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731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験~

2017年12月19日

戦時中、細菌兵器の開発を行った日本軍の秘密部隊、関東軍防疫給水部、通称731部隊。この組織の全貌を知る手がかりがロシアのモスクワで発見された。命を守るべき医学者が、なぜ人体実験に手を染めたのか。70年の時を経て明らかになるその真実とは。

人体実験を主導したエリート医学者

当事者たちの肉声を記録した22時間に及ぶ音声テープ。終戦から4年後、731部隊の幹部らを裁くために旧ソ連で開かれた軍事裁判の音声記録だ。細菌兵器開発のために、生きた人間を実験の材料として使ったと証言されていた。

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「秘密中の秘密というのは、細菌戦をもって攻撃をやるという研究をやったということと。それから人体実験を行ったという2つの点であります」(関東軍 梶塚軍医部長の証言)

731部隊が実験を行っていたのは、中国東北部の旧満洲にある秘密研究所。実験材料とされ、亡くなった人は3,000人に上るとも言われている。NHKが収集した国内外の数百点に及ぶ資料から、軍人だけでなく、東大や京大などから集められたエリート医学者たちも、人体実験を主導していた実態が浮かび上がった。専門知識を持った医学者が集められ、組織されたことで、実験が大規模に進められていったのだ。

中国東北部ハルビンの郊外20キロに、今も731部隊の本部跡が残る。部隊は、周囲数キロに及ぶ広大な敷地で極秘に研究を進めていた。四角い3階建てのビルには最先端の研究室が並び、その中央には周囲から見えない形で牢獄が設置され、実験材料とされた人々がとらわれていたという。

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秘密研究所の当時の写真

731部隊が編成されたのは1936年。当時、日本は旧満州に進出し、軍事的脅威となっていたソ連に対抗するため細菌兵器を開発していた。細菌兵器は当時、国際条約で使用が禁止されていたが、部隊を率いていた軍医 石井四郎は、防衛目的の研究はできるとして開発を進めた。部隊の人数は最大3,000人。石井は細菌兵器開発のため、全国の大学から医学者を集めていた。

極秘だった731部隊の研究活動を公にしたのが、終戦の4年後に旧ソ連が開いた軍事裁判、ハバロフスク裁判。今回見つかった音声記録では、部隊の中枢メンバーが、人体実験の詳細を証言していた。

Q 人体実験はどのように行われたのか、できる限り詳しく話してください。
「昭和18年の末だと記憶しています。ワクチンの効力検定をやるために、中国人、それから満人(満州人)を約50名余り人体実験に使用しました。砂糖水を作って、砂糖水の中にチブス菌を入れて、そしてそれを強制的に飲ませて細菌に感染をさせて、そして、その人体実験によって亡くなった人は、12~13名だと記憶しています」(731部隊 衛生兵 古都証人)

医学者たちの指示の元で、致死率の高い細菌を使って人体実験を繰り返したと語られた。

「ペストノミ(ペストに感染させたのみ)の実験をする建物があります。その建物の中に約4~5名の囚人を入れまして、その家の中にペストノミを散布させて、そうしてその後、その実験に使った囚人は全部、ペストにかかったと言いました」(731部隊 軍医 西俊英)

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当時、日本軍は日本に反発する中国やソ連の人を匪賊(ひぞく)と呼び、スパイや思想犯としてとらえていた。ロシアで発見された資料には、逆スパイにするなどの利用価値がないと軍が判断した人は、裁判を経ずに部隊に送られたと記されている。その中には、女性や子どもも含まれていたと裁判で証言されていた。

こうした人体実験に、大学から集められた医学者たちは、どう関わっていたのか。当時を知る元部隊員、三角武さんは事実を知ってほしいと今回初めて取材に応じた。部隊が保有する飛行機の整備に携わった三角さんは、医学者の実験のため、囚人が演習場へ運ばれたときに立ち会っていた。囚人は頭を丸坊主に刈られ、「マルタ」と呼ばれていたという。

「杭を打ってね、ずーっと杭を打って、そこにマルタをつないどくんです。実験の計画に沿って憲兵が連れて行って、“何番の杭に誰を縛る”とかって、“つなぐ”とかっていう、やるわけね」(三角さん)

