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2019年2月19日(火)

引退の岩政大樹「島から始まったサッカー人生」

山口県出身の元サッカー日本代表、岩政大樹さん。Jリーグ1部の鹿島アントラーズで10年間プレーし、ヘディングを武器に、主力としてリーグ3連覇に貢献。2010年にはワールドカップの日本代表メンバーにも選ばれました。

去年秋に15年間の現役生活にピリオドを打った岩政さん。そのサッカー人生の原点となったのは、生まれ育った周防大島でした。島の外まで通いながらサッカーを続けた小学時代。部員わずか14人、島のチームを引っ張り、県大会優勝に導いた中学時代。不利な島の環境をプラスに変えていきました。島が導いた岩政さんのサッカー人生に迫ります。

"僕の原点"は才能がないことに気づいたこと

岩政さんが生まれ育った周防大島町。サッカーに対する情熱を育んだふるさとを、岩政さんと訪ねました。

まずは岩政さんの母校、沖浦小学校へ。

──ここが岩政さんが小学校時代過ごしたまさにその場所になるわけですけど、今この場所やってきて、思い出がよみがえってきたりしますか?

岩政大樹さん

ほとんど原型は昔のままですし、懐かしい思いは何回来てもありますね。

岩政さん(右から2番目) 岩政さんの兄 (右から3番目)

岩政さんは、昭和57年生まれ。地元周防大島町で教員を務める両親と、3つ上の兄とともに育ちました。全校生徒がおよそ30人しかいない小学校の中で、兄とボールを蹴って遊んだことがサッカーを始めるきっかけになりました。

岩政大樹さん

特に僕は、兄貴が自分の中でライバルみたいなところがあって。


当然かなわないんですけど、なんかそこに追いつけ追い越せでいろんなことをやっていて、負けて泣いたりとかしていましたし、そういう負けず嫌いはあったんでしょうね。

──小学4年生のときに、サッカーのクラブチームに入って本格的にサッカーを始めていくわけですけど、当時の岩政少年はどのようなプレーヤーだったんですか?

岩政大樹さん

負けん気が強くて、がむしゃら、ひたむき、体を張る、声を出す、最後まで変わらないですけどね。

──技術が高いとか、スピードがあるとか、何か特徴的なものは?

岩政大樹さん

技術もスピードもなかったですよ。サッカーの才能という、みなさんが思うものの中には、なにもなかったですね。


別に自分は技術がないんだったら、声出したり、体はったり、苦しい局面を粘ったり、最後まで諦めなかったり、みたいなところで貢献すればいいんだという意識が当時からありましたね。

──そういうふうに転換していくのは、すごいなと。

岩政大樹さん

そうですね。だから僕の兄ともよく話すんですけど、僕のサッカー人生のスタート、原点というのはそこなんですよ。


“自分のサッカーは下手だ、サッカー選手の才能はない”ってところに気づいたところが僕の原点で。なんか別に、得意なことで勝負しようというのは、あんまり意識することは当時からなかったですね。

恵まれた環境とはいえない中での練習

近くに広場もなく、競いあう仲間もいない島は決して恵まれた環境とはいえない中、岩政さんは、ここで一人でボールを蹴って練習しました。

岩政大樹さん

母親が、晩御飯できてそろそろ入りなさいと、真っ暗になるのでというまで、ここで蹴っていた感じでしたね。僕は結構ずっと蹴っていましたね。


あー、懐かしいな。おっ、今もちょっとバウンド変わるじゃないですか、この感覚が非常にいい練習になったんだと思うんですけど。

──というのは?

