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全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~【前編】

2020年2月17日

昭和11年(1936年)2月26日、陸軍の青年将校らが天皇中心の軍事政権をめざし、重要閣僚ら9人を殺害。日本の中枢を4日間にわたり占拠した二・二六事件。今回、事件を克明に記した最高機密文書が発見された。この事件を機に軍部の力が拡大し、日本は太平洋戦争へと突き進んだ。歴史の転換点となったこの4日間に、何があったのか。現代に蘇った最高機密文書で事件の全貌に迫る。

83年の時を経て明らかになった最高機密文書

太平洋戦争に敗れた日本。二・二六事件に関する文書を持っていたのは、終戦時、海軍・軍令部第1部長だった富岡定俊少将だった。富岡は、海軍の最高機密だった文書を密かに保管。これまで、公になることはなかった。

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戦後、財団法人史料調査会の理事として旧海軍の資料の管理をしていた戸髙一成さんは、この極秘文書を目にするのは、初めてだという。

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「これは本当にすごいですね。多くの結果を引き出す要素をもった、資料として本当に第一級のものと言っていいです」(戸髙さん・大和ミュージアム館長)

これまでは、事件後まとめられた、陸軍軍法会議の資料が主な公文書とされてきた。今回発見されたのは、海軍が事件の最中に記録した文書6冊。作成したのは海軍のすべての作戦を統括する「軍令部」だ。

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今回、NHKは専門家とともにこの極秘文書を詳細に分析。そこから事件の4日間に起きていた新たな事実が浮かび上がってきた。

2月26日午前7時。海軍・軍令部に1本の電話がかかってきた。連絡を最初に受けた軍令部員が、手元にあった青鉛筆で書きつけた第一報には、「警視庁 占領」「内大臣官邸 死」「総理官邸 死」などと記されていた。

夜明け前、陸軍・青年将校が、部隊およそ1500人を率いて決起。重要閣僚らを次々と襲い、クーデターを企てた。

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「将校の指揮により機関銃を発射しつつ突入し 将校下士官は室内に侵入、拳銃をもって鈴木侍従長を射撃しラッパ吹奏裡に引き上げたり」
「拳銃を乱射、内府を即死せしめ」
「首相は、栗原中尉の手により殺害せられたる模様なり」

後に明らかになる事件の概要を、海軍は発生当初の時点でかなり正確につかんでいた。岡田啓介首相は、間違って義理の弟が殺害された。天皇の側近、齋藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣らは、銃や刀で殺された。警備中の警察官も含め、9人を殺害、負傷者は8人にのぼった。

決起部隊を率いたのは、陸軍の中の派閥「皇道派」を支持していた20代、30代の青年将校たち。政治不信などを理由に、国家改造の必要性を主張。天皇を中心とした軍事政権を樹立するとして、閣僚たちを殺害した。

しかし天皇は、勝手に軍隊を動かし、側近たちを殺害した決起部隊に、厳しい姿勢で臨もうとしていた。

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赤坂と六本木に駐屯していた陸軍の部隊の一部が、国会議事堂や首相官邸など、国の中枢を武装占拠。これに対し陸軍上層部は、急遽設置された戒厳司令部にすべての情報を集め、厳しく統制していた。

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ところが、今回の極秘文書から、当事者である陸軍とは別に、海軍が独自の情報網を築いていたことが分かってきた。海軍は、情報を取るため一般市民に扮した私服姿の要員を現場に送り込み、戒厳司令部にも要員を派遣、陸軍上層部に集まる情報を入手していた。さらに、決起部隊の動きを監視し、分単位で記録、報告していた。

相反する2つの密約

極秘文書には、事件初日にその後の行方を左右するある密約が交わされていたことが記されていた。

事態の収拾にあたる川島義之陸軍大臣に、決起部隊がクーデターの趣旨を訴えたときの記録には、これまで明らかではなかった陸軍大臣の回答が記されていた。

「陸相の態度、軟弱を詰問したるに」
「陸相は威儀を正し、決起の主旨に賛同し昭和維新の断行を約す」

川島は、決起部隊から「軟弱だ」と詰め寄られ、彼らの目的を支持すると、約束していたのだ。

「これは随分重要な発言だと思います。決起直後に大臣が、直接決起部隊の幹部に対して、“昭和維新の断行を約す”と、約束しているんですね。言葉として。これを聞いたら、決起部隊は大臣の承認を得たと思うのは当然ですよね。それ以降の決起部隊の本当の力になってしまった」(戸髙さん・大和ミュージアム館長)

