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「駅の子」 生きるために闘い続けた戦争孤児

2018年9月21日

昭和20年8月15日、終戦を迎えた日本。しかし、ここから本当の闘いが始まった子どもたちがいた。親を失い、路上で生きることになった戦争孤児。当時「浮浪児」「駅の子」とも呼ばれた彼らが、その壮絶な経験を語ることはこれまでほとんどなく、詳しい実態は分かっていない。今、ようやく語り始めた「駅の子」たち。彼らの証言から、その空白の歴史に迫る。

親を亡くして上京 「駅の子」になった

アジアや太平洋で膨大な犠牲者を出した戦争。軍人や民間人あわせて310万もの人が亡くなった。戦争末期には、日本各地が空襲により大きな被害を受け、その結果、多くの子どもたちが親を失い、孤児となった。

終戦直前に山形で空襲にあい、15歳で親を亡くした金子トミさん(88)は、東京で仕事を探そうと、幼い弟と妹を連れ、上野にやってきた。しかし、東京は一面焼け野原。金子さんは住む場所もなく、身を寄せたのが上野駅の地下道だった。

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「夜になるとほとんど空いているところはありませんでした。ここ(壁)に寄りかかって、妹と弟と3人で寝ました。お母さんとお父さんがいたらなあと、毎日思わない日はなかったです。」(金子さん)

終戦直後の上野。そこは連日のように死者がでる過酷な状況だった。わずかなお金しかなかった金子さんが買えたのは、1日1本のサツマイモだけ。ほかの人に見えないよう、きょうだい3人で分け合って食べた。食べる物のない子どもが命を落としていく様子を見て、金子さんは強い罪悪感にさいなまれたという。

「自分を守るので一杯で、あげられないんです。かわいそうだなと思うだけで、私ひとりじゃない、弟と妹がいるから。ただ亡くなるとかわいそうだなと思うだけで、自分のことで精一杯でした。」(金子さん)

当時、上野にはすでに闇市ができ、お金さえあれば、食べ物を手に入れることができた。しかし、地下道で飢えている子どもたちを気にかけてくれる大人はいなかったという。

「周りにこういうところ行けとか、大丈夫かとかそんなことは一切なかった。そんな優しい人はいませんでした。なんで政府はおにぎり1つもくれないのかなって、それは思いました。」(金子さん)

母親代わりとなってきょうだいを守ってきた金子さん。地下道での生活をはじめて3か月、持っていたお金が底をつく。金子さんは、弟と妹の預け先を必死で探し回り、自らは住み込みで働くことにした。3人は生き別れとなった。

保護施設でも環境は劣悪 死と隣り合わせの戦争孤児

戦争の影響で親を失ったり、親と生き別れになったりした戦争孤児。その数は12万人を超えた。しかし、終戦直後、子どもたちを保護する公的な施設は数が少なく、環境は劣悪だった。その1つが、東京の板橋にあった東京都養育院だ。

当時、養育院で看護師として働いていた矢嶋ゑつ子(やじま・えつこ)さん(98)。養育院では伝染病も流行し、子どもたちが相次いで亡くなったという。

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「大きい子はけっこう上までいったんですけど、小さい子はもうダメでしたね。だいぶ亡くなりました。火葬なんか間に合わないから、養育院の敷地内へ穴掘って、焼きもしないでそこへ重ねて入れて。仕方なくやったんですよね。」(矢嶋さん)

東京都養育院の土葬者名簿には、昭和20年3月から昭和21年9月までに土葬された2,700人の名前と年齢が記録されていた。9歳以下の子どもが342人、10代の子どもも86人が亡くなっていた。

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子どもの死者数は昭和21年になっても減らず、施設に入った子どもですら、死と隣り合わせの状況だった。

国の方針は親戚など個人家庭での保護、しかし…

国は、終戦直後、孤児の保護方針を示していた。施設の数が限られるなか、第1に掲げたのが、親戚など個人の家庭での保護だった。しかし、予算はつかず、孤児を預かる家庭にとっては、新たな負担となるものだった。

京都市内で暮らす小倉勇さん(86)は、駅で暮らしていた時に病気になり、視力をほとんど失った。小倉さんが親を亡くしたのは、昭和20年7月。13歳の時に当時住んでいた福井県敦賀市で空襲にあい、女手一つで育ててくれた母を亡くした。

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小倉さんは、親しかった親戚の家を頼ったという。しかし、食べていくだけで精一杯だった終戦直後、親戚の態度は以前とは変わっていた。

