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全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~【後編】

2020年2月17日

近代日本最大の軍事クーデター「二・二六事件」。今回、見つかった「極秘文書」によって、青年将校たちの反乱と、その鎮圧にいたる「4日間」の詳細が明らかとなった。首都東京を大混乱に陥れ、国家の運命を分ける転換点となった歴史的事件の全貌に迫る。

奉勅命令で事態は緊迫 追い込まれる決起部隊

事件発生から3日目の2月28日午前5時。天皇が出した、ある命令をめぐり、事態が大きく動く。

決起部隊の行動を「天皇の意思に背いている」と断定し、直ちに元の部隊に戻らせるよう命じる奉勅命令が出されたのだ。事件発生当初は不安を抱く言葉を発していた天皇。奉勅命令によって、自らの意思を強く示した。

天皇が奉勅命令を出し、自分たちを反乱軍と位置づけたことを知った決起部隊は、天皇が自分たちの行動を認めていないこと、そして、陸軍上層部はもはや味方ではないことを確信した。

奉勅命令をきっかけに、事態は一気に緊迫していく。同じ頃、決起部隊と面会を続けていた海軍・軍令部の岡田為次中佐は、交渉が決裂したと報告する。

「交渉の結果は、決起部隊の主旨と合致することを得ず 決起部隊首脳部より『海軍をわれらの敵と見なす』との意見」
「海軍当局としては直ちに芝浦に待機中の約三ヶ大隊を海軍省の警備につかしめたり」

天皇に背いたと見なされ、陸軍上層部からも見放された決起部隊。期待を寄せていた海軍とも交渉が決裂し、絶望的な状況へと追い込まれていく。鎮圧に傾く陸軍と海軍。決起部隊との戦いが現実のものとなろうとしていた。

攻撃準備を進める陸軍に、決起部隊から思いがけない連絡が入る。

「本日午後九時頃 決起部隊の磯部主計より面会したき申込あり」
「近衛四連隊山下大尉 以前より面識あり」

決起部隊の首謀者のひとり、磯部浅一が、陸軍・近衛師団の山下誠一大尉との面会を求めてきたのだ。

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磯部の2期先輩で、親しい間柄だった山下。山下が所属する近衛師団は、天皇を警護する陸軍の部隊だった。追い詰められた決起部隊の磯部は、天皇の本心を知りたいと、山下に手がかりを求めてきたのだ。

磯部「何故に貴官の軍隊は出動したのか」
山下「命令により出動した」
山下「貴官に攻撃命令が下りた時はどうするのか」
磯部「空中に向けて射撃するつもりだ」
山下「我々が攻撃した場合は貴官はどうするのか」
磯部「断じて反撃する決心だ」

天皇を守る近衛師団に銃口を向けることはできないと答えた磯部。しかし、磯部は、鎮圧するというなら反撃せざるを得ないと考えていた。

山下は説得を続けるものの、2人の溝は次第に深まっていく。

山下「我々からの撤退命令に対し、何故このような状態を続けているのか」
磯部「本計画は、十年来熟考してきたもので、なんと言われようとも、昭和維新を確立するまでは断じて撤退せず」

もはやこれまでと悟った山下。ともに天皇を重んじていた2人が、再び会うことはなかった。

最後の賭けに出る決起部隊

事件発生4日目の2月29日。決起部隊が皇族に接触しようとしているという情報が前夜から飛び交い、鎮圧側は大混乱に陥っていた。鎮圧部隊は、皇族の邸宅周辺に鉄条網を設置。戦車も配備して警備を強化した。

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午前6時10分。決起部隊が現れたのは、天皇を直接補佐する陸軍参謀総長、皇族・閑院宮の邸宅前だった。

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「閑院宮西正門前に決起部隊十七名、軽機関銃二挺を、西方に向けおれり」

