• 祖母から聞いた話です。鹿児島県出身で遠縁同士だった祖父母は、お見合いもすることなく結婚することに。その時すでに祖父は中国の満州鉄道で働いており、顔合わせもすることなく満州に祖母は嫁ぎました。戦争が続く中、祖母は中国にある日本企業の薬剤製造工場で働き、働いている中国人におやつとして配給されていたお菓子を日本人に見つからないよう、こっそり中国人に配っていたそうです。
  • 8人きょうだいの長女だった母方の祖母から聞いた話です。祖母はすずさんとひとつ違いの大正15(昭和元)年、横浜生まれ。戦局が悪化していたある日、たまたま一人で留守番することに。浮かれた祖母はこっそり母親の口紅を借り、当時大人気だった李香蘭のメイクをまねしようと思いつきました。

映画『この世界の片隅に』
片渕須直監督

戦時中を生きた人は、大なり小なり、個人としての可能性を奪われるという意味で不幸な目に遭っています。本来ならどんな可能性があったのか。戦争が奪い去ったものとはなんだったのか。
そうしたことを考えるために、その時代に生活した人々の姿をたくさんたくさん知っておきたい。たくさんのすずさん、あちこちのすずさんのことを。

番組情報

特集番組「#あちこちのすずさん2021~教えてください あなたの戦争~

8月12日(木)午後7:30~8:42[総合]

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    #あちこちのすずさんでは、“戦争の中の暮らし”をどう伝えるか、をテーマにしたワークショップを開催しています。
    開催日等はご相談のうえ設定させていただきます。全国の中学・高校・大学・各種学校様からのご応募を、心よりお待ちしております。


