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沖縄戦 出口なき戦場

2020年8月20日

今から75年前、日本軍とアメリカ軍が激しい地上戦を繰り広げた「沖縄戦」。1945年3月末に戦闘が始まり、5月末には日本軍の司令部があった首里が陥落。ここで事実上の勝敗は決していたにも関わらず、その後およそ1か月にわたって組織的な戦闘が継続され、多くの住民が苛烈な攻撃に巻き込まれた。首里の陥落から組織的戦闘が終結するまでの1か月、戦場では何が起きていたのか?今なお空白が残る沖縄戦・最後の1か月に、アメリカ軍の新資料や人びとの証言から迫る。

首里の陥落 敗北か、戦闘の継続か

太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)3月末、アメリカ軍は54万の兵力で、沖縄に押し寄せた。対する日本は沖縄に10万の兵力を集め、これを迎え撃つことにした。とりわけ、日本軍が司令部を置いた首里をめぐる戦いは、激しい攻防となった。この時点で日本軍は兵力の半数を失い、敗北は決定的に。このまま首里で玉砕するか。それとも南部に撤退して戦闘を継続するか。幹部たちの間で意見が分かれていた。

沖縄の防衛を担っていた第32軍で、作戦立案にあたっていた高級参謀・八原博通(やはら・ひろみち)大佐。戦後に記録された、貴重な肉声が残されていた。

第32軍 高級参謀 八原博通(やはら ひろみち)大佐
第32軍 高級参謀 八原博通(やはら ひろみち)大佐

「後方(南部)の地域を利用して逐次抵抗していって、本土決戦のために、少しでも敵兵を殺し、弾薬を浪費させる。本土決戦の準備をするために時間がいるから。」(第32軍 高級参謀 八原博通大佐)

5月22日、司令官の牛島満(うしじま みつる)中将は、八原大佐の考えを採用し南部撤退を決断した。本土決戦のために時間を稼ぐというのは、天皇直属の統帥機関・大本営の考えにも合致するものだった。

住民たちの行動を証言集から分析

沖縄戦における県民の犠牲者は全体で12万人。そのうち亡くなった時期や場所が確認できている住民は8万2千人。その半数以上が、首里陥落後の1か月に亡くなっていた。そこで、この1か月の住民の行動を自治体がまとめた証言集などから分析。データ化できた1757人の動きを可視化した。円の大きさと色の濃さは、1日ごとに、どの集落に、何人の住民がいたのかを示している。

1945年5月22日~6月23日までの住民の動き
1945年5月22日~6月23日までの住民の動き

日本軍が南部撤退を決めた5月22日。この頃から南部に多くの住民が集まるようになった。そこは日本軍が防衛ラインを設定した南側の地域だった。多くの人たちは住み慣れた場所を離れ、日本軍と行動をともにしていたのだ。

当時12歳で、軍の飛行場建設にも協力していた吉嶺全一(よしみね ぜんいち)さん。日本兵から「アメリカ兵は残酷だ」と教えられていたと言う。

証言者 吉嶺全一さん
証言者 吉嶺全一さん

「日本兵のいるところに逃げるのが安心だった。兵隊は民間人を助けてくれるということを信じてましたからね。」(証言者 吉嶺全一さん)

住民が軍と共に行動した理由は、アメリカ軍への恐怖心だけではなかった。第32軍が沖縄県民に示した方針「軍官民 共生共死の一体化」。深刻な兵力不足を補うため、日本軍は学生や女性まで動員していた。日本軍は住民たちに、捕虜になることなく最後まで軍に協力することを求めていたのだ。

緻密なアメリカ軍の攻撃

南部へと撤退し、戦闘継続の意思を示した日本軍。対するアメリカ軍は、艦砲射撃によるせん滅作戦を仕掛けた。

NHKの取材チームは今回、アメリカ軍が残した5000ページに及ぶ作戦報告書を入手。そこには、アメリカ軍が沖縄の地理を正確に把握し、高い精度で艦砲弾による攻撃を行っていたことが記録されていた。

アメリカ軍が作成した沖縄のグリッド図
アメリカ軍が作成した沖縄のグリッド図

当時、アメリカ軍は沖縄を縦横のマス目で細かく区切ったグリッド図で位置を特定。1つのグリッドは180メートル四方に相当する。そこに4桁の数字とアルファベットを振り当てていた。

