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9秒台へ挑む若きスプリンターたち

2017年10月13日

かつてないほどの層の厚さを誇る日本男子短距離。絶対王者ボルトが引退した中、東京オリンピックの決勝の舞台に立つ夢はかなうのか? 世界大会の決勝の目安と言われる9秒台に向け、練習を積む若き選手たちを追う。

この記事は、2017年8月19日に放送した 「NHKスペシャル 9秒台へのカウントダウン 密着 日本男子スプリンター」 を基に制作しています。各選手の自己ベストタイムは放送日時点の記録です。

選手層の厚い日本短距離陣

人類最速を決める陸上男子100mの絶対王者、ウサイン・ボルトが引退した。そうしたなか、3年後の東京オリンピックで、ボルトなき決勝メンバーに日本選手が割って入る可能性が今、高まっている。

ボルトの引退レースにもなったことし8月の世界選手権。けがなどでベストメンバーではなかったものの、日本は400mリレーでリオデジャネイロオリンピックに続く銅メダルを獲得。さらに、選手層の厚さを裏付けるデータの存在も明らかになった。100mの上位10人の平均タイムが陸上強豪国に肉薄し、オリンピックの決勝進出の目安となる9秒台に迫っていることがわかったのだ。

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6月の日本選手権では、男子100mに史上空前のハイレベルな選手たちが集まっていた。日本歴代2位の10秒01を誇る桐生祥秀。100分の2秒差で追う山縣亮太。さらに10秒08の多田修平とケンブリッジ飛鳥。日本選手初の9秒台が生まれるのではないかと期待が高まる中、決勝の15分前突然雨が強くなった。

勝ったのは「第5の男」サニブラウン アブデル・ハキーム。並みいる強豪を抑え10秒05。「雨さえ降っていなければ9秒台が出ていた」そんな声も聞こえてきた。

9秒台は持ち越しとなったが、実現はもはや時間の問題だと考える専門家がいる。
長年、陸上の記録の集計に携わってきた、国際陸上競技統計者協会の野口純正さんは、日本の上位10人の平均タイムに注目。年々記録を伸ばし、ことし8月時点で10秒12。記録がある60あまりの国と地域の中でなんと5位につけている。

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「(日本は)もう9秒台誰が出しても、ことし10秒0台で走っている選手誰がどこで出してもおかしくない状況だと思います。」(野口さん)

9秒台は東京オリンピックで決勝のスタートラインに立つための目安となるタイム。リオデジャネイロ大会では、決勝に進出した8人の自己ベストはすべて9秒台。東京大会に向けて9秒台で走る地力をつけることが選手たちに求められている。

今、最も9秒台に近いのは桐生。自己ベスト10秒01。9秒99の時点ではゴールまであと20センチだった。それに続々とライバルたちが迫っている。

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飛躍的に成長するサニブラウン

日本選手権で優勝したサニブラウンを初めて取材したのは2年前、高校2年生のときだった。
187センチのひときわ目立つ体格。ガーナ出身の父親と、日本人の母親の間に生まれた。

サニブラウンがその才能を世界に知らしめたのが2年前の世界ユース選手権だ。日本選手としてこの大会初めて100mを制覇。さらに200mでは、あのボルトが持っていた大会記録を更新した。

当時からはっきりと世界の頂点を見据えていた。

「陸上競技はタイムを競うものなので記録の頂点を目指すために世界記録を一番の目標に置く。」(サニブラウン選手)

サニブラウンはことし、練習拠点をオランダに移した。多くの日本選手が国内の大学や実業団に進む中、異例の決断だった。オランダの練習施設、国立スポーツセンターには世界最高峰のアスリートたちが集まり、互いに切磋琢磨する。

そこで、サニブラウンの挑戦を強力に後押しする指導者がいる。これまで多くのメダリストを育ててきたアメリカ人のレーナ・ライダーさん。サニブラウンの走りを見て、ある課題に気がついた。走る速さは、一歩の歩幅「ストライド」と一秒間の足の回転数「ピッチ」で決まる。速く走るためには、ストライドとピッチを掛け合わせた数値をいかにあげるかがカギとなる。ライダーコーチは、サニブラウンの「ピッチ」が遅いと感じていた。

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いかにピッチを速くするか。ライダーコーチは「ドリル」と呼ばれる練習メニューを指示。一見、ただのスキップに見える練習だが、その中に足の回転数をあげるノウハウが詰まっている。脚を地面にたたきつけ、その反動で反対の脚を上げていく。脚を前へと繰り出す感覚が身につくという。