岩政大樹さん

DFだからゴール前とかで瞬間的に反応しなきゃいけないときに、結構、僕、反応早かったんですけど。


(ここでの練習が)すごくよかったんじゃないかなと。

岩政大樹さん

ここなんかに、たまたまあたることがあるんですよ。ボコんと、へんなところに落ちちゃったりしてて、それも反応しなきゃいけないので。その感覚ってDFに合っているなと、今思ってますね。

"何事も一生懸命にやったから 僕に返ってきた"

中学に入ってもその不利な環境を力にしていきます。全校生徒が30人にも満たない小さな学校で、岩政さんは生徒会長を務めていました。

陸上部しかなかったため、サッカーは地域のクラブチームに所属、生徒会長、陸上、サッカーを同時にこなしたことが、のちに役立ちました。

──本当にいろんなことを経験した場所だったと思います。

岩政大樹さん

決して全部好きだったわけではないです。特に勉強なんて別に大して好きじゃなかったですけど。でもやらないといけないと思って、一生懸命やったんですよね。


別に陸上が好きだったわけではなくて、でも一生懸命やったから、幅跳びがヘディングにつながったりとか、数学がちょっと論理的な思考につながったりとか、それって一生懸命やったから、僕に返ってきたと思うんですよね。

不利な環境のなかで "自分はどうできるのか"考えた

岩政さんは、島の子どもたちだけで結成したクラブチームでサッカーを続けました。

少ない人数、それぞれが他の部活と掛け持ちして、週末だけ練習するという環境でした。そんな中、わずか14人のチームをキャプテンとして引っ張り、見事県大会優勝に導きました。

岩政大樹さん

その14人しかいない中で、他の街のクラブと対戦したときに、どう勝っていくかを自分の中で非常に考えるようになりましたし、試合の中でゲームプランみたいなことを考えて、試合の中の少しペースチェンジみたいなことを作って、それで発想力をより生かしていくということはやってましたかね。


立ち上がり入ってみたら、相手のほうが少しうまいなと、攻められるなとなったときに、後半の途中から少しペースをあげて、相手の背後をついたりとか、相手が疲れたところに、自分たちの体力がより有効に生かされる戦いを作っていくというようなことは、勝手に考えていたんですよね。


勝手にそれで選手たちを操って、戦っていたというのは、珍しいかなと思いますね。

──島というと、サッカーを続けていく環境としては、不利なところがあったりするのかなと客観的には思えるわけですが、そういうところを全部プラスに変えていった感じがします。

岩政大樹さん

だから大島に子供たちがたくさんいないとか、サッカーをすぐにできる環境がないとか、いろんな人と競争する環境がないとか、不利な条件っていくらでも考えられたと思うんですけど、そこに頭はほとんど行ってなかったですね。


むしろ自分はその環境でどうするんだ、どうしたらその環境の中で自分はできるようになっていくんだということに目が行っていたので。

家族の支えも力に

そんな岩政さんを支えたのは家族でした。島の外の練習場まで、祖父母や両親が車で送り迎えするなど、地理的にも不利な環境を家族とともに乗り越えていきました。

岩政さんの祖父母

岩政大樹さん

6時間目が終わる時間に必ず、向こうの奥の駐車場におじいちゃんがトラックをつけて待っていて。


僕がそこにすぐに乗り込んで、そこでトラックの中で、おばあちゃんが作った軽食を食べて、その道中、30分、40分ちかくありましたかね、ほぼ寝ていましたけど、おじいちゃんに送ってもらって。

岩政大樹さん

そんなに簡単なことではないですよ、当時60代ですから、おじいちゃんも。そこは非常に感謝しないといけないなというのは、どこかの時点で気づきましたよね。


僕はサッカー選手として生きていくときには、必ずその両親とか祖父母に感謝しなければ、感謝する中で戦っていく場所だというふうにはずっと思っていましたね。

代表に選ばれたとき "支えてくれた人たちに一つ恩返しできた"

