出産予定日まで、もうすぐ3か月だったあの日。
夫と食事をしていると、突然、腹痛を感じました。
痛みは震えるほど激しく、病院に搬送されると、帝王切開で出産することになりました。
うまれた息子はわずか1224グラム。
出産直後、体調不良で十分な量の母乳が出ないなか、小さな息子の命をつなぐ一助となったのが、「母乳バンク」から提供された「ドナーミルク」でした。
こう語ってくれたのは、おととし都内でうまれた松藤蒼波くんの母親のみずきさんです。
出産直後の親子を支えた母乳バンク。
いま、災害時にも小さな命を守れるように、新たな拠点を設立する動きが出ています。
(首都圏局/記者 氏家寛子)
松藤みずきさんは、妊娠29週目に帝王切開で出産しました。
早産でうまれた息子の蒼波くんの体重は1224グラム。
体重が1500グラム未満で、感染症や病気にかかるリスクが高いとされる「極低出生体重児」でした。
出産直後、みずきさんは体調不良から十分な量の母乳をあげることができませんでした。
こうしたなか、医師から提案されたのが、「母乳バンク」から提供される「ドナーミルク」でした。
聞き慣れないことばに当初、みずきさんは戸惑いましたが、医師の説明を受けて、夫の久さんとともに、母乳の大切さを知りました。
そしてドナーミルクを利用することを決断し、生まれてから3日目まで蒼波くんに与えました。
松藤みずきさん
「生まれたときは小さかったので死んでしまうのではないかと心配で寝られず、食べられずひとりでNICU(=新生児集中治療室)に行くのも怖かったです。『できることなら何でもやって』という気持ちでドナーミルクを利用しました」
その後、母乳が十分に出るようになり、生まれてから6日目に撮影された写真では、蒼波くんが綿棒にしみ込ませたみずきさんの母乳を口に含んでいます。
3か月後、蒼波くんは無事に退院。
2歳5か月のいまでは体重が10キロを超え、取材に訪れた時も大好きな車の本を読んで、元気な様子で過ごしていました。
松藤みずきさん
「本当に感謝しかないです。あの状況で自分の母乳をあげることは、どう頑張ってもできなかったので、助けていただいたという気持ちです。ドナーミルクを多くの人に知ってもらう取り組みが必要だと思います」
「母乳バンク」は、母親が母乳を与えられない場合、医療機関の要請に基づき、ドナーから提供された母乳「ドナーミルク」を極低出生体重児など低体重でうまれた赤ちゃんに無償で提供します。
母乳の提供には高い安全性が求められるため、国際的な基準に基づいて運用され、母乳の提供者は、特定の施設で血液検査などを受けた上で、ドナーとして登録します。
提供してもらった母乳は、母乳バンクで低温殺菌処理し、細菌検査などをした上で冷凍保管します。
母乳バンクのドナーミルクが推奨される大きな理由は、低体重で生まれた赤ちゃんの感染症や病気のリスクを減らす効果が母乳に期待できるとされているためです。
生死にかかわる腸の一部が“え死”してしまう病気については、母乳を与えた場合、人工ミルクに比べ、発症リスクをおよそ3分の1に低下させられるという研究結果もあります。
早産などの場合、母親の体調がすぐれず母乳が出ないことも少なくないため、海外では母乳バンクが広がっていて、50以上の国や地域のおよそ750施設で運用されています。
一方、国内では、小児科医で昭和大学医学部の水野克己教授が、平成26年に昭和大学江東豊洲病院に初めて「母乳バンク」を開設しました。
その後、水野さんは活動を広げるため、「日本母乳バンク協会」を設立。
しかし、昭和大学江東豊洲病院の母乳バンクは新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、去年3月に閉鎖されました。
現在、国内で稼働しているのは、いずれも東京・中央区にあります。
おととし、ベビー用品大手の「ピジョン」に開設された「日本橋母乳バンク」
ことし4月に日本財団の助成を受けて開設された「日本財団母乳バンク」の2か所です。
いずれも都内にあるため、母乳バンクの課題のひとつとして、災害時などに提供が難しくなるリスクが指摘されていました。
こうしたなか、「母乳バンク」の国内で3か所目となる施設が来年度、愛知県豊明市の藤田医科大学病院に開設されることが決まりました。
東京以外での設置は初めてで、施設が分散することで災害時のリスクを減らすことにつながると期待されています。
設立の主体は日本母乳バンク協会で、クラウドファンディングで開設に向けた資金を集めるなど準備を進めてきました。
運営には「日本財団母乳バンク」が協力し、ドナーから集めた母乳を低温殺菌処理して新たな母乳バンクに送ります。
そして、ドナーミルクを2台の冷凍庫で保管し、通常時は東海地方、災害などで都内の母乳バンクが稼働できない緊急時には、全国にドナーミルクを送る役割を担う予定です。
藤田医科大学医学部 宮田昌史准教授
「第三の拠点として、災害時にもドナーミルクを提供できるよう協力したい」
新たに母乳バンクが開設される予定の藤田医科大学病院では、おととし7月からドナーミルクの提供を受け、年間40人ほどの赤ちゃんが利用しています。
11月17日の「世界早産児デー」にあわせて、この病院で開かれた交流会にはドナーミルクの利用経験がある母親たちが参加。
精神的にもドナーミルクに助けられたという声が聞かれました。
「小さく生まれた子どもには母乳がよい」と言われると、「出さなきゃ」と思い詰めるかも知れませんが、母乳が足りない時にはドナーミルクを利用できると聞いて、精神的に楽になりました。
また、出産直後にドナーミルクを利用して助けられた経験から、母乳が出るようになってからはドナーとして登録し、母乳を提供している女性もいました。
母乳が出ずに困った時は少しでもドナーミルクを使ってもらい、小さな命をつないでほしい。
国内でも少しずつ広がりを見せる母乳バンク。
日本母乳バンク協会によりますと、昨年度は全国で360人の赤ちゃんにドナーミルクが提供され、利用者は年々増えています。
一方、国内では低体重で生まれた赤ちゃんのうち、年間およそ5000人にドナーミルクが必要だという専門家の試算もあります。
こうしたデータから、ドナーミルクの供給体制がまだ十分ではなく、ドナーミルクが必要な赤ちゃんにまだ十分届いていない可能性が浮かび上がってきます。
協会などによりますと、ドナー登録できる施設は11月末現在で、全国で26施設。さらに、ドナーミルクの提供は医療機関からの要請に基づいて行われますが、11月末現在でドナーミルクの利用契約をしている医療機関は全国で66施設にとどまっています。
協会は、母乳バンクの知名度が低くまだ十分に浸透していないことから、ドナー登録や医療機関からの要請が限られているとみています。
水野教授らは学会などを通じて、協力してくれる医療機関を増やそうと活動しているほか、ベビー用品大手「ピジョン」もドナーミルクの利点や利用者の体験談を載せた冊子を作って医療機関に配布して周知活動に取り組んでいます。
国内でも母乳バンクがさらに広がり、多くの赤ちゃんとその家族にドナーミルクという選択肢が増えることを期待したいと思います。