この直後、川島は、決起部隊が軍事政権のトップに担ごうとしていた皇道派の幹部・真崎甚三郎大将に接触。
「謀議の結果、決起部隊の要求をいれ、軍政府樹立を決意」
極秘文書には、陸軍上層部の中に、クーデターに乗じて軍事政権樹立を画策する動きが記されていた。

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一方、別の場所で、もう一つの密約が交わされていた。

極秘文書に「上」(かみ)と書かれた人物の発言が記されていた。「上」とは、軍を統帥する大元帥、昭和天皇だ。事件発生当初から断固鎮圧を貫いたとされてきた。しかし、極秘文書には事件に直面し、揺れ動く天皇の発言が記されていた。

事件発生直後、天皇は、海軍の軍令部総長である伏見宮に宮中で会っていた。伏見宮は、天皇より26歳年上、長年海軍の中枢に位置し、影響力のある皇族だった。その伏見宮に、天皇は次のように問いかけていた。

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「艦隊の青年士官の合流することなきや」

「海軍の青年将校たちは、陸軍の決起部隊に加わることはないのか?」という天皇の問いに、伏見宮は、こう答えたと記されている。

「殿下より、無き様 言上」

「殿下」こと伏見宮は、「海軍が決起部隊に加わる心配はありません」と語った。

なぜ天皇はこのとき、海軍の行動を心配するような言葉を口にしたのか。当時、まだ34歳だった天皇。軍部の中には、批判的な声もあり、陸軍少佐だった弟の秩父宮などが、代わりに天皇に担がれるという情報まで流れていた。

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「軍隊に人気があるような、秩父宮とか、高松宮の方を軍隊が天皇にしてしまう可能性があるんじゃないかという危機感は常にあったんじゃないかと。(軍部からは)夜にマージャンをしているとか、日常でもゴルフをしていて、いわゆる大元帥としての仕事をちゃんとしていないんだという形で、非常に権威が軽んじられていたと。軍隊の中で(天皇の)威信が確立していない状況が昭和初期と考えていいと思います」(天皇制を研究・名古屋大学大学院 准教授 河西秀哉さん)

事件の対処次第では、天皇としての立場が揺らぎかねない危機的な局面だった。決起部隊に加わることはないと明言した海軍に対し、天皇はたたみかけるように注文をつけていく。

「陸戦隊につき、指揮官は、部下を十分握り得る人物を選任せよ」

陸戦隊とは、艦艇の乗組員を中心に編制される海軍の陸上戦闘部隊。決起部隊に同調する動きが出てこないか、疑心暗鬼になっていた天皇は、陸戦隊の指揮官の人選にまで注文をつけるほど、細かく気をまわしていた。

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「陸軍がどうなるか分からないし、実際、模様眺めの人たちがいっぱいいるわけです。こういう状況の中で事態を打開しようとしたとき、もう一つの武力の柱である海軍に期待するのは、当然、天皇としてはあったと。特に伏見宮は、まさに軍人皇族の代表という位置づけですから、自分のコントロール下に置きたいということはあったと思います。次にどういう手を打つかという点では、昭和天皇は大きな勇気を得たと思います」(昭和天皇を研究・明治大学 教授 山田朗さん)

海軍の表と裏

決起部隊の目的を支持すると約束した陸軍上層部。天皇に「決起部隊に加わらない」と約束した海軍。事件の裏で相反する密約が交わされる中、天皇は鎮圧に一歩踏み出していく。海軍に鎮圧を準備するよう命じる3本の「大海令」を発令。天皇が立て続けに大海令を出すのは極めて異例の事態だった。

