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ウクライナを思いステージに サックスの音色が国境を越える

  • 2023年3月15日

私がサックス奏者の五十嵐健太さんと初めて会ったのは去年6月、ウクライナへの支援活動をしている音楽家からの紹介だった。
彼は日本国籍だが、小さい頃からウクライナで暮らしていたとのことで、ロシア語の通訳を介しての会話だった。日本での暮らしにまだ慣れないのか、どこか不安げな青年だな、というのが彼への第一印象だった。

あれからおよそ9か月。彼の母親は、いまも戦渦のウクライナにいるという。家族から離れて日本での避難生活を余儀なくされつつも、音楽だけでなく、日本語も学びながら、「いま」を前向きに生きる五十嵐さんに私はカメラを構えた。
(映像センター/カメラマン 竹下昌宏)

サックスで見えていた世界の舞台 奪われた日常

五十嵐さんは群馬県で生まれたが、日本人の父親が他界してしまい、5歳のときにウクライナ人の母親と一緒にウクライナのキーウに渡って以来、ずっとキーウで暮らしてきた。7歳でサックスに出会い、その魅力のとりこになった。ひたすら練習に打ち込んで力をつけ、国際コンクールでの優勝経験もある。音楽家の一人として今後も大きな活躍が期待されていた、その矢先の、ロシアによる軍事侵攻だった。

「戦争が始まった」

昨年2月24日の朝6時頃に、通っていた大学の先生から連絡があった。戦争が始まるかもしれないということは友人らとも話していたところだった。避難用にまとめていた荷物をつかみ、母親と一緒にキーウの自宅を出て、50キロ離れた郊外へと足を伸ばした。

避難先とはいえ食べ物は少なく、頭上をロシアのものと思われるヘリコプターがかすめていく。電気を極力消すなどして敵の目を欺こうというような生活で、サックスの練習など到底出来る状況ではなかった。

五十嵐さん
「あした、何が起こるのか、分からなかったです。爆弾など、どこに来るかも分かりません。キーウは一番大事で大きい街なので、戦争だと一番危ないと思いました」

「日本へ」と背中を押した母

先の見通せない避難生活の中で、五十嵐さんは自分自身がどのようにすればいいのか悩んでいた。このままここに残るのか、もしくは日本へ渡るのか、その時に家族はどうするのか。

二の足を踏んでいた五十嵐さんの背中を押したのは、母親だった。

五十嵐さん
「母は『時間が大事だ』と言いました。戦争がいつ終わるか分からなくなったし、たぶんそんなにすぐに終わらない。『健太練習をしていて欲しい、勉強して欲しい、だから日本に行って』と言いました」

軍事侵攻が始まって16日目、五十嵐さんはブダペスト行きの列車に飛び乗った。最低限の荷物と、サックスだけが持ち物だった。
 

その車内で五十嵐さんはブダペストに住む友人と連絡が取れ、一時的に避難させてもらえることになった。それだけではなく、その友人は五十嵐さんの決断を受けて、日本の大学で講師をしている知人を通じて、都内の音楽大学で受け入れについて、内々に相談を進めてくれていた。ウクライナを離れて5日後の3月16日、五十嵐さんは14年ぶりに日本に戻り、避難生活を始めることとなった。

学べること、練習できることに「感謝」

五十嵐さんは翌月には音楽大学への転入が認められた。現在は学生生活を送りながら1日5時間以上練習に費やす日もあるという。同じサックスを学んでいる学生と話している五十嵐さんは、リラックスして楽しそうだ。

しかし、五十嵐さんがひとたびサックスに向き合うと、その様子は一変するという。

友人

めちゃめちゃうまいです。基礎力とか、人一倍練習していることもあって、素敵な音楽の表現をされているなと。

友人

口の中を切っても、練習を続けている姿を見て、音楽に対する意識や気持ちが全然違うと思いました。

東京音楽大学で五十嵐さんを指導する講師の波多江史朗さんは、人づてに五十嵐さんの話を聞き、大学進学への道を手伝った一人だ。

波多江史朗さん
「彼のもった音色というか、すごくすばらしい音色で、これは才能としかいいようがないんですけど、人の心を動かすような、音を聞いただけで、彼が何を言いたいのか伝わる音色になっていると思います。今回、彼の件だったら、例えば、戦争が起こったことによって、僕らが年月をかけて経験したこと以上に深い、感情的な部分が演奏に反映されているし、この9か月で、全然違うくらい、成長していると思います。

やはりこれだけの音楽と経験と、人が持っていないものを持っている人ですから、より多くの人に彼の音楽を聴いてもらいたいと思うし、フラッグシップになれる存在だと思うので、今後どんどん活躍をしていってほしいです」