「今までにないくらい速いなと思うことはあります。ようやく本格的にちゃんとした走りになってきたのかなって。スプリンターになってきたのかなという感じですね。」(サニブラウン選手)

サニブラウンの走りはどれほど進化したのか。ことしの世界選手権の予選。向かい風0.6mの中で自己ベストと同じ10秒05をマークした。ピッチは4.62。去年5月ゴールデングランプリ川崎でアメリカのガトリンに敗れたときと比べて明らかに速くなっていた。仮にストライドが去年と同じなら、なんと9秒70を出していたことになる。世界選手権でボルトに勝ち人類最速の称号を得たガトリンは、サニブラウンの走りをどう見たのだろうか。

「9秒9、いや9秒8台も出せるだろう。自分を信じ続けることができるかが飛躍のカギになる。記録のことは心配しなくてもいずれ結果は出るだろう。」(ガトリン選手)

次々と出現する若きホープたち

体格に劣る日本選手には不可能に近いと言われてきた9秒台。自らの武器、ピッチを磨くことでその定説を覆そうとしている選手がいる。大学3年生の多田修平だ。ことし6月の日本学生個人選手権で追い風参考ながら9秒94。一躍9秒台争いに名乗りをあげた。

多田がその実力を改めて示したのが世界選手権の予選。隣のレーンのボルトをレース中盤までリードし、10秒19で準決勝進出を果たした。レースの序盤、多田はボルトよりピッチが圧倒的に速かった。このレースの多田のピッチは4.70。決勝に進出した選手と比べると2番目にあたる。

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多田が誇る世界レベルのピッチの原点は、高校時代にある。大阪桐蔭高校陸上部の監督、花牟禮武さんは、多田に独自のトレーニング「ホッピング」を課した。主に走り幅跳びの選手が行うメニューだが、短距離の練習にも取り入れている。下半身の強化につながり、足の回転が速くなるという。

大学進学後、多田の才能をさらに開花させる出会いがあった。元世界記録保持者アサファ・パウエルから直接指導を受ける機会に恵まれたのだ。爆発的なスタートが持ち味のパウエルから、構えについてアドバイスを受けた。パウエル直伝のフォームから素早く足を回転させる。多田はスタートダッシュの練習を繰り返した。

一方、世界選手権からは9秒台への手がかりも見えてきた。ボルトにくらいついたレースを分析すると、多田のストライドは2メートル9センチだった。ピッチを保ったままストライドをあと4センチ伸ばせれば9秒台が出ることがわかったのだ。

サニブラウンも多田もいなかった去年のリオデジャネイロオリンピック、400mリレー決勝。ケンブリッジ飛鳥はアンカーとして、追い上げるアメリカを振り切り銀メダル獲得に貢献した。オリンピック後、ケンブリッジは短距離界では異例のプロ宣言をした。現在自己ベストは10秒08。レース後半の走りに定評がある。4月からは、陸上の本場アメリカに渡ってレースを転戦。9秒台の選手たちと競い合うことで、後半の走りにさらに磨きをかけようとしている。

あと少しが届かない 桐生と山縣の苦悩の日々

世界5位という日本の現在地だが、気になる事実がある。日本以外の上位9カ国は9秒台の選手がいるのに、日本だけいないのだ。9秒台に最も近づいたのは、19年前、アジア大会の準決勝だった。伊東浩司さんの記録が「速報値」で9秒99。しかし、胴体がゴールラインを越えたときの「正式タイム」は、10秒00だった。以来19年間、数々の日本選手が挑んできたが、あと数十センチのところでたどりつけずにきた。

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4年前、その壁の突破を久しぶりに予感させたのが桐生祥秀だ。当時、全国的にはまだ無名だった高校3年生が10秒01をたたき出した。その後、桐生にはレースに出場するたびに、9秒台への大きな期待が寄せられるようになった。しかし、けがなどもあり、タイムは伸び悩む。日本選手権もこの2年間勝てていない。

9秒台で走る難しさを、桐生と共に痛感しているのが山縣亮太だ。5年前に10秒08をマークしてから自己ベストを4回更新、しかし9秒台には届いていない。世界的に見れば大きくはない177センチ74キロ。山縣は思い切った肉体改造を始める。筋力や体幹を鍛えることで中盤以降のスピードをあげようと考えたのだ。

「今までやってこなかったことに対して取り組むというのはやっぱり、実はそれで失敗したらどうしようとかって当然考えるんですけど、じゃあ仮にやらずに9秒台出せるのかって一歩引いて考えたときに出せないなと思って。うまくやればだめなことなんてきっとないと思うし、新しいことチャレンジしようって思いましたね。」(山縣選手)

