元気だった男の子が、小学2年生のとき、急に物忘れが多くなり、半年もたたずに歩くことも話すこともできなくなってしまいました。
赤ちゃんのときに感染したはしかが原因で、「亜急性硬化性全脳炎(SSPE)」という難病を発症したためでした。頻度は高くはないものの、はしかにかかった数年後に発症し、寝たきりになったり、命を落としたりすることもある病気です。
今月(5月)、都内で3年ぶりにはしかの感染者が確認されました。また、新型コロナウイルスの影響で、はしかのワクチン接種率が低下しています。こうした状況を危惧して「はしかの怖さを知ってほしい」と、SSPEの患者と家族が取材に応じてくれました。
(首都圏局/ディレクター 竹前麻里子)
東京都町田市に住む辻海人さん(24)がはしかに感染したのは、生後11か月のときでした。
辻海人さんと 母・洋子さん
当時、軽いかぜをひいた海人さんを母・洋子さんが市内の病院に連れて行ったところ、待合室の遠くのほうの席で「はしかにかかった」という声が聞こえてきました。
洋子さんは「海人にうつらないといいな」と感じましたが、その数日後、海人さんに高熱や発疹などの症状が出て、病院ではしかと診断されました。
はしかは、手洗いやマスクだけでは防ぐことができないほど、強い感染力があるのです。
はしかのワクチンは、1歳と、小学校入学前の1年間のあわせて2回の接種が推奨されていますが、海人さんは当時、定期接種の対象になる1歳に達していなかったことから、ワクチンは接種していませんでした。
はしかに感染した海人さんは病院で点滴を受け、高熱などの症状は数日で治まりました。そのあと中耳炎になることはありましたが、それ以外は体調に問題は無く、元気に過ごしていたといいます。
海人さんは3歳から始めたサッカーが大好きで、地域のサッカースクールに入り練習に打ち込みました。九九をいち早く覚えるなど勉強も得意で、「しっかりして手のかからない子」だと洋子さんは感じていました。
海人さんに異変が起きたのは、小学2年生の秋のことです。
サッカーの練習から帰ってきた海人さんに、洋子さんが練習用の靴下を脱ぐよう言いました。ところがわずか数分後に、海人さんはそのことを忘れていたのです。
物忘れが多くなり、すべて覚えていた九九も思い出すことができなくなりました。「犬」といった簡単な漢字も、見本が目の前に置いてあっても書き間違えるようになり、勉強をしながら眠ってしまうこともありました。
それまでしっかり者だった息子の変化に、洋子さんは戸惑ったといいます。
母・辻洋子さん
「最初のころは、真剣に勉強をしていないのではないか、ふざけているのではないかと思い、『もっと集中してやりなさい!』と何度も怒っていました。そんなに怒らなければよかったと、あとで後悔しました。『お母さんはどうせ怒るだけだから』という息子の言葉が、今も心に残っています。
もしかして心の病ではないか、当時、私は仕事を始めたばかりだったので、海人と一緒にいる時間が少なくなったことが原因ではないかと考えたこともあります」
その後も海人さんの異変は続きました。以前は、サッカーの練習で積極的に攻撃をしていましたが、12月には練習を怖がるようになりました。
年明けには担任の教諭から、「海人くんが上履きを履かずにふらふらしている。様子が普通ではない」という連絡が来るようになりました。
「もしかしたら、脳の病気なのではないか…」
洋子さんが「脳の病気 小児」というキーワードで検索したところ目にとまったのが、亜急性硬化性全脳炎(SSPE)です。その症状は海人さんの様子にぴったりと当てはまったといいます。
クリニックで大学病院の紹介状を書いてもらい、検査の末、海人さんはSSPEと診断されました。海人さんがSSPEの診断を受けたとき、洋子さんは「これでようやく治療ができる。これからはいい方向に向かっていくはず」とホッとしたといいます。
しかし海人さんの症状は、入院して治療を受けるようになっても、徐々に進行していきました。SSPEは完治のための治療法が確立していないのです。
母・洋子さん
「きのうはできたことが、次の日にはできなくなっていました。大好きだったサッカーのボールを蹴ることができなくなる。うまく歩けなくなり、よろけて転ぶ。一緒に読んでいた本が読めなくなる。好きだった歌が歌えなくなる…。
排せつも自分でできなくなり、オムツをつけるようになりました。
海人の車いすを作ったのですが、まさか自分が息子の車いすを押す日が来るなんて、考えたこともありませんでした。病気を受け入れることができず、車いすを押しながら毎日泣いていました」
症状が見られるようになってから半年もたたないうちに、海人さんは歩くことも話すこともできなくなりました。