グリッド図を作成し沖縄の地理を把握していたアメリカ軍。地上の偵察部隊の報告を受けた観測機が飛び立ち、現場上空で情報を収集。その指示に基づき、一発で戦車を破壊できるほどの艦砲弾が、的確にグリッドに撃ち込まれるのだ。

山川橋周辺を集中的に攻撃した砲弾
山川橋周辺を集中的に攻撃した砲弾

このとき日本軍は、陥落した首里の司令部から幹線道路を通って南下。そこに打ち込まれた砲弾の数を、棒グラフの高さで表したのが上の図だ。特に攻撃が集中していたのが、南部へと向かう要衝、「山川橋」(やまがわばし)の周辺。ここには、5時間で500発を超える砲弾が撃ち込まれていた。

山川橋の悲劇

日本軍の徹底せん滅をはかるアメリカ軍。しかし、その砲弾の下には住民たちもいた。50年ほど前から自治体や研究者が収録を重ねてきた、沖縄戦を経験した住民の証言テープ。今回の取材で集めた533人の証言から、山川橋での体験を語ったものが次々に見つかった。

証言テープ
証言テープ

「ちょうど山川あたりに来たときに、集中射撃がきたわけです、これは大変だ、もう私たちは死ぬんだと思いながら、溝の中に子どもも連れて、飛び込んで、頭を出すまいと思ってそこに引っ込んでおったんです。」

「たくさんの人が死んでいるんですよ、砲弾でね。周辺は田んぼですから、ここに遺体を山みたいに積んでるんですね。それぐらいここで、人が亡くなっていますよ。山川橋というのは。」

証言者 桃原キクさん
証言者 桃原キクさん

「お母さんがこっちに立ってる、伏せなかったんですよね。急いでお母さんのところに行って、『(お母さん)しっかりしなさいよ』と言ったけど、その場で亡くなって。『お母さん、お母さん』と叫んで…。」(証言者 桃原(とうばる)キクさん)

自身も右足に大けがを負った、桃原さん。母親の遺体を橋のたもとに埋めて、逃げざるを得なかった。

なぜ攻撃はエスカレートしたのか?

当初アメリカ軍は沖縄戦にあたって、民間人の被害を極力抑える方針だった。それがなぜ、住民を巻き込む苛烈な攻撃を行うにいたったのか。

沖縄戦を経験したフィリップ・ウィルモット元中尉、97歳。戦闘機パイロットとして沖縄戦に参加し、地上への機銃掃射などを行っていた。

アメリカ軍戦闘機パイロット フィリップ・ウィルモット元中尉
アメリカ軍戦闘機パイロット フィリップ・ウィルモット元中尉

「仲間のパイロットが日本軍のゼロ戦に体当たりされたんだ。それからは、日本人への哀れみなど一切なくなった。」(アメリカ軍戦闘機パイロット フィリップ・ウィルモット元中尉)

アメリカ軍の攻撃がエスカレートしていった背景にあった、日本軍からこうむった多大な犠牲。航空機による自爆攻撃・特攻で、およそ30隻の艦船が沈没。地上戦も含めて、1万人を超える犠牲者を出し、アメリカ軍の中で日本軍への恐怖と憎悪が募っていた。

ここで日本軍を逃せば、また激しい抵抗にあうと感じていたウィルモット元中尉。住民のことを考えている余裕はなかったと話す。

「住民を撃て、とは命じられていなかった。しかし、見分けなんて付くわけがないんだ。だから動くものは何でも撃った。」(アメリカ軍戦闘機パイロット フィリップ・ウィルモット元中尉)

さらに今回発見した資料から、アメリカ軍が新型兵器「VT信管」を使用していたことも明らかになった。元々、日本軍の特攻機を撃ち落とすために威力を発揮した、VT信管。電波を発し、ターゲットに近づくと自動的に砲弾は爆発。その破片は広範囲に飛び散る。

アメリカ軍が作成した兵器の威力を説明する資料
アメリカ軍が作成した兵器の威力を説明する資料

アメリカ軍は航空機を攻撃するための兵器を、対人攻撃に転用したのだ。

軍民が混在 ガマの悲劇

日本軍の首里撤退から2週間。アメリカ軍の地上部隊が南下。日本軍は海岸沿いの摩文仁(まぶに)に司令部を置き抵抗を続けていた。沖縄本島南部に数多くあるガマと呼ばれる自然洞窟。兵士たちはこのガマに潜み、ゲリラ攻撃を命じられていた。