五十嵐さん
「すごく感謝しています。ここで勉強することが楽しくて、すごくうれしく思います。毎日、勉強すること、練習できること、レッスンができることは幸せです」

去年8月にあった日本でのコンクールでも優勝を飾り、母の思いに日々応えるように、彼は真摯にサックスと向き合う日々を送っている。

音楽を楽しんで欲しいから

軍事侵攻の開始から1年を迎えようという頃、五十嵐さんは滋賀県の高校の卒業演奏会に招待されることになった。吹奏楽部の顧問、樋口心さんはウクライナにゆかりのある音楽家を探す中、五十嵐さんのことを知り、声をかけたという。

樋口心さん
「ウクライナの方と交流をするということは、普通に生活をしているとないと思うんですけど、音楽を通して、ウクライナという、芸術大国の演奏家の演奏を知っていただくっていうのは、国際交流かなと」

この日、楽屋前の名前の横にウクライナ語で“ありがとう”と書かれていて、五十嵐さんは思わず顔をほころばせた。

リハーサルの前に生徒たちと交流する時間が設けられ、部員からは五十嵐さんに様々な質問が寄せられた。

部員

ウクライナの事は、ニュースでしか知らないんですけど、ウクライナに住んでいらっしゃる方々とは頻繁に連絡をとっていらっしゃいますか?

五十嵐さん

友達とか家族とか連絡しています。

部員

楽器ってたくさん種類があると思うんですけど、その中で、サックスを選んで、演奏活動をするのに理由があればお聞きしたいです。

 

サックスは、すごくかっこいいですね。音とか、その種類が好きになりました。サックスは、楽器のマネ、たとえばクラリネットの音やトランペットの音が出せます。すごく面白い楽器です。

高校生たちからの質問に、うれしそうにサックスの魅力を語っていた五十嵐さん。ウクライナのことを知って欲しい、ウクライナのことを忘れないで欲しい、という思いが常にあり、こうした時間を大切にしているようだった。

この日の演奏にはおよそ1100人もの人が訪れ、生徒たちと五十嵐さんの演奏に聴き入っていた。

演奏を
聴いた人

演奏しているときに感情がこみ上げてくるのが伝わってきたので、やっぱり、戦争でそういうつらい思いをされているんだなってことが伝わってきました。

 

五十嵐さん
「自分の気持ちで演奏ができ、いい演奏になりました。ステージにいることは、そして音楽を出来ることはすごく幸せで、感謝です。いろんな街とかいろんな国で演奏会をやりたいです。ウクライナの事も忘れてほしくないですね」

いつかロシアでも演奏したい

母親「コンクールの練習をしているの?」
五十嵐さん「うん、練習してる。来週は、自分たちのバンドで演奏する予定だよ」
母親「ビデオを送ってよ」

ウクライナにいる母親には週に一度は必ず電話をするという。やりとりではほぼ戦争には触れず、とても穏やかだ。母のことを思えば不安も心配も尽きないものの、そこはあえて触れずにいる。ニュースなどもあえて見ないようにしているようだ。ひとたび思いをはせてしまうと、練習に手がつかなくなってしまうからだ。

私が五十嵐さんと初めて会ってからおよそ9か月が経つ。はじめはロシア語の通訳を介していた彼との会話は、日を追うごとに日本語が増え、先月取材した際にはほぼ日本語だけでやりとりできるようになった。音楽を日々続けながら、言語を習得するのは容易ではないだろうと思う。ウクライナにいる友人に五十嵐さんの近影を見せると、10歳以上老け込んだ、と言われることがあるという。今回の軍事侵攻がもたらしした苦悩が刻まれているのだろうか、五十嵐さんの顔つきが厳しくなってきている印象は、取材を続ける私自身も少なからず持っていた。

その一方で、五十嵐さん自身はこの1年で自分に起きたことのひとつひとつによって、自分の音の表現の幅に変化が起きていることを実感しているという。

五十嵐さん
「音楽家は自分で生きてきた事を、音楽で感じたり、届けることができる。例えば、悲しいことが生活になかったら、悲しい曲の意味がわからない。楽しい曲や幸せな曲は、幸せな事がなかったらできないですね。それは、全部、経験していれば届けることができる。戦争が始まったことで、悲しい曲を演奏する時には、もっと感じて、もっと届けられるのではないかと思います」

一番大切なのは、生きていくことだ、と五十嵐さんは話す。ウクライナはもちろんのこと、政府が代わればロシアでも演奏をしたいという五十嵐さんの思いは、明快だ。

五十嵐さん
「映画を楽しむように、音楽を楽しんでほしい。自分の演奏を聴いている時は、イヤなことなど何もかもを忘れて聴いてほしいんです」

  • 竹下昌宏

    報道局 映像センター カメラマン

    竹下昌宏

    10年以上、報道カメラマンとして勤務。海外の話題やパラスポーツ、育児など、あらゆる分野に関心を持って取材をしています。

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