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極秘文書には、戦艦を主力とする第一艦隊、そして第二艦隊の動きが詳細に記録されていた。長門など戦艦4隻をはじめ、巡洋艦や駆逐艦、9隻の潜水艦、戦闘機・爆撃機などの飛行機隊。大分の沖合で演習中だった第一艦隊全体が、東京を直ちにめざした。さらに、全国で決起部隊に続く動きが広がることを警戒した海軍は、鹿児島沖で訓練していた第二艦隊を大阪に急行させた。

これまで陸軍の事件として語られてきた二・二六事件。実は、海軍が全面的に関わる市街戦まで想定されていた。

海軍・陸戦隊、第三大隊に所属していた中林秀一郎さん(99歳)。当時、16歳で海軍に入ったばかりだった。出動したときのことを鮮明に覚えているという。

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「初めて実弾を300発渡されて。一番海軍に入って嫌な気持ちがしましたね。まかり間違えば陸軍と、東京で市街戦になる。そんなばかなことはねえと」(中林さん)

一方、この時、陸軍の不穏な動きはさらに広がりを見せていた。海軍が注目したのは、東京を拠点とする陸軍の第一師団。決起部隊の大半が、この師団の所属だった。第一師団の参謀長がもらした言葉を、海軍は記録していた。

「決起部隊もまた日本人、天皇陛下の赤子なり」
「彼らの言い分にも理あり」
「決起部隊を暴徒としては、取り扱いおらず」

クーデターに理解を示すかのような陸軍幹部の発言に、海軍は強い危機感を抱く。もし陸軍・第一師団が決起部隊に合流したらどうなるのか。海軍は、陸軍と全面対決になることを警戒していた。

2月27日午後2時。軍令部の電話が鳴った。電話の相手は、クーデターを企てた決起部隊だった。決起部隊は、なぜ海軍に接触してきたのか。実は、海軍の内部にも、決起部隊の考えに同調する人物がいた。

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小笠原長生、元海軍中将。小笠原は天皇を中心とする国家を確立すべきだと常々主張し、皇室とも近い関係にあった。事件発生直後、小笠原は、軍令部総長・伏見宮を訪ね、決起部隊の主張を実現するよう進言していた。

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「海軍は支持してくれる。部隊ごとに協力してくれるという錯覚を反乱側は持っていたのではないかと思います。(決起部隊は)ゆくゆくは天皇が自分たちの味方をしてくれたらそれで決まるわけですが、天皇が味方になってくれるという裏には、小笠原の存在は私は多分幾分かあったと思います」(軍事史を研究・防衛大学校 名誉教授 田中宏巳さん)

そして、海軍にまで接触を試みてきた決起部隊は、“ものの分かる”海軍将校に決起部隊の拠点に一人で来るよう求めた。派遣されたのは海軍・軍令部の中堅幹部・岡田為次中佐。岡田がそこで語った言葉が極秘文書に記録されていた。

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「君たちは初志の大部分を貫徹したるをもって、この辺にて打ち切られては如何」

岡田中佐は、決起の趣旨を否定せず、相手の出方を見極めようとしていた。このときすでに天皇の命令を受け、鎮圧の準備を進めていた海軍。その事実を伏せたまま、このあとも決起部隊から情報を集めていく。天皇の鎮圧方針に従う裏で、海軍は、決起部隊ともつながっていた。

一方、この日、陸軍上層部も新たな動きを見せる。天皇が、事態の収束が進まないことにいら立ち、陸軍に鎮圧を急ぐよう求めていたのだ。

午後9時、戒厳司令部に派遣されていた海軍・軍令部員から重要な情報が飛び込んできた。

決起部隊が、クーデター後、トップに担ごうとしていた陸軍・真崎甚三郎大将。真崎が、満州事変を首謀した石原莞爾大佐と会い、極秘工作に乗り出したという情報だった。

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2人が話し合ったのは、青年将校らの親友を送り込み、決起部隊を説得させるという計画だった。戒厳司令部は、この説得工作によって事態は収束するという楽観的な見通しをもっていた。そして、万一説得に従わない場合は、容赦なく切り捨てることを内々に決めていたことも明らかになった。

「要求に一致せざる時は、一斉に攻撃を開始す」


全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~【後編】

この記事は、2019年8月15日に放送した 「NHKスペシャル 全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~」 を基に制作しています。
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