ガマに潜み戦っていた日本兵の1人、森井直次郎(もりい なおじろう)元二等兵、96歳。現場の兵士たちは、補給も援軍も途絶える中で、絶望的な戦いを続けていたと言う。さらに兵士たちは「自爆攻撃」も命じられていた。

証言者 森井直次郎 元二等兵
証言者 森井直次郎 元二等兵

「肉弾兵ですよね。最後は手りゅう弾。この手りゅう弾にも意味がある。重いですよ。1つは自分用、1つは敵用。もう生(せい)というものについては全然頭にない。」(証言者 森井直次郎 元二等兵)

日本軍は、最南部でおよそ90のガマや壕を、軍専用としたことが分かっている。住民用のガマもあったが、本隊からはぐれた日本兵なども加わり、日本兵と住民が混在。壕から人が溢れる場所が相次いだ。

その1つ、トドロキ壕と呼ばれた巨大なガマ。ここで、住民たちはどのような状況に置かれていたのか。壕の内部を、最新のレーザー測量機で計測。証言などを元に、CGによる再現を行った。

トドロキ壕の全体図
トドロキ壕の全体図

入り口から入って左右に広がる2つの空間。その全長はおよそ140m。向かって右側の空間には、およそ50人の日本軍の兵士。負傷兵などを連れて、やってきたと言う。そしてここから、アメリカ軍への切り込み攻撃に出撃していたとみられる。800人以上とされる住民は、左側の空間を使用するように指示されていた。ガマの内部は、入り口付近まで住民が溢れるほどになっていた。

トドロキ壕の内部を再現したCG
トドロキ壕の内部を再現したCG

こうしたガマに対し、アメリカ軍は火炎放射器などで焼き尽くす攻撃に出る。日本兵の切り込み攻撃、さらに住民の着物をまとい偽装する日本兵もいたため、疑心暗鬼から、攻撃は無差別的になっていったのだ。

身動きができないほど人が密集し、暗く閉ざされたガマの中で息を潜めるしかなかった住民たち。中には、恐怖からアメリカ軍に投降したいと言う人も出始めた。しかし、情報が漏れることを恐れた日本兵は、住民の投降を許さなかった。やがて食糧も尽き、飢えが人びとの理性をも奪っていく。

住民の証言を元にしたイメージ図
住民の証言を元にしたイメージ図

「兵隊が(黒砂糖を)取り上げたらしいんですよ。そしたらこの子がね、『これはワームンドゥヤルー(僕のものだ)』と兵隊に飛びかかってからね、砂糖に飛びかかったらね。そこで一発すぐ撃ったらしいですよ。そこで、この子は即死だったらしい。おばあも目の前で撃ち殺されているけれども、泣きも、声を出して泣けない。泣いたら、自分までも撃ち殺されるから、泣けない。自分たちが黒糖をほしいために、子どもを撃ち殺しましたからね。もう、絶対これは許せないと思ったんですよ。敵はね、アメリカじゃないの。もう友軍が敵になってしまった、そのときから。」

森井元二等兵もまた、上官に命令されるまま、出口のない戦いを続けていた。多くの住民が犠牲になっていく光景を、今も忘れられないと言う。

「民間人も犠牲になった。(日本兵と)一緒にいなけりゃ生きた。これなんだ、一番大事なのは。日本の兵隊が1人か2人(ガマに)入っているがために、民間人がこれだけやられるんですよ。本当に情けない話。」(証言者 森井元二等兵)

掃討戦 追い詰められた住民は

沖縄を焦土と化す勢いで降り注いだ艦砲射撃。記録では砲弾の数は16万発にのぼる。しかし6月20日を境に、その攻撃はぴたりと止んだ。アメリカ軍が南部をほぼ制圧したのだ。最後の掃討戦が始まり、もはや住民たちの逃げ場は海岸線しか残されていなかった。海を前に、追い込まれた人たちが自ら命をたつ、いわゆる「集団自決」が相次いでいた。

「集団自決」は沖縄戦の初期、慶良間(けらま)諸島や読谷村(よみたんそん)などで起きたことが知られている。沖縄戦の集団自決を研究してきた林博史(はやし ひろふみ)さんは、沖縄戦の末期に沖縄本島南部で起きた集団自決については検証が進んでいないと指摘する。

関東学院大学 林博史教授
関東学院大学 林博史教授

「みんなバラバラになりながら、家族であったり、あるいは、たまたま避難しているときに一緒になった人びとが、みんなが死んでしまった場合、誰々さんがあそこで死んだというのは誰も分からない。どれくらいの人数か、どれくらいの件数かがもう、全然分からないとしか言いようがない。」(関東学院大学 林博史教授)