後輩たちの追い上げを感じながら模索を続けている。

最新研究でわかったメンタルが筋肉に与える影響

9秒台を出すカギは何か、最新の研究からその手がかりが見えてきた。東京大学教授の中澤公孝さんは、選手のメンタル面が筋肉に与える影響について研究している。中澤教授が注目したのは、世界選手権準決勝のサニブラウンだ。予選より低い姿勢でのスタートに挑戦したが、その結果バランスを崩す。結局、本来のスピードを出せないまま敗退した。中澤教授は、バランスを崩したあとの走りには、心の揺れが影響したのではないかとみている。

「精神状態、おそらく相当焦ってると思うんですけども、その焦りがさらに筋肉の動きを硬くしてしまいますので、これはもう意識的にどうこうできるレベルではないので、そのときの精神状態ですね、これが強く、そこに反映してしまう。」(中澤教授)

正常な状態で走っているとき、まず足の後ろの筋肉が動き、そのあとに前の筋肉が動く。この筋肉の動きは、意思に基づき、脳からの指令で行われている。最新の研究からは、意思に関係なく働く自律神経も、筋肉に重大な影響をもたらすことが明らかになっている。緊張や焦りが生じると、自律神経が作用し、筋肉をこわばらせる「反射」という現象を過剰に引き起こす。速く走るよう精神的なプレッシャーがかかると、本来交互に動くはずの筋肉が、同時に動き、逆にスピードダウンしてしまうのだ。

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サニブラウンの体には、「反射」が過剰に起きていたのではないかとみる中澤さん。日本の選手が「9秒台」を出すには、メンタル面の成長が欠かせないと指摘する。

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NHKの単独インタビューに応じたガトリン

一瞬で走りを破壊する心の乱れ。世界のトップスプリンターにとっても克服すべきテーマとなっている。今回、NHKの単独インタビューに応じたガトリンは、2年前の世界選手権決勝では、優勝候補の筆頭とみられていたが、レース終盤、走りを崩してボルトにかわされた。わずかな心の乱れが、勝てるレースを逃す要因になった。

一方、ボルトに勝った今回の世界選手権では、レース中、不思議な感覚を味わっていたという。

「自分の周囲が薄くぼやけて自分が走るレーンだけ見える“集中状態”だった。子供の頃のようにタイムや他の選手を意識せずに走っていたんだ」(ガトリン選手)

ガトリンが語った「自分の走るレーンだけが見える」という現象。そこに、日本選手が9秒台を出すためのヒントがあるのではないか。その答えを持っているというローレン・シーグレイブさん。長年、アメリカの短距離走の研究に携わり、ガトリンも指導した。

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「アスリートが最高のパフォーマンスで走り終わったとき『何が起こったんだ?』と言うときがあります、『何も覚えていない』と。外界への意識を消し、内面に意識を集中することが重要なのです。」(ローレンさん)

どうすれば、大きな舞台でも自分の走りだけに集中することができるのか。ローレンさんが行っていたのは、呼吸や手足の動かし方を5メートルごとに決めて選手に覚えさせるという緻密な指導だった。心の持ち方について語る場面はなく、タイムも一切測らない。自分の走りだけに意識を向けさせるためだという。

スタートダッシュでは息を止め、飛び出す角度は32度。最初の2歩は、頭を下げた姿勢のまま、太ももを素早く前に出す。15m地点で初めて息を吐く。20m地点で息を吸い、低い姿勢は維持したまま、ピッチをあげて加速する。細かく決めた動作を徹底的に覚え込ませる。それが、どんな状況でも、心を乱さない強靱なメンタルを生み出すのだ。

「集中を邪魔するものすべてから自分の身を守るため、心に分厚い鎧をまとわなければなりません。そうすれば自分のレーンがトンネルに見えて、そこを走り抜けるという現象が起こります。走りのギアチェンジが完璧に実行され、フィニッシュしたとき最高の結果が生まれるのです」(ローレンさん)

ローレンさんの言う「トンネル」が見える現象とは、選手の視界から他の選手や観客が消えて、自分のレーンだけが見える究極の集中状態のこと。今月、世界選手権で優勝したガトリンにもこの現象が起きていたのだ。

目指すのは、3年後の東京オリンピック決勝のスタートライン。「9秒台」へのカウントダウンが加速している。

この記事は、2017年8月19日に放送した 「NHKスペシャル 9秒台へのカウントダウン 密着 日本男子スプリンター」 を基に制作しています。

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