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    • 祖母から聞いた話です。鹿児島県出身で遠縁同士だった祖父母は、お見合いもすることなく結婚することに。その時すでに祖父は中国の満州鉄道で働いており、顔合わせもすることなく満州に祖母は嫁ぎました。戦争が続く中、祖母は中国にある日本企業の薬剤製造工場で働き、働いている中国人におやつとして配給されていたお菓子を日本人に見つからないよう、こっそり中国人に配っていたそうです。
    • 8人きょうだいの長女だった母方の祖母から聞いた話です。祖母はすずさんとひとつ違いの大正15(昭和元)年、横浜生まれ。戦局が悪化していたある日、たまたま一人で留守番することに。浮かれた祖母はこっそり母親の口紅を借り、当時大人気だった李香蘭のメイクをまねしようと思いつきました。ところが折悪く、大学生だった長兄の友人が出征のあいさつにやって来ました。軍刀を鳴らし、気をつけの姿勢で「お父様、お兄様はいらっしゃいますか」とたずねる友人に、李香蘭とは大違いの顔に塗りかけの口紅を見られるのが恥ずかしい祖母は、玄関で顔を伏せたまま「あいにく家の者は皆留守でして……」と答えるのが精いっぱいでした。その後、建物疎開した祖母一家は横浜大空襲は生き延びたものの、軒先で飼っていたカナリアが焼き鳥になるなど一帯はひどい被害を受け、友人の消息は分からずじまい。三井鉱山に就職が内定した長兄も繰り上げ卒業となって召集され、輸送船ごとルソン島沖に沈みました。銀行員の次兄もビルマで戦死し、8人きょうだいのうち戦後の豊かな暮らしを味わえたのは女性ばかり3人だけでした。
    • 祖母から聞いたお話です。戦時中はまだ最低限配給が機能していたが戦後は何もなし、そんな頃、田舎生まれだった祖母はご近所が農家さんとの物々交換に着物しかなく、それもどんどん価値が下がっていくのを見ながら、農家が欲しいのは肉だと養鶏を初め、タダのドジョウやハコベで育てた若鶏を交換した処、米でも小麦粉でも手に入らない物はなかったと言っていました。鳥取県人凄い。
    • 一昨年亡くなったおばあちゃんの家には、畑の真ん中に小山があります。小さい頃は雪が降る度にソリで滑ったり、夏には小山に登ってトウモロコシやナスやトマトでいっぱいの畑を眺めるのが好きでした。
      実はこの小山は戦時中、防空壕だったとその後で知りました。サイレンがなると家族みんなそこにこもったそうです。避難中に畑の真ん中を銃弾が一直線に空から降ってきたこともあったそうです。
    • 顔見知りのお婆ちゃんから聞いた話です。 和歌山上空にB29が、何騎も飛んできて、防空壕に母と逃げたとき、防空壕のてまえで、爆撃に遭われて、お婆ちゃんのお母さんが目の前で亡くなりました。早よ行きいわれて、防空壕に逃げたけれど、身体が凍りついて、血の気が亡くなったそうです。 その悲しさいうたら、いまも、涙が出てくるそうです。
      そんなこんなで、終戦迎えたら、浜にアメリカの軍艦がやってきて、みんな衣類を持って、ハローハロー言うて、チョコレートやら、ビスケットをに交換してもらいに船で行くんだそうです。また、和歌山城に爆撃が落ちたときには、焼け焦げたひとが、お城のお堀に飛び込んで、お堀が死体であふれたそうです。闇市の話も聞きました、自転車で10キロ先の農家にお米を買いに行くのだけれど、帰り、憲兵さんに捕まって、全部没収されて、帰ってきたそうです。お米なんか、食べられず、芋のツルが主食だったと言ってます。
    • 私のお母さんに聞いた話です。お父さんが戦地に行って終戦後帰って来た時に乾パンを沢山もって帰ってきてくれて、とても嬉しかったそうです。ちなみにお顔は太ってパンパンだったとか。母は当時何も食べるものがなかったので、今でも食べるものを残すのをとても嫌がります。
    • 小さな頃お世話になったシスターのお話。とてもおしゃれが出来るような日常では無かったけれど、女の子達で集まった時は各々自分の爪と爪をかちゃかちゃとこすり合わせて、「爪がツヤツヤになった!」とはしゃいでいたそうです。
    • 義父から聞いた話です。暑い方の国に行き、無線兵だったと言っていました。お腹が空いても木ノ実を食べれたし着るものも暑かったから大丈夫だったと淡々と話してくれました。戦争が終わり三年間捕虜になり迎えの引き揚げ船を待っていましたが一艘目では乗れず三艘目でやっと乗れたときは嬉しかったと。子供の宿題で聞いたのですが、主人はその話聞いた事ないと言っていました。話したくない事を話してくれてありがとうお義父さん。
    • おじいちゃんの3人目の奥さんであった、私のおばあちゃんから聞いた話。
      おじいちゃんの奥さん、みんな病気や行方不明やらで、私がおばあちゃん、と思ってたのは、3人目の奥さん。子どものときは、川崎に住んでたんだけど、空襲で、飼ってた鶏が焼けちゃって、それを食べたら死ぬほど美味しかったって。