氷点下まで冷え込む中、決起部隊は閑院宮を待ち続けていた。閑院宮を通じ、天皇に決起の思いを伝えることにいちるの望みを託していたのだ。しかし、閑院宮は現れなかった。

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「(閑院宮は)へたに出ると、宮様なんとかしてくださいとなってくるので、そうならないように、(決起部隊を)避けたということはあると思います。(決起部隊は)昭和天皇に決起した本当の意図を理解してもらいたいと、それを伝えるために、天皇に近い皇族に接触しようとしたと。直接伝えなきゃという意識は、追い込まれていったときにあったのではないか」(二・二六事件を研究・神戸大学 研究員 林美和さん)

この日の早朝。陸軍上層部は、ついに鎮圧の動きを本格化させる。戒厳司令部は周辺住民に避難を指示。住民1万5000人は着の身着のまま、避難所に急いだ。

一触即発となった鎮圧部隊と決起部隊。東京が戦場になろうとしていた。

決起部隊の兵士だった志水慶朗さん(103歳)、当時19歳。兵士の多くは、事前に詳細を知らされないまま、上官の命令に従っていたという。国会議事堂に迫りくる戦車の音を聞いた志水さん。自分たちが鎮圧の対象になっていることを知った。

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「どうして撃ち合わなければいけないんだろうって、同じ兵隊同士、日本の兵隊同士がね。そういう疑心暗鬼と言いますかね。そういうような気持ちは感じましたね」(志水さん)

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陸軍・鎮圧部隊の兵士だった矢田保久さん(103歳)、当時20歳。最前線での任務を命じられていた。

「緊張しちゃっているから何が起きてくるか分かんない。一発撃ったら絶対止まらないよ。海軍や何もかも全部来ているんだし、想像がつかないでしょう」

海軍・陸戦隊は攻撃準備を完了し、第一艦隊は、東京・芝浦沖に集結していた。もし決起部隊との戦闘が始まれば、海軍・軍令部は状況次第で、ある作戦の実行も想定していた。

「艦隊から国会議事堂を砲撃」

当時、対処にあたっていた軍令部員の名前が極秘文書に残っている。矢牧章中佐。艦隊が攻撃することになった場合の重大さを、戦後、証言していた。

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「あそこ(芝浦沖)からね、国会議事堂まで、要するに4万メートルくらい飛ぶんだから、大砲の大きい奴が。陸軍(決起部隊)がもし考え違いして、やろうじゃないかと。一発やろうじゃないかと、海軍と。どんどん撃ったら、あそこの千代田区が無くなってしまいます」(矢牧さんの証言より)

天皇は、時々刻々と入る情報を聞き取り続けていた。事件発生から4日間、鎮圧方針を示してきた天皇。最終盤、陸海軍の大元帥としての存在感が高まっていた。

午前8時10分。ついに、陸軍・鎮圧部隊による攻撃開始時刻が8時30分と決定。

いつ攻撃がはじまるとも分からない中、海軍は、最前線で様子を探り続けていた。その時、追い詰められた決起部隊の変化に気づく。

「一〇時五分頃」
「陸軍省入口において決起部隊の約一ヶ小隊 重機関銃二門 弾丸を抜き整列せり」
「三十名、降伏せり」
「一一時四五分」「首相官邸の“尊皇義軍”の旗を降ろせり」
「一二時二〇分」「首相官邸内に、万歳の声聞こゆ」

海軍は、最後まで抵抗を続けていた安藤輝三の部隊に注目していた。極秘文書には、追い詰められた指揮官・安藤の一挙手一投足が記録されていた。

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「安藤大尉は部下に対し、『君たちはどうか部隊に復帰してほしい。最後に懐かしいわが六中隊の歌を合唱しよう』と、自らピストルでコンダクトしつつ中隊歌を合唱。雪降る中に、第一節を歌い終わり、第二節に移ろうとする刹那、大尉は指揮棒がわりのピストルを首に。合唱隊の円陣の中に倒れた」

午後2時25分、戒厳司令官から軍令部総長に連絡が入った。午後1時、事件は平定したという。

二・二六事件から戦争への道

日本を揺るがした、戦慄の4日間。

陸軍上層部は、天皇と決起部隊の間で迷走を続けた。それにもかかわらず、事件の責任は、決起部隊の青年将校や、それにつながる思想家らにあると断定。弁護人なし、非公開、一審のみの「暗黒裁判」とも呼ばれた軍法会議にかけた。