「なんでお前は生まれてきた、なんでわしらがお前を見なきゃならんのだ、しょっちゅう言われて。叩かれるよりも、物を食べさせてくれないよりも、その方がよっぽどこたえて。」(小倉さん)

ひどい仕打ちに耐えかね、家出を決意した小倉さん。各地を転々とし、無賃乗車の末にたどりついたのは大阪駅だった。そこには小倉さんと同じように路上で暮らす多くの子どもたちがいた。

小倉さんは、駅で出会ったカメちゃん、山ちゃんと行動をともにするようになった。お金も食べる物もなく、2日間水しか飲まない日もあった。そして、生きるために、盗みを働くようになった。

飢えに苦しみながら路上生活を続けていた小倉さんは、ある日の深夜、強烈な頭痛に襲われた。苦しむ小倉さんを、仲間のカメちゃんが、夜通し背中をさすってくれ介抱してくれた。病院に行くお金もなかった小倉さんは、片方の目がほとんど見えなくなった。

駅の子たちは、全国各地で飢えや病気と闘っていた。

なぜ国は、有効な対策をとることができなかったのか。当時の厚生省の幹部は、子どもたちの保護を後回しにせざるをえない状況だったと告白している。

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「あのどさくさに会社は全部閉鎖してしまう。そこから吐き出す失業者は非常に多い。外地からは引揚者が600万も帰ってくる。そんなことで全くてんやわんやの状態。もうほとんど子どものことなどというものは問題にもならなかった。」(昭和27年刊『児童』“児童行政の回顧と展望”より)

復興する社会で「駅の子」に向けられる冷たい目

終戦後の混乱のなか、放置された駅の子たち。

その状況に、大きな変化が起こったのが昭和21年の春だった。GHQ公衆衛生局のネフ課長は、厚生省の幹部らを呼び出し、浮浪児を東京から一掃するよう指示。さらに、子どもを保護する専門の施設を設置するよう求めた。

この後、各地で本格化したのが、自治体による子どもたちの一斉収容「狩り込み」だった。

しかし、収容先の施設は数が限られ、食糧も不足。体罰を行う施設、子どもを檻に入れる施設もあった。駅で暮らす方がましだと、子どもたちは、脱走を繰り返すようになった。

この頃、世の中は復興へと進み始め、社会は豊かさを取り戻していく。しかし、「駅の子」たちは、垢にまみれたまま、その日暮らしを続けていた。

子どもたちは、どのように生き延びていたのだろうか。
当時の調査によると、物乞いが50%以上、窃盗の常習犯は8%を超えていた。

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出典:東京都中央児童相談所 統計表「生きている 上野地下道の実態(昭和23年刊)」より

社会は、「駅の子」たちを、治安を乱す存在とみなすようになる。「駅の子」に対する社会の目が、無関心から嫌悪へと変わっていったのだ。

路上生活のなかで、片方の目がほとんど見えなくなった小倉勇さん。狩り込みから逃れて全国を放浪し、昭和22年2月、上野にたどりついた。

その年の秋、小倉さんを夜通し介抱してくれた仲間のカメちゃんが、ふさぎ込むようになった。そしてある日、カメちゃんは列車に飛び込んだ。

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「右目が見えなくなった時に、カメちゃんが、一生懸命僕の背中をさすって。それがもう、山手線で飛び込み自殺するから、泣き言だけではすまされない、憤りと悲しみと怒り。なんで自分だけがって孤独になるんですよ。その時に自殺するんです。僕も何回も経験しているけど『なんで僕だけが』って。カメちゃんもそうだったのかもしれない、本当に優しい子だった。」(小倉さん)

親を亡くし、世間から蔑まれ、親友まで失ってしまう。小倉さんのやり場のない怒りは社会に向けられていった。

「国が負けたらそういうことになるだろうけど、大人の責任ですよ、これは。戦争した大人の責任だ。俺はその時に思った、これから徹底的に社会に逆らって生きてやるって。僕たちばっかりにこんなさせて、何の罪があるんだ。」(小倉さん)

児童福祉法の成立 孤児を取り巻く状況も変化

昭和22年11月、カメちゃんが自殺した直後、児童福祉法が成立し、孤児をめぐる状況が大きく前進した。子どもの人数に応じた運営費が、児童養護施設に配布される仕組みが整備され、次第に状況は改善されていった。