小学3年生の夏に退院してからは、家族やヘルパーなどの力を借りて自宅で過ごしています。学校は、小学校から特別支援学校に転校。24歳になったいまは、週に5日、障害者支援施設に通い、リハビリテーションなどの支援を受けています。
海人さんの主治医、国立精神・神経医療研究センターの竹下絵里医師によると、免疫系が未熟な2歳未満ではしかに罹患した場合や、ステロイド、免疫抑制剤などを長期に使用して免疫機能が低下している状態ではしかに罹患した場合に、SSPEを発症することが多いとされています。
国立精神・神経医療研究センター 脳神経小児科 竹下絵里医師
「SSPEは、はしかに罹患した5~10年後に発症し、好発年齢は5~14歳ころです。初期には、記憶力の低下、学校の成績低下、落ち着きがなくなる、興奮しやすくなる、無関心になる、場にそぐわない行動をとるなどの精神的な症状で気付かれることが多いです。
その後、手足や体がぴくっとする不随意運動が出ることも特徴です。
進行すると、歩行不能になり、口から食事をとることが難しくなります。体温調節の障害、発汗の異常などの自律神経症状も見られるようになります。さらには、意識が消失し、自発的な運動がなくなります。
完治のための治療法は確立していないため、知能低下、意識障害、運動障害などの症状の進行に対する対症療法が中心です。治療やケアにより長期間生存する患者さんもいます」
厚生労働省によると、はしかは、感染すると約10日後に発熱やせき、鼻水といった風邪のような症状があらわれます。2~3日熱が続いたあと、39℃以上の高熱と発疹が出現します。
肺炎、中耳炎を合併しやすく、患者1,000人に1人の割合で脳炎が発症すると言われています。死亡する割合も、先進国であっても1,000人に1人と言われています。さらに、10万人に1人程度と頻度は高くないものの、SSPEを発症することもあります。
感染力が非常に強いため、もしも発疹や発熱など、はしかのような症状がある場合は、はしかの疑いがあることを医療機関に電話で伝え指示に従うよう、厚生労働省では呼びかけています。医療機関を受診する際は、公共交通機関の利用を控えてください。
最も有効な予防法はワクチンの接種で、ほとんどの人に免疫がつくといわれる、2回の接種がのぞましいとされています。
ところが、接種を受けていない子どもが増えています。
東京都内では、はしかと風疹を予防する「MRワクチン」の2021年の接種率は、1回目が93.9%と、前年を5.2ポイント下回り、2回目も93.2%と、前年を0.8ポイント下回っています。集団免疫を得る目安は95%ですが、それよりも低い水準です。
コロナ禍で、保護者が医療機関での感染に不安を感じ、接種を控えるケースが増えたことや、小児科の発熱外来がひっ迫して、一時的に接種の予約が取りづらくなったことが要因とみられるということです。都は、集団免疫が下がると流行が広がるおそれがあるとして早めの接種を呼びかけています。
さらに厚生労働省によると、2000年4月2日以降に生まれた方は、定期接種として2回のワクチンを受ける機会がありますが、それ以前に生まれた方については、2回の接種を受ける機会が無かった方もいます。
2000年4月2日以降生まれ 定期接種2回
1990年4月2日~2000年4月1日生まれ 約8割が2回接種(※)
1990年4月1日以前生まれ 定期接種1回、もしくは0回
(※1990年4月2日~2000年4月1日に生まれた人は、時限措置として2回目の接種を実施し、約8割の実施率となっています)
はしかにかかったことがなく、2回の予防接種を受ける機会がなかった方で、はしかにかかるリスクが高い方や、はしかにかかることで周りへの影響が大きい場合、流行国に渡航するような場合は、2回目の接種についてかかりつけの医師に相談するよう、厚生労働省では呼びかけています。2回の接種を受けているかどうかは、母子健康手帳で確認ができます。
ただし妊娠中はワクチン接種を受けることはできませんので、注意が必要です。
SSPEを発症した辻海人さんの母・洋子さんは、人の移動が活発になる中で、はしかの感染が再び広がるのではないかと危機感を抱いています。
母・洋子さん
「海外からの観光客が増え、まだはしかが排除されていない国からも、大勢の人がやってくると思います。再びはしかが流行すれば、まだ予防接種をしていない赤ちゃんに感染してしまうのではないかと恐れています。
社会がはしかの免疫を持つ人たちばかりなら、はしかの感染は広がりません。はしかの免疫を持たない1歳未満の赤ちゃんをはしかの感染から社会全体で守ることができます。
はしかにならなければ、SSPEにはなりません。まだMRワクチンを2回接種していない方は、大人も子どももぜひ検討してほしいと思います」
SSPEの患者や家族が、交流や情報交換を行っている「SSPE青空の会」の情報はこちら(NHKのページを離れます)。