      あと、疎開先であんまり食べものがなくて、田舎の何もない自然の中で、友達と走って遊んでたら、トマト畑があって、それまで嫌いだったけど、川で冷やして食べたら死ぬほど美味しかったって。本当に美味しかった、トマトはとても美味しいのよ〜〜って、目を細めながら私に教えてくれた。私、トマト嫌いだったんだ。トマトを見ると、たまに思い出す。鳥は、どうやって食べたんだろう?戦争のこと教えてくれたのは、その2つの話しだけ。
    • 父は戦争中、小学生、9人兄弟姉妹の長男でした。当時、大家族は着る服も不足。すると、私の祖母に当たる人物、父にすればお母さんは、鯉のぼりを納屋から出してきて、惜しみながらも9等分に切り、着物を作ったそう。すると、父の着物には、鯉のぼりの大きな大きな目があり、また小さかった父の体はその大きな目で覆われた、と。でも、なんだかとても楽しくて、とても嬉しかった、と話していました!
    • 私の祖母が存命中に聞いた話です。祖母は長崎の島原に住んでいました。8月9日の原爆投下時は、あまりに大きな音で隣に爆弾が落ちたかと思ったそうです。映画の中ですずさんやけいこさんが感じたのと同じだな。と思いました。
    • 義母の話ですが、あの時代には珍しく、食べる物は、お蔵にお芋等少しあって、比較的裕福な地主さんの娘だったのですが、ロシア兵が上陸した話を聴くと、皆で短刀を隠し持ち、いつでも死ぬ覚悟をしていたとの話を聴きました。大変な覚悟と思います。
    • 祖母は台湾生まれ、台湾育ちの日本人です。敗戦直後の引き揚げの日、船が来るのを待っていた祖母に、知り合いの台湾の方がご飯を持たせてくださったと言っていました。
    • 今96歳の祖母から聞いた亡き祖父の話です。
      祖父は小さい頃から毎日便秘に苦しんでいて、周りから『男のくせに便所が長い』と笑われたりして、短所に思って長年悩んでました。
      その体質のまま大人になり徴兵。ですが終戦の数ヶ月前に便秘をこじらせ、急に重度の痔になり前線から外され地元の病院に送り返されたのです。
      祖父が病院に入ってほどなくして、ソ連軍が参戦。樺太千島は占領され、同地で一緒に戦っていた隊の戦友達は捕縛、シベリア抑留へ。シベリアで殆どの方が亡くなりました。
      長年悩んでいた体質(便秘、痔)に、まさか命を救われるなんて。と、父や祖母に語ったそうですが、『痔で命拾い』という話は恥ずかしいので。本人伏せたがっていたようです。(が、祖母は本当の事だからたと遠慮なく家族に話してました)
    • 大正生まれの伯母。終戦時、新米女医だったこともあり、看護婦さんと京都からSLで舞鶴へ、引き揚げ船で帰ってきた人たちの診断や治療のために行かされたそうです。舞鶴から京都へ戻るSLは引き揚げのひとでいっぱい、その汽車に沿線の人があちこちで農作業の手を止めてずーっと手を振っていた光景が忘れられないとのこと。
    • 田舎の農家だった祖父母の家。当時親戚が多数疎開してきたそうです。朝から農作業をしてお昼に戻ったら若夫婦(祖父母)のお昼ご飯はみんなに食べられてしまって無く、仕方ないから水だけ飲んでまた暗くなるまで働く日々だったそうです。都会から着物を持って来て米と替えて下さいとお願いされても、たくさんの人が持ち込んだ着物にあふれていてお米も底をつき、ごめんなさいごめんなさいと謝るしかできなかったそうです。
    • 私の曾祖母は今現在97歳です。
      ある日お見合いで出会った男性はとても真面目で、曾祖母のことを愛し、とても大切にしてくれたそうです。その男性は、いずれ私にとって曽祖父になる人です。そんな曽祖父のことを、曾祖母は好きで好きで仕方がなかったそうです。
      2人は戦時中にもお互いに想いを寄せたまま曾祖母は姉妹を連れて防空壕に逃げ込んだり、曽祖父も戦争に関わり、と不安な日々を乗り越えていったそうです。
      無事に戦争が終わり、会えなかった日々や不安な日々を乗り越えて私の曾祖母と曽祖父は結ばれました。
      曾祖母は、曽祖父が亡くなった今でもずっと愛しており、大好きだと言っています。そして、お互いに今も愛し合っているんだよと教えてくれました。
      辛い現実を乗り越えたところに愛はあるのだよ、と。
    • 私の祖母から聞いた話です。祖母は防空壕に避難するとき、炒った豆を巾着袋に入れて持って行き、おやつとしてポリポリ食べていたそうです。
    • 祖父母から空襲警報が鳴ったときに避難した場所を聞きました。祖母は山の多い地域に住んでいたため、山の麓を掘って作った防空壕へ避難していたそうです。一方、祖父は実家が醤油の製造をしていたので、人が何人も入れるサイズの大きな醤油樽を土の中へ埋め、警報が鳴ったときにはそこへ隠れていたそうです。住んでいる場所に応じて工夫して避難場所を作っていたことがよくわかりました。
    • 祖母から聞いた話です。戦時中はお菓子が手に入りにくかったため、甘いものが食べたくなると、祖母は友達と山へ登り、木の実や果実を探して食べていたそうです。ある日、祖母はヤマモモの木に登って実を取ろうとしていたのですが、足を滑らせてしまい、どってーん!と地面に落下。軽い脳しんとうを起こしてしまったそうです。ギャグ漫画に出てくるような出来事を、祖母という身近な人が体験していたことにとても驚きました。