家族への感謝を形として返すことができたのは、2010年の南アフリカワールドカップの代表メンバーに選ばれたときでした。

岡田武史監督

岡田監督「ディフェンス、中澤、トウーリオ、今野、岩政」。

岩政さんのおじいさん「やーい、やったぞー、万歳、万歳」。

岩政大樹さん

あそこでメンバー選ばれたときなんかも、自分自身でうれしいんですけど、それ以上に僕を支えてくれた人たちが喜んでくれることほうが、ほっとしたというか、その感覚がやっぱりありましたので。


あとになってその映像が見られたときは非常にうれしかったですし、決まって電話して話したときは、僕は感無量でしたね。

そしてワールドカップ本番。周防大島では、地元の人たちが一体となって応援しました。

岩政さん (左端)

岩政さんは、ワールドカップでの出場はありませんでしたが、ベンチからチームを支えました。

岩政大樹さん

僕は、僕で一人でサッカーをやってきたわけではなかったので、そういう面で、おめでとうございますは、両親とか祖父母に対するものですよね。


僕にあえてわざわざたくさん時間をさいて、協力をしてくれたものが一つ報われたといえるような形にはなったので、そこは大きかったですね。

現役を引退した今 "新たな一歩"

現役を引退した岩政さんは今、新たな一歩を踏み出しています。テレビのサッカー番組の司会を担当。日本代表をテーマに、自分の経験を交え解説していました。

さらに、新たな解説のスタイルにも挑戦。アジアカップ日本代表の試合中、SNSで視聴者からの質問に答えながら、解説をしていました。

ブログでの情報発信も現役時代から続けています。ブログのタイトルは、「ノーペイン、ノーゲイン」。岩政さんの座右の銘です。

努力や苦労なくして得るものはないという意味があります。これは岩政さんが高校時代に経験したある出来事がもとになっています。

国体を最後に"サッカー人生を終えるつもりだった"

それは、岩国高校3年生のとき。国体の山口県代表に選ばれた岩政さん、この大会を最後に、サッカーをやめるつもりでした。しかし、本番2日前の練習で足を骨折、大会に出られなくなりました。

岩政大樹さん

僕は国体を目標にして、そこで全国大会を味わって、全国のレベルを知って一つの完全燃焼してサッカー人生を終える。僕の中ではある意味美しい終わり方だと思っていたので。


そこに向かう道の中ではりきって練習をしていたわけですけど、そこでケガをして、その翌日一日検査してみたら、骨折だと、当然、国体には出られません。僕は悩みながら家に帰ったんですけど、そこでおじいちゃんですね。おじいちゃんが僕を迎えて抱き寄せたんですよね。

岩政大樹さん

よく覚えているんですけど、僕は180以上あって、おじいちゃん160なかったんで、すごい小さかったんですけど、じいちゃんが僕を肩に抱いて、『お前が国体選手に選ばれたのはお前の力であって、正真正銘の国体選手なんだから行ってこい』と、言ってくれたんですね。


それで僕はよしじゃあ、悔しいけれど行ってこようと。ずっと試合には出られない中でですね、悔しい思いを抱えながら、1週間すごすということをしたんですけどね。そこで期間中に、僕はやはりそのままだったら、サッカーやめれないという感覚になって、そこでサッカーを続けることにして、あのおじいちゃんの一言は大きかったですね。

悔しさバネに現役続行 鹿島アントラーズに入団

大学時代の岩政さん

岩政さんは現役を続行。悔しさをバネに東京の大学でプレーします。その結果、大学日本代表に選ばれるほどのプレーヤーに成長しました。

そして2004年、Jリーグの強豪・鹿島アントラーズに入団。アントラーズでは、ヘディングを武器に、レギュラーとして10年間にわたり活躍。2007年からのJ1、3連覇に大きく貢献しました。

なぜ日本のトップで長く活躍できたのか。そこには、少年時代から育んだ岩政さんならではの考えがありました。

岩政大樹さん

鹿島での10年というのは、僕がそもそも続けるということでしか生き残れないというのが最初にあったんですね。で、続けるのはどういうことかといいますと、僕はその才能がなかった、才能がなかったってことは、例えば2、3試合とか、1か月くらいのスパンで活躍する度合いは、正直、才能あるやつにかなわないんですよ。