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事件の実態を明らかにしないまま、首謀者とされた19人を処刑し、陸軍は組織の不安は取り除かれたと強調した。一方で、事件への恐怖心を利用し、政治への関与を強めていった。

「現に目の前で何人も銃で殺されたり、斬り殺されたりという事件を見て、政治家も財界人も、もう陸軍の言うことに対して、本格的に抵抗する気力を失っていくんですね。これが二・二六事件の一番、その後に対する影響力の最たるものですね」(戸髙さん・大和ミュージアム館長)

34歳で、事件に直面した天皇。軍部に軽視されることもあった中、陸海軍を動かし、自らの立場を守り通した。クーデター鎮圧の成功は、結果的に、天皇の権威を高めることにつながった。

「二・二六事件を経て、軍事君主としての天皇の役割はすごく強くなってしまって。天皇の権威、神格化といってもいいですが、そういうものが二・二六事件で大いに進んだことは間違いないと思います」(山田さん・明治大学 教授)

事件後、日本は戦争への道を突き進んでいく。高まった天皇の権威を、軍部は最大限利用して、天皇を頂点とする軍国主義を推し進める。そして軍部は、国民に対して命を捧げるよう求めていく。

日本は太平洋戦争に突入。天皇の名の下、日本人だけで310万人の命が奪われ、壊滅的な敗戦に至った。二・二六事件からわずか9年後のことだった。

戦後、天皇は忘れられない出来事を2つ挙げている。終戦の時の、自らの決断。そして、二・二六事件。

「戦後天皇がもしこの事件に非常に思いをもっているとすれば、これは後の戦争に突き進んでいくような一つの契機になった事件、実は自分が起こした強い行動っていうのは、戦争に進んでしまった要因の一つではないかと、戦後いろいろな思いをもった可能性も考えられる」(河西さん・名古屋大学大学院 准教授)

晩年、天皇は、2月26日を「慎みの日」とし、静かに過ごしたという。

二・二六事件を記録し続けた海軍は、その事実を一切公にすることはなかった。なぜ事実を明らかにしなかったのか。極秘文書6冊のうち、事件後、重要な情報をまとめたと思われる簿冊がある。そこには海軍が、事件前につかんだ情報が書かれていた。その内容は、詳細を極めていた。

事件発生の7日前。東京憲兵隊長が海軍大臣直属の次官に、機密情報をもたらしていた。

「陸軍・皇道派将校らは、重臣の暗殺を決行
 この機に乗じて、国家改造を断行せんと計画」

襲撃される重臣の名前が明記され、続くページには、首謀者の名前が書かれていた。事件の一週間も前に、犯人の実名までも、海軍は把握していたのだ。

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海軍は、二・二六事件の計画を事前に知っていた。しかし、その事実は闇に葬られていた。なぜ事件は止められなかったのか、その真相は分からない。ただ、その後起きてしまった事件を海軍は記録し続けた。そこには、事件の詳細な経緯だけでなく、陸軍と海軍の闇も残されていた。

昭和維新の断行を約束しながら青年将校らに責任を押し付けて生き残った陸軍。事件の裏側を知り、決起部隊ともつながりながら、事件とのかかわりを表にすることはなかった海軍。

極秘文書から浮かび上がったのは二・二六事件の全貌。そして、不都合な事実を隠し、自らを守ろうとした組織の姿だった。

「本当のことを明らかにするのは、ものすごく難しいことで。如何に事実を知るということが難しいかということですよね。たまたま私どもは、何十年ぶりかに現れた資料によって、今まで知られなかったことがわかるわけですが、こんなことは類いまれなことで、わからないまま生きているんだと」(田中宏巳さん・防衛大学校名誉教授 極秘文書を発見した研究者)

事実とは何か。私たちは、事実を知らないまま、再び誤った道へと歩んではいないか。83年の時を超えて、蘇った最高機密文書。向き合うべき事実から目をそむけ戦争への道を歩んでいった日本の姿を今、私たちに伝えている。


全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~【前編】

この記事は、2019年8月15日に放送した 「NHKスペシャル 全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~」 を基に制作しています。
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