    • 私の住んでいる箕郷町は「狐の里の嫁入り」のイベントがあります。最近はインスタ映えが良いということで、若い人達の参加者が多くなり、賑わっています。「みのわの里の嫁入り」となると、母も嫁入りした事と同じ。母から聞いた事をまとめました。私の母は大正13年生まれ、95歳です。母が結婚した頃は太平洋戦争の真っ只中。戦争の後半のある日、戦地に向かう父と20歳の母が結婚することになりました。5㎞先の隣り町(みのわの里)への移動は徒歩ではとても無理。そこで路線バスを利用することにしたのです。花嫁ご一行様がバスに乗る際、付き添いの人が「すみません、みのわまで嫁入りなので、どうぞ、席を譲っていただけないでしょうか?」と、お願いすると、「それは、それは…。おめでとうございます。どうぞ、どうぞ…」と乗客の皆さんがサァーと、席を譲ってくれたと言います。母はまだ20歳と、花嫁姿のこともあって、とても恥ずかしかったそうです。この頃の乗り合いバスは「お見合いバス」といって、バスの窓際、左右に分かれて、顔を見合せて座るわけです。花嫁ご一行様がバスに乗っている様子、ホコリまみれで走るバスの様子、何とも、愉快で、のどかな光景です。
    • チョコレートの味を知ったのは、中学生となってからと思う。戦時中のおやつは、蒸したさつま芋や、これを薄く切って天日干しにした乾燥芋だった。母が弟を懐妊した為に、母の実家に預けられた折には、湯でたざり蟹もおやつだった。甘い物はほとんど無かった。整腸剤のビオフェルミンの錠剤を一瓶食べて祖母に叱られた記憶もある。
      弟たちは田んぼで泥鰌を採ってきて、バケツの中に泳がせて遊んだ。夜、母はそれで味噌汁を作ったが、私は食べられなかった。今でも鰻は好物だが、泥鰌は食べない。又、カエルも捕まえてきた。石に叩きつけて殺し、七輪の火で焙って食べていた。鯣のような味と言った。
      砂糖は配給制で。茶色の花見砂糖(三温糖)や粗目等だった。重曹を入れて火鉢でカルメ焼きを作った。失敗すると膨らまなくて、おいしくなかった。
      玉子は貴重品で一人一個なんて無理で醤油を多めに入れて三人で食べた。
    • 祖母から聞いた話です。戦時中は、手に入る物がどんどん減っていき、今の小学生なら当たり前のように持っているランドセルさえも革が貴重だったため買えなくなっていたそうです。そんな中、祖母のお母さん、つまり私の曽祖母は裁縫の名手で、近所の人が裁縫を教えてもらいに来るほどでした。曽祖母はその腕前を生かして、祖母のために布でランドセルそっくりの鞄をこしらえてあげたそうです。祖母は、本物のランドセルのように開け閉めできるその鞄を見て驚いたとともに、お母さんが自分のために一生懸命作ってくれたことが本当に嬉しかったそうです。
    • 祖母から聞いた話です。祖母が子供のとき住んでいた地域では、山の麓に防空壕があり、空襲警報が鳴ると近所の人が一斉にそこへ避難したそうです。祖母は、空襲はもちろん怖かったけれど、それ以上に、防空壕に集まったたくさんの人とおしゃべりをしたり、子供同士で少しのおやつを分け合ったりしたのが楽しかったのをよく覚えていると言っていました。
    • 母は女学校で戦争を迎えました。街中でも色々な軍人さんを見かけ、将校さんの白い制服が素敵やなあ!、あの人らはごっつい賢いねんで、身体もキリッとしてカッコええなあ、とこっそりウワサしていました。兄もそんな軍人さんに憧れて早くあんな風になりたい!と常々口にしていて、軍人になったらゲートルもきちんと巻かなあかんのや!と朝中学の制服にゲートルを巻く時、少しの緩みもなくきっちり巻くのも素敵やなあ、と思っていました。戦時中でも少しおませな母の姿です。
    • 祖母と祖父の結婚前の話です。呉在住の祖母。片思いしていた人が海軍さんなのでなかなか会えずにいました。ある日、その人の乗る駆逐艦が下関の方に来ていると知り、一目会いたいと汽車に乗り下関へ。でもその人は駆逐艦から港に降りれず…そこで祖母は伝馬船を頼んで駆逐艦に横付けしてもらい、大声で呼びかけたそうです。すると怖そうな艦長さんが出てきて、怒られるかと思ったら、見上げた根性だ!と、特別に会わせてもらえたそうです。その後2人は結婚。祖父がお酒を飲んで昔話をする時は最後はいつもこの話で、伝馬船に乗ってやってきた姿を見た瞬間、結婚しようと思ったんだよと言っていました。
    • 私の95歳のあばあちゃんから聞いた話です。戦時中はおてつだいさんとして東京のお屋敷に奉公にいったり、群馬の伊香保のまんじゅう屋で、ふきんをきれいに洗うと言う仕事をして、家を支えるために働いたお金を全額と手紙を家に送金したそうです。一万円だったそうです。お母さんは嬉しくて、近所に触れ回ったらしいです。
      その饅頭屋の休み時間に友達と近くの田んぼに行った時、蝶々が2匹楽しそうに戯れていたそうです。それを見て、あぁ、戦争で亡くなった兵隊さんだね…と話したそうです。
    • 私の祖母から聞いた話です。当時女学生だった祖母は疎開で来ていた小さな子供たちに、お手玉の中身の小豆をふやかして柔らかくして、ほんのわずかの砂糖をかけてオヤツ代わりに食べさせてあげた事があるそうです。
    • うちの祖父は長崎の航空隊にいました。