1年じゃなくて、2、3年。もっと長くて5年、10年、できるだけですけど、長く結果を出し続ける、コンスタントな結果ですね、華々しい結果はいらないので、コンスタントな結果を出し続ける、ということを目標にしていこうと、僕のスタイルにしていこうと。


ディフェンスにおいてはいいポジションをとり続ける、というのはまず第一だと、いいポジションとって、いい場所でクリアしていれば、ファインプレーなんかないんですけど、でもそれでいいんです。華々しく決してないですけど、1シーズン終わったときに失点数が少なくなります。そうすれば、これを3年、4年、5年と続けていって、最終的には、1年目の秋から丸9年間、僕は鹿島の中で試合に出られないという時期を過ごさずにいけたというのは、一生の僕の中で一番の自慢ですし、ここが僕の一つのスタイルであって、それが鹿島での“続ける秘訣”でしたね。

長いプロ生活の中で"忘れられない試合"とは

鹿島を退団後、海外のタイのクラブで1年間プレー。そこでもチームを優勝に導きました。

そしてJ2の岡山に移籍。キャプテンをつとめ、J1昇格を目指すチームを引っ張りました。その岡山で過ごした最後のシーズンに、長いプロ生活の中でも、忘れられない試合があります。

岡山2年目の開幕戦で、当時J2に昇格したばかりのレノファ山口と対戦。岩政さんがプロになって初めて、ふるさと山口でプレーする試合となりました。

岩政大樹さん

名前が呼ばれたときに、拍手をしてくださるメインスタンドの方だったりこっちに帰ってきてプレーを見せるというのは、最後の1年でそれができたのはやはり縁だと思いましたし。

1対1で迎えた後半。勝ち越しを狙った岩政さんのヘディングシュートは、ゴールポストに直撃しました。

岩政大樹さん

最後、僕のヘディングがポストに当たって1対1で終わったんですけど、入らなくてよかったなと率直に思いましたね。なんか引き分けが僕にとってよかったです。あの1戦というのは大きかったですね、非常によかった。あの試合によって、なんでしょうね、一つ僕の18から飛び出していった旅みたいなものが、なんか終わりを迎えているような感覚はありましたよね。


だから予想どおり、その年でJリーガーをやめる年になりましたけど、最後に山口に来たっていうのも、何かに導かれているような気がしたので、そういう面でも、あの年に来れて、あの年で辞められたというのは、僕は納得してますけどね。

島から始まったサッカー人生

島から始まったサッカー人生。岩政さんは、自分を育んでくれたふるさとに感謝しています。

岩政大樹さん

自分が小さい頃、山口県にいたころのことを自分は思い返すんですけど、そのときの自分を振り返ってみてよかったなと思うのは、その環境の部分ですよね。


その環境にあるもの、自分が目の前にやらなくてはいけないこと、そこに目を向けて歩んできたことが、無意識でしたけどよかったなと思っていて。歩き方というのは岩政家の歩き方でしたし、ある面で大島の人たちの風土でしたし、それは山口県も含めてですかね。そういう空気感の中で育てられたというのは、少なからずあると思います。

この島に生まれたからこそ得られた、かけがえのない人生。これからも歩み続けます。

松岡孝行

山口放送局アナウンサー。平成17年入局。平成28年から山口局。去年の周防大島の大規模断水を精力的に取材し、ラジオ特番を制作。取材の中で、周防大島出身のサッカー元日本代表・岩政大樹さんの生き方に共感し、番組を提案。

荻山恭平

山口局アナウンサー。平成9年入局。松山局、アナウンス室などを経て、現在、山口局。ロンドン五輪を現地取材。選手だけでなく、W杯審判、漫画家などサッカー関係者の番組を制作。

                   
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