今回の取材で、アメリカ軍の資料などから確認できた南部での集団自決とみられる事例は、少なくとも15件。犠牲になった人は121人にのぼった。

アメリカ軍カメラマンの遺品の中から、新たに見つかった1枚の写真。南部での集団自決を捉えた可能性があると言う。撮影された日付は沖縄戦の最終盤、6月21日と記されていた。

新たに発見された住民の最期を記録した写真
新たに発見された住民の最期を記録した写真

実は、同じ現場を捉えた別の写真が、沖縄県平和祈念資料館に展示されている。写真に映る人々は、砲弾によって亡くなったという見方もあり、詳しい状況は明らかになっていなかった。そこで、異なる角度から撮られた2枚の写真を詳しく分析した。

並べられた2枚の写真
並べられた2枚の写真

人びとが倒れていた場所は、高さ3mほどの斜面に囲まれた窪地。斜面に生えているのは、亜熱帯の植物アダン。海岸線に特徴的な植物だ。倒れていたのは17人。そのほとんどが、女性と子ども。当時、男性の多くは軍に動員され、家族と離れていた。

「大事にしている着物だと思いますよ。」(沖縄県立博物館・美術館 與那嶺一子学芸員)

服飾の歴史を研究する、與那嶺一子(よなみね いちこ)さんは、女性の1人が着ている着物に注目。着物の柄は「敷瓦」(しきがわら)と呼ばれ、都市部でしか手に入らない高級な晴れ着だった。大切にしてきた着物を身につけ、息絶えた女性たち。與那嶺さんは、そこに女性たちのある覚悟を感じると言う。

沖縄県立博物館・美術館 與那嶺一子学芸員
沖縄県立博物館・美術館 與那嶺一子学芸員

「(写真の人びとは)都市部に住んでいて、首里とか那覇、あるいはそういうところに住んでいて、巡り巡ってここまでやってきた。いつ自分たちに悪いことが起きてくるのかというのが分からない状況だということを、どこかで察したのかなと。だから、こういう着物になったのかなって。」(沖縄県立博物館・美術館 與那嶺一子学芸員)

さらに写真を詳細に見ると、日本軍の手りゅう弾が、ピンが抜けた状態で写り込んでいた。そこから、人々が手りゅう弾を爆発させようとしていたことが窺える。

写真のような光景を実際に目撃した、中山きくさん、91歳。中山さん自身も、日本兵からいざというときのために、手りゅう弾を渡されたと言う。

証言者 中山きくさん
証言者 中山きくさん

「『持っていくか?』って言われて、手りゅう弾、持ってたんです。だから『(同級生に)これでもう私たちも、自決しよう』と言ったんですね。集団で自決する音ですね、バーンと、それがあっちこっちで聞こえたんですよ。一般の犠牲者が倒れてましたから、『この人たちの方が楽だよ』と。『どうせ死ぬんだったら早く死んじゃった方が楽だよ』と。私、本当に思っていたんですよ。」(証言者 中山きくさん)

追い詰められた海岸線では、誰もが生死のはざまをさまよっていた。

出口なき戦場の記憶は

6月23日、第32軍の司令官・牛島満中将の自決を受けて、日本軍の組織的戦闘が終わったとされている。南部での戦闘継続を主張した、八原博通大佐。壕を抜け出し捕虜となり、生還していた。

「3か月間持久したから、これで32軍の任務は十分とは言わんが、果たしたと思ったんですよ。僕はその精神だから。一緒に死ねばよかったと、思うことは度々あります。戦場というのは美しいばかりではいかん。人間の弱点がいろいろ出ますけどね。それは、私は申せません。」(第32軍高級参謀 八原博通大佐)

本土決戦の時間を稼ぐため、膨大な犠牲をいとわなかった日本軍。軍民入り乱れる戦場で、攻撃をエスカレートさせたアメリカ軍。それぞれの軍隊の論理が優先された結果、住民の犠牲は膨らみ続けていった。

遺された手りゅう弾
遺された手りゅう弾

沖縄戦から75年。出口なき戦場の記憶は、ますます遠ざかりつつある。それでも、亜熱帯の森の奥には、人びとを襲った惨禍の爪痕が、今も深く刻まれている。

この記事は、2020年8月2日に放送した 「NHKスペシャル 沖縄 "出口なき”戦場 ~最後の1か月で何が~」 をもとに制作しています。
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