      普段は航空機の整備をし、命令が下れば特攻隊要員になる予定だったそうです。

      ですが、航空機の整備をするにも部品もなく、整備不良の航空機で、いよいよ特攻…という所で終戦。

      一命をとりとめ、それからは地元静岡で警察官として長く勤務しました。

      今年93歳になった祖父。
      少し足が悪くなりましたが、
      『ハンバーグ食いに行こうぜ!』
      『何か…ピザが食いてえな!』
      など、“戦時中は美味い物が食えなかったから、生きてる間は美味い物を色々食いたい!”と、まだまだ食欲大勢な祖父です(笑)
    • 祖母は戦時中、クラスメイトと一緒に泊まり込みで学徒動員に従事していたそうです。ある夜、いつものように空襲警報が鳴りましたが、祖母はよほど疲れていたのか、友達に「よかよか、どうせ訓練じゃろもん。死んでも良かけん、こんまま寝かせて」と布団に潜り込んで友達を慌てさせたそうです。
    • 私が子供の頃は、平和学習を兼ねて「8月6日」は必ず、登校日でした。毎年夏休みには、【身近な人から被爆した当時の話を聞いてくるように】という宿題が出ました。正直な話、お友達と遊びたい盛りの時分に、登校日だなんて!と思っていました。
      また、私の年代からいうと、祖父や祖母、叔父(伯父)や叔母(伯母)は、全員被爆者でした。
      いつもそういう宿題が出るたび、聞きに言って良いのかどうなのか……と幼心を痛めておりましたが、おじさんだけは、常に話をしてくれました。
      自らも、建物疎開で被爆したにもかかわらず、無事に帰宅出来たこと。親戚の女の子が原爆の傘下にありながら、親族の着物を解いて縫ったモンペを身につけて出掛けていたため、見た目には誰だかわからなかった人物が身内だった事が判明したこと。。。。
      これは、私が成人してから聞いた話です。