三角さんたちは少年隊員と呼ばれ、1年間、細菌学などの教育を受けた。指導したのは全国の大学から集められた優秀な医学者だった。

「薬学博士だとか、理学博士、医学博士なんてえのが、いっぱいいますからね。だから『731部隊』って言えば、そういった各界の権威が集まってましたよ。」(三角さん)

元少年隊員の1人、須永鬼久太さんは、731部隊の戦友会が戦後まとめた名簿を保管していた。載っていたのは731部隊に集められていた医学者たちの出身大学と名前。こうした人々は軍に所属し、技師と呼ばれていた。

NHKはこの資料のほか、現存する部隊名簿や論文から技師の経歴を洗い出した。その結果、最も多くの研究者を出していたのは京都大学、次いで東京大学だったことが明らかになった。少なくとも10の大学や研究機関から、あわせて40人の研究者が731部隊に集められていた。

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「技師」となった医学者たちは、軍医と並ぶ将校クラスとして位置づけられ、731部隊の中枢にいた。エリート医学者が部隊の研究を主導していた。

大学と731部隊の知られざる関係

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なぜ、これほど多くの医学者が731部隊に関わることになったのか。取材を進めるうち、部隊と大学の知られざる関係が浮かび上がってきた。最も多い11人の技師が確認された京都大学。京都大学大学文書館で、731部隊と大学の金銭のやりとりを示す文書が初めて見つかった。

細菌研究の報酬として1,600円、現在の金額で500万円近い金額を受け取っていたのは、医学部助教授だった田部井和(たべい・かなう)。致死率の高いチフス菌を研究していた田部井は、731部隊設立後まもなく赴任し、研究班の責任者になった。

田部井がそこでどんな実験をしていたのか、部下が証言している。

731部隊 衛生兵 古都証人:チブス菌を注射器でもってスイカ、マクワ(うり)に注射しました。そしてそれを研究室へ持って帰って、菌がどのように繁殖したか、または減ったか等を検査しました。そして完全に菌が増殖してるのを確かめてから、それを満州人と支那人に、約5~6名の人間に対して食べさせました。
通訳:果物を食べた哀れな人間は、どうなったんですか。
古都証人:全員感染しました。

同じ時期、京大からは医学者7人が部隊に赴任。取材を進めると、教え子たちを部隊へ送ったとみられる教授たちの存在が浮かび上がってきた。大きな影響力を持っていたのが、京都帝国大学の医学部長を2度務めた戸田正三。戸田は軍と結びつくことで多額の研究費を集めていた。

戸田の研究報告書には、陸軍などから委託された防寒服の研究で8,000円。軍の進出先での衛生状態の研究で7,000円。現在の額で合わせて2億5,000万円にのぼる研究費を得ていたことが記されていた。

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軍と戸田が関係を深めるきっかけとなったのが、満州事変だ。傀儡国家・満州国が建国されると、国民はそれを支持。こうした世論の中で、大学は満洲の病院などに医師を派遣。現地の人々を病気から守る防疫活動のためとして、ポスト争いを始める。東大や慶応大などと競いながら、京大は派遣する医師の数を急増させていく。

こうした中、大学への影響力を拡大したのが731部隊だ。部隊内で石井に次ぐ部長を歴任した川島清は、731部隊には、昭和15年度だけでも今の金額で300億円の国家予算が与えられていたとハバロフスク裁判で証言している。巨額の予算を動かしていたのが731部隊の部隊長、石井四郎だ。京大医学部出身の石井は、母校の指導教官の1人だった戸田と関係を深めていた。

教え子が書いた回顧録(雑誌「国民衛生」)には、戸田が中国の731部隊の関連施設を繰り返し訪れていたことが記されている。戸田と関係が深い教授の研究室からは8人の医学者が、京大全体では11人が731部隊へ赴任したことが分かっている。

京大に次いで、多くの研究者が731部隊に集められた東京大学。取材に対し「組織として、積極的に関わったとは認識していない」と回答している。その東大の幹部が石井と交流していた事実が、取材から明らかになった。医学者で東大の総長を務めた長與又郎だ。

