リラックスできる風呂でコミュニケーションをはかりました。同性じゃなかったらできないですよね(笑)。


グラウンドを離れたら、どの選手とも公平につきあうことをなによりも大事にしていたんです。私自身がお風呂好きというのもありますが、全員と話すために入っていたら2時間もたってしまったということもありました(笑)。

選手には24時間ソフトボールのことを考えろ、と語りかけ、練習では限界に絶えず挑戦させた。練習中の無駄口はもってのほか。「集中していないなら外れていろ!」などと選手に容赦なく厳しい言葉を浴びせながら、自分の持つソフトボールの全知識・全技術を伝えた。

「妥協を許さない厳しい指導者」の一方で、宇津木は、選手を信頼する、認めることも忘れなかった。「1部なんて大したことない、あんたたちのほうが上」、「うまいね、私にはそんなことできなかったなあ」と、ことあるごとにほめ続けた。

日本リーグ1部チームの元主将で、日本代表にも選ばれた宇津木にそう繰り返され、選手たちは徐々に、「自分たちなんて…」という劣等感を払拭していった。私は選手たちを「乗せる」ためにあえて、そうした言葉を発していたのか、と思ったが、宇津木はそうではなく、本音の言葉だったと振り返る。

宇津木妙子さん

私はね、本当にそう思って言っていたの。自分自身、エリートじゃなくて、なにくそってやってきただけの選手だったからね(笑)。


もちろん計算して言ったこともあるけど、本気じゃない言葉っていつか、わかっちゃうじゃないですか。基本的に、選手たちには正面からぶつかりたいんです。だからいつも本音で、選手たちと“勝負”していた感じかな。

トレードマークの"サングラス" その訳は・・・

ふんぞり返った監督はいらない、というのも、宇津木のポリシーだ。ベンチではずっと立ったまま、トレードマークのサングラスをかけて、采配を振るうが、これも3部のチームを率いていた頃の出来事がきっかけだったという。

宇津木妙子さん

ある試合でクリーンアップの選手が、三振をしたんです。実力からしたら打てるはずなのに、おかしいなあと思って、戻ってきたところで聞いたんですね、どうしたんだ?って。そうしたら、“ベンチで監督が、頭を抱えるようなしぐさをしていたので、打てないと思っているんだな、と感じてしまいました”と。


また別の試合では正直あまり期待していない選手がサヨナラホームランを打ったので、よく打ったな!とほめたら、“ベンチで監督が、うんうんとうなずいていたので、打てると言われているように感じた“と。


そういうのを聞いて、監督のしぐさって、何気ないものでも、選手のプレーに大きく影響を与えるんだなって教えられたんです。そこからですよ、サングラスをかけるようになったのは。監督はどんな場面でも動じず、どっしり構えて、平然と”いいよ、いけるよ“という顔でうなずくようにしてなきゃいけないんだって思ったんです。

日立高崎で指導者としての引き出しを増やした宇津木。日本リーグ3部の弱小チームをわずか2年あまりで一気に1部に昇格させ、自身も、日本代表の指導者へと一歩一歩進んでいった。

その先にはソフトボールがオリンピックで実施されるという、夢のようなビッグニュースが待っていた。

小澤正修

平成5年入局。広島局や大阪局で勤務し、現在はスポーツニュース部デスク、解説委員(スポーツ担当)兼務。野球、柔道などを担当し、3回の五輪やアジア大会などの取材にも当たった。自身も選手として野球に取り組み、春のセンバツ高校野球への出場経験がある。

                   
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