      その話も、途切れ途切れに話をしてくださいました。
      私が子供の頃には聞いたことがなかった話でした。

      もしもその方が生きて下さっていたら、どんな話をしたでしょう。私の妹が産んだ子供たちにどんな声を掛けて下さったでしょう。

      私のおばさんだった方が今、この世界に生きていてくださったら。。。。

      どんな会話が出来たのかなぁ。。。。


      お会いできなかったけれど、きっとすずさんみたいな、ほんわかした、ステキな方だったに違いないと思っています。
    • わたしの亡くなったお婆ちゃんから聞いた話です。わたしの実家は横須賀、呉と似たところの多い街です。沢山の海軍さんが街にいて、にぎわっていたそうです。実家の近くには練兵場があり、若い海軍さんが訓練をうけていました。
      1940年代のことだと思います。ある日うちのお婆ちゃんが17.18くらいのときに母親(私から見たらひいお婆ちゃん)と道を歩いていた時です。若い軍人さん(まだ10代にみえたと言っていました)が練兵場で、教官に大きい声で怒鳴られながらお説教をされていっぱいぶたれていました。すごくかわいそうだったそうです。その光景に出くわしたひいお婆ちゃん、何を思ったかツカツカと教官に歩み寄り「ちょっと!」と声をかけました。
      「わたしの息子も彼と同じくらいなの。こんなに叩いて、、かわいそうすぎるでしょ!!息子を送り出してこんなに叩かれてると知ったら、親は悲しみますよ!!!!どうしてこんな可哀想なことするの!!ひどいですよ!」
      と目に涙をためながら教官にくってかかったそうです。そのあとバツが悪そうに教官は叩くのをやめて、若い軍人と共に去って行きました。
      母親が啖呵を切っている間、祖母はもう恥ずかしくて恥ずかしくてしょうがなくなり、立ち尽くして顔を真っ赤にして手で覆って見ていたそうです。。
      ひいお婆ちゃんの武勇伝としてよく語ってくれたお話ですが、恥ずかしくて顔を赤らめてた祖母がなんとも可愛いなといつも思う忘れられない、大好きな話です。
    • わたしのおばあちゃんから聞いた話です。
      おばあちゃんは福岡の田舎で生まれ、育ちました。福岡が空襲にあった際、彼女は荷馬車にくくりつけられ、山の上へと避難したそうです。山から町を見下ろすと、そこは一面火の海で……同じように山へと避難してきた人たちの鳴き声が響いていました。
      おばあちゃんがくくりつけられた荷馬車は、いつも親戚の人が野菜を沢山載せてきてくれた大好きなもので、避難した山は友達と山菜を採りに登った宝箱だったそうです。その思い出は、空襲で涙の記憶に塗り変わりました。
      でも、80歳を超えた今でも、祖母は山に山菜を採りに行きます。思い出を守るためなのか、失わないためなのか。それとも、何の意味もないのか。わたしはまだ、その理由を聞けません。
    • 自分のひいおばあちゃんから聞いた話です。
      戦時中は配給も量が少なくて、食べ盛りだった子どもたちは、あまりにもお腹が空くものだから、お手玉を破って中の豆を食べていたそうです。
      また、甘いものもなくて、まだミルクが必要な赤ん坊がいる家庭は、そのうち母親の母乳が出なくなって、やぎの乳を配られたそうですが、やぎの乳は甘くて、自分の弟や妹のだとわかっていても、甘い物欲しさに飲んでしまって、兄弟が栄養失調になり亡くなってしまった、なんて話も聞いたそうです。
    • 母から聞いたお話です。母が小さい頃の宝物はアメリカの爆撃機のフロントガラスだったそうです。ガラスを擦るとお花の匂いがしたといってました。