遺族の許可を得て入手した長與の日記には、総長時代から石井と接点があったこと。そして退任後の昭和15年、731部隊の本部を長與が視察した際、水炊きを囲んだ歓迎会が開かれ、石井や東大出身の部隊員らが同席していたことが記されていた。

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東大からは戦時中、少なくとも6人が集められたことが分かっている。

石井が大学の幹部と結びつく中で、集められていった医学者たち。医学者の中には、731部隊に送られた経緯を詳細に書き残していた人もいた。京大医学部の講師だった吉村寿人は、基礎医学の研究で多くの命を救いたいと医学者を志したという。国内で研究を続けたいと思いながらも、教授の命令には抗えなかったと回想している。

「軍の方と既に約束済みのような様子であった。先生は突然、満州の陸軍の技術援助をせよと命令された。せっかく熱を上げてきた研究を捨てることは、身を切られるほどつらいことであるから、私は即座に断った。ところが先生は『今の日本の現状からこれを断るのは、もってのほかである。もし軍に入らねば破門するから出て行け』と言われた」(吉村の回想「喜寿回顧」より)

生理学が専門だった吉村は、731部隊で凍傷の研究を命じられた。当時、関東軍の兵士たちは、寒さによる凍傷に悩まされていた。その症例と対策を探る目的で人体実験を行っていた様子が、裁判で語られていた。

「吉村技師から聞きましたところによりますと、極寒期において約、零下20度ぐらいのところに監獄におります人間を外に出しまして、そこに大きな扇風機をかけまして風を送って、その囚人の手を凍らして凍傷を人工的に作って研究しておるということを言いました。」(731部隊 軍医 西俊英)
「人体実験を自分で見たのは、1940年の確か12月頃だったと思います。まず、その研究室に入りますと、長い椅子に5名の中国人のその囚人が腰を掛けておりました。それで、その中国人の手を見ますと、3人は手の指がもう全部黒くなって落ちておりました。残りの2人は指がやはり黒くなって、ただ骨だけ残っておりました。吉村技師のそのときの説明によりますと凍傷実験の結果、こういうことになったということを聞きました。」(731部隊憲兵班 倉員証人)

吉村は部隊で凍傷研究を進めながら、満洲の医学会で論文も発表していた。論文には様々な条件に人体をおいて、実験していたことが記されていた。絶食3日、一昼夜不眠などの状態においてから、零度の氷水に指を30分浸けて観察していた。

部隊から高額の報酬を受け取っていた京大の田部井は、実験室での研究から実戦使用の段階へと進んでいく。開発していたのは細菌爆弾。大量感染を引き起こす研究を始めていたのだ。一度に10人以上の囚人を使い、効果を確かめたと部下が証言している。

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「安達の演習場で自分の参加した実験はチフス菌であります。それは瀬戸物で作った大砲の弾と同じ形をした細菌弾であります。空中でもって爆破して、地上に噴霧状態になって、その菌が落ちるようになってました。そして菌が地上に落ちたところを、被実験者を通過させたのと、それから杭に強制的に縛り付けておいて、その上でもって爆破して、頭の上から菌をかぶせたのと2通りの方法が行われました。大部分の者が感染して、4人か5人か亡くなりました」(731部隊 衛生兵 古都証人)

医学者は なぜ一線を越えたのか

本来、人の命を守るべき医学者は、なぜ一線を越えたのか。それを後押ししたとみられるのが日本国内の世論だ。

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1937年、日中戦争が勃発。中国側の激しい抗戦で日本側の犠牲も増えていった。日本軍は反発する中国人らを匪賊と呼び、掃討作戦を行った。政府もメディアも日本の犠牲を強調する中、匪賊に対する敵意が高まり、世論は軍による処罰を支持した。

そうした時代の空気と研究者は、無縁ではなかった。731部隊以外でも学術界では匪賊を蔑視する感情が広がっていた。それを示す資料が北海道大学で見つかっている。当時の厚生省が主催する研究会が発行した雑誌「民族衛生資料」だ。染色体を研究する大学教授の講演の記録には、軍に捕らえられた匪賊を、生きたまま研究材料としたことが、公に語られていた。

「匪賊が人間を殺すならば、その報復ではないが、その匪賊を材料にしてはどうかと思いついた。死んだものは絶対にだめである…染色体の状態が著しく悪くなる。匪賊一人を犠牲にしたことは、決して無意義ではありません。これほど立派な材料は従来断じてないということだけはできます。」(「民族衛生資料」 北海道帝国大学教授 講演録)

