NHKスペシャル

ミラクルボディー 第1回
ウサイン・ボルト 人類最速の秘密

人類史上最速9秒58で100mを走る男、ウサイン・ボルト(ジャマイカ)。その圧倒的な記録は、“人類が9秒6を破るのは2039年”という現代科学のシミュレーションをはるかに前倒しするものだった。ボルトの異次元とも言える速さの秘密はどこにあるのか?
今回、世界で初めて、ボルトの走りを科学の目で徹底分析することが許された。超ハイスピードカメラなどの特殊撮影や、モーションキャプチャーなどを駆使した実験にボルト自らが参加。そこから見えてきたのは、これまでの理論をことごとく覆す特異なフォームと、それを実現する筋肉や骨格に秘められた意外な事実だった。さらに、世界一速い男のメンタルにも注目。大舞台でこそ力を発揮してきたボルトが去年の世界選手権で犯してしまったフライング。自らの記録更新のために最もこだわり続けて来たスタートでの失敗はなぜ起きたのか。そこには人類最速男の知られざる葛藤がある。
ロンドン五輪で人類の記録は更新されるのか。肉体の限界に挑むボルトの闘いを見つめる。

放送を終えて

初めてボルトに会ったのは4年前、彼が初めて100メートルの世界記録を出したすぐ後の事だった。ジャマイカの首都キングストンにある陸上連盟の事務所にボルトはふらりと現れた。興奮気味に世界記録への賛辞を並べる私にボルトは静かに笑いながら言った。「僕の記録だっていつかきっと誰かに破られるよ。そしていつの間にか皆その選手のことなんか忘れてしまうものさ。」それはテレビカメラの前で自信満々に超人ぶりを見せ付けるボルトとは違う、あまりにも冷静で控えめな物言いだった。
取材の過程で知る事になったのは彼が生まれつき抱えていた脊柱側弯症という背骨が曲がる病気の存在だった。その病気に起因し今も続く故障、結果を残せなければ容赦ない批判を浴びせる世間。そうした不条理ともいえる闘いに常に身を置いてきたボルトの競技者人生を知った時、私が抱いていた“素のボルト”への違和感の理由を垣間(かいま)見た気がした。
番組の制作中、常に探し続けたのは“何がボルトをボルトたらしめたのか”の答えだった。「背骨が僕を育ててくれたのかもしれない」という言葉の重さ、そしてカメラの前で見せてくれた曲がった背骨を覆い尽くすように鍛え上げられた背筋の凄み。一取材者の大それた問いかけに、ボルトは労を惜しまず最後まで誠実に付き合い続けてくれた。番組で描けた事はウサイン・ボルトという不世出の短距離走者のほんの一断片であったであろう。しかしそれを映像に記録できた事を幸せに思う。

ディレクター 小泉世里子