当時、子どもたちを熱心に保護していた民間の児童養護施設の1つ、愛児の家。駅で暮らす孤児の惨状に胸を痛めた石綿さたよさんが設立し、多い時で100人近い子どもが暮らしていた。

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当時の施設の記録には、長期の路上生活が子どもの体をむしばんでいた様子が記されていた。

「疥癬(かいせん)って書いてありますよね、これはすごいですよ、体中が皮膚病で体中、もう痒くて痒くてどうしょうもない。」(愛児の家のスタッフ)

13歳の女の子の記録には、「梅毒第3期」の文字。路上生活のなかで性病を患っていたのだ。当時の職員は「これも冷酷な社会の罪」と、記録に社会の冷たさを嘆く一文を加えていた。

カメちゃんを亡くし、自暴自棄になっていた小倉さん。上野を離れ、全国を転々とする日々を送り、この間に両方の目がほとんど見えなくなっていた。

そんな小倉さんに大きな転機が訪れる。上野を離れて1年がたった昭和23年11月、京都駅で保護され、孤児の一時保護施設、「伏見寮」に送られたのだ。

しかし、小倉さんはここでも、職員に反抗的な態度をとり続けていた。その様子をみかねた寮の指導員、黒羽順教さんは、小倉さんをある場所へと連れ出した。銭湯だ。

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当時と同じ場所に、銭湯は残っていた。黒羽さんは、ここで「疥癬」にかかった小倉さんの背中を流してくれた。

「黒羽先生がごしごしと背中を洗ってくれて、その時にまじめにならないといかんと思ったな。背中を触ってくれる人なんかいなかった。こんな僕を洗ってくれた。」(小倉さん)

黒羽先生は、その後もたびたび、小倉さんに声をかけてくれた。小倉さんは先生のアドバイスを受けて盲学校に進学し、マッサージ師となった。その後、結婚して家庭を持った小倉さん。黒羽先生は誰よりも喜んでくれた。

「みんな飢えていて、何に飢えていたかというと、食べ物に飢えてた、着る物もなくて寒かったけど、本当に欲しかったのはぬくもりです。」(小倉さん)

小倉さんの人生を変えた、ぬくもりだった。

語り始めた体験者たち 2度と戦争をしてはならない

終戦から5年、朝鮮戦争が始まると、日本国内は特需にわき、復興がさらに加速していった。

各地で目撃された駅の子も、次第に姿を消していった。

上野駅の地下道で幼いきょうだいとともに過ごした金子トミさん。金子さんは、23歳の時に結婚し、2人の子どもを育てた。しかし、きょうだいとともに、飢え死にする恐怖におびえる日々を送った経験は、みじめな記憶として、長年、金子さんを苦しめた。

45年間連れ添った夫にさえ、上野駅で過ごしたことは最期まで打ち明けることができなかったという。

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「ただ戦争で親がないというだけで、よそで働いたって言うだけで。上野で過ごしたっていうことだけは言えなかったです、言わなかったですね。怖いという思いでね。こんな女をもらったのかと思われるのがつらくて。」(金子さん)

金子さんは80歳を過ぎてから、近所で清掃のアルバイトを始めた。国に対して、空襲の被害者への謝罪と補償を求める活動に寄付をするためだ。戦争で親も家も失い、路上でひとり死んでいった子どもたちがいた事実を忘れさせてはならないと考えている。

「戦争の大変なこと、こういうことになるということを、今の若い方に知っていただけたらと思います。それだけです。もう戦争をしてはならない、その思いだけです。」(金子さん)

7月。小倉さんは、母の命日にふるさとの敦賀を訪ねた。小さなお墓に、空襲で亡くなった母が眠っている。13歳で突然奪われた母。小倉さんは声をあげて泣いた。

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今、小倉さんは誰にも話してこなかった「駅の子」の経験を、戦争を知らない世代に伝えていこうとしている。

「どうか皆さん、今でも不幸な子どもたちがいるんですよ。その時に、何でもいいから声でもいいからかけて欲しい。私はそれだけ皆様方にお願いをしまして、お話を終わらせていただきます。」(講演会で話す小倉さん)

何度も傷つけられ、時に社会に背を向けながらも、ぬくもりを求めて生きてきた駅の子たち。私たちが決して忘れてはならない、子どもたちの戦後史である。

この記事は、2018年8月12日に放送した 「NHKスペシャル “駅の子”の闘い ~語り始めた戦争孤児~」 を基に制作しています。
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