14歳の時に731部隊に入隊した三角さんは、匪賊は死刑囚だから実験材料として利用して良いと教えられたという。

「『こういう時代なんだから、そうしなきゃ、俺たちがやられるんだよ』と。そういった考えでしたね。口には出せないです。かわいそうだとかなんとかということを見ても、口に出せない。出したら、非国民だとやられちゃう。そういった雰囲気というか、そういった一般的な風潮がそうだったんです」(三角さん)

戦争が泥沼化していった1940年代。731部隊は中国中部の複数の都市で少なくとも3回、細菌を散布。細菌兵器での攻撃は国際条約で禁止されていたが、日本は批准しないまま秘かに使用した。

「私がおりました間のことを申しますと、昭和16年に第1回、それから昭和17年に1回、中支において第731部隊の派遣隊は、中国の軍隊に対して細菌武器を使用しました。」(731部隊第一部(細菌研究)部長 川島清)

さらに民間人にまで感染を広げる目的で、中国の集落に細菌をまいたと証言されていた。

使われる細菌は、主としてペスト菌、コレラ菌、パラチフス菌であることが決定しました。ペスト菌は主としてペストノミの形で使われました。その他のものはそのまま水源とか井戸とか貯水池というようなところに散布されたのであります」(731部隊第一部(細菌研究)部長 川島清)

そして戦争末期の1945年8月9日、ソ連が満州に侵攻、731部隊はただちに撤退を始める。部隊は証拠隠滅のため、全囚人を殺害。実験施設を徹底的に破壊し、箝口令をしいた。少年隊員の三角さんは、このとき死体の処理を命じられた。

「その死体の処理に『少年隊、来い』って言って引っ張られて行って、死体の処理を各独房から引っ張り出して、中庭で鉄骨で井桁組んでガソリンぶっかけて焼いたわけ。焼いて全部焼き殺して骨だけにして、今度骨を拾うの。『いや、戦争っていうのがこんなものか』と。戦争ってのは絶対するもんじゃないと。つくづくそう思いましたね。ほんとにね、1人で泣いた」(三角さん)

人体実験を主導した医学者たちは、ソ連の侵攻前に、特別列車でいち早く日本に帰国。戦後、その行為について罪に問われることはなかった。アメリカは人体実験のデータ提供と引き替えに、隊員の責任を免除したのだ。

多くの教え子を部隊に送ったと見られる戸田正三は、金沢大学の学長に就任。部隊との関わりは語らないまま、医学界の重鎮となった。チフス菌の爆弾を開発していた田部井和は、京都大学の教授となり、細菌学の権威に。凍傷研究の吉村寿人も教授に就任。「自分は非人道的な実験は行っていない」と生涯否定し続けた。

「私は軍隊内において、凍傷や凍死から兵隊をいかにして守るかについて、部隊長の命令に従って研究したのであって、決して良心を失った悪魔になったわけではない」(吉村の回想「喜寿回顧」)

今回発見された音声記録。その最後には、被告たちが自らの心情を語った発言が残っていた。731部隊の軍医、柄沢十三夫は人体実験に使われた細菌を培養した責任者だった。戦争が終わってから初めて、罪の重さに気づいたと語っている。

「自分は現在平凡な人間といたしまして、自分の実際の心の中に思っていることを少し申してみたいと思います。私には現在日本に、82になります母と、妻並びに2名の子どもがございます。なお、私は自分の犯した罪の非常に大なることを自覚しております。そうして終始懺悔をし、後悔をしております。私は将来生まれ変わって、もし余生がありましたらば、自分の行いました悪事に対しまして、生まれ変わった人間として人類のために尽くしたいと思っております」(731部隊 軍医 柄沢十三夫)

柄沢は刑に服した後、帰国直前に自殺したと伝えられている。

今、私たちに問いかける医学者と731部隊の真実。それは日本が戦争へと突き進む中で、いつのまにか人として守るべき一線を越えていった、この国の姿だった。

この記事は、2017年8月13日に放送した 「731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験~」 を基に制作しています。
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