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データでたどる沖縄戦 最後の1か月

2020年8月20日

今から75年前、日本軍とアメリカ軍が激しい地上戦を繰り広げた「沖縄戦」。1945年5月末、日本軍の司令部があった首里が陥落。ここで事実上の勝敗は決していたにも関わらず、戦闘はその後もおよそ1か月にわたって続き、多くの住民が命を落とした。戦場では何がおきていたのか?今回の取材で明らかになったデータから沖縄戦最後の1か月をたどる。

多くの命が失われた沖縄戦

沖縄県民の犠牲者数
沖縄県民の犠牲者数

太平洋戦争の末期、日本軍とアメリカ軍が激しい地上戦を繰り広げた沖縄戦。沖縄県民の犠牲者数は12万人以上。亡くなった時期や場所が確認できている住民8万2千人のうち、半数以上が、首里陥落後の1か月に亡くなっていた。

首里の陥落 住民たちの行動を検証

首里陥落後の住民たちの行動
首里陥落後の住民たちの行動

日本軍の司令部がおかれていた首里が陥落した後、住民たちはどう行動したのか?首里陥落後の1か月の住民の行動を、自治体がまとめた証言集などから分析した。いつ、どこにいたかデータ化できたのは1757人。その動きを、1日ごとに、どの集落に、何人の住民がいたのか、円の大きさと色の濃さで図に表した。

日本軍が南部撤退を決めた5月22日。この頃から多くの住民が南部へと集まるようになっている。その場所は、日本軍が防衛ラインを設定した南側の地域だった。

アメリカ軍の精密な攻撃

アメリカ軍のグリット図
アメリカ軍のグリット図

南部に撤退し戦闘継続の意思を示した日本軍に対し、アメリカ軍はどのような作戦をとったのか?今回NHKは、アメリカ軍が残した5000ページに及ぶ作戦報告書を入手し検証を行った。

上の図は当時のアメリカ軍が使用していたグリッド図。アメリカ軍は、沖縄を縦横のマス目で細かく区切り、位置を特定していた。1つのグリッドは180メートル四方に相当。マス目には4桁の数字とアルファベットが振り当てられていた。

重巡洋艦ニューオーリンズの無線記録(5月26日)
重巡洋艦ニューオーリンズの無線記録(5月26日)

日本軍が密かに南部へと移動を始めた翌日、5月26日の無線記録。

「南へ向かう日本軍部隊を発見」
「位置は7867BCD」
「至急攻撃せよ」

始めに日本軍を発見したのは、地上の偵察部隊。その報告を受けて観測機が飛び立ち、現場上空で情報を集め、指示を出す。それに基づき、1発で戦車を破壊できるほどの艦砲弾が、グリッドで指定した場所に正確に撃ち込まれていたのだ。

南部へ向かう道に集中した攻撃

作戦報告書を詳しく分析すると、南部へと向かう交通の要衝「山川橋」の周辺を、アメリカ軍は集中的に攻撃していた。

山川橋周辺を集中的に攻撃した砲弾
山川橋周辺を集中的に攻撃した砲弾

棒グラフの高さは、撃ち込まれた砲弾の数を表している。「山川橋」(やまがわばし)の周辺は、5時間に500発を超える砲弾が撃ち込まれていた。

住民の行動経路と砲撃の記録
住民の行動経路と砲撃の記録

「山川橋」への砲撃で、肉親を亡くし自身も右足に大けがを負った女性、桃原キクさん。その後の移動経路に、艦砲射撃の記録を重ね合わせた。そこから見えてきたのは、身を隠せる場所も見つからないまま、砲弾が降り注ぐ中をさまようように進む姿だ。この絶望的な逃避行のなか、桃原さんはさらに2人の親戚を艦砲射撃によって失った。

追いつめられた住民の集団自決

日本軍と行動を共にし、南部へと追いつめられていった住民たち。沖縄を焦土と化す勢いで降り注いだ艦砲射撃は、記録では16万発に上る。しかし、その苛烈な攻撃は6月20日を境にぴたりと止んだ。アメリカ軍が南部をほぼ制圧したのだ。そして始まった最後の掃討戦。住民たちの逃げ場は、もはや海岸線しか残されていなかった。

アメリカ軍兵士の手記
アメリカ軍兵士の手記

今回の取材で発見された、アメリカ軍兵士の手記。そこには行き場を失った人たちの最期の姿が記されていた。

洞窟の入り口から、「デテコイ!」と呼びかけた。
突然、中から爆発音が聞こえた。2発目…3発目。
洞窟に入ると、10人の無惨な死体が横たわっていた。4人の女性と小さな赤ちゃんがいた。
突然、女性の1人が毛布の下から手榴弾を取り出し、爆発させた。
2人の女性と赤ちゃんが死んだ。

兵士たちが目撃した「ハラキリ」。この時期、追い込まれた住民が自ら命をたつ、いわゆる「集団自決」が相次いだ。

南部での集団自決とみられる事例
南部での集団自決とみられる事例

今回の取材で、アメリカ軍の資料などから確認できた南部での集団自決とみられる事例は少なくとも15件、犠牲になった人は、121人に上る。

しかし「南部での集団自決の検証は進んでいない」と関東学院大学の林博史教授は指摘する。

「みんなバラバラになりながら、家族であったり、あるいは、たまたま避難しているときに一緒になった人々が、みんなが死んでしまった場合に、誰々さんがあそこで死んだというのは誰もわからない。どれくらいの人数か、どれくらいの件数かっていうのはちょっともう、全然わからないとしか言いようがない。」(沖縄戦の集団自決を研究してきた、関東学院大学 林博史教授)

沖縄戦から75年。出口なき戦場の記憶は、ますます遠ざかりつつある。それでも、亜熱帯の森の奥には、人々を襲った惨禍の爪痕が、今も深く刻まれている。

この記事は、2020年8月2日に放送した 「NHKスペシャル 沖縄 "出口なき”戦場 ~最後の1か月で何が~」 をもとに制作しています。
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