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東京 東大和 旧軍需工場変電所~“戦争の狂気”と平和の尊さ訴える男性の思い

  • 2022年10月19日

東京・東大和市の都立公園に保存されているコンクリートの建物。かつて軍需工場の変電所として使用され、壁に残された無数の銃弾の痕が空襲のすさまじさを今に伝えています。空襲の状況を、体験者の証言や米軍の記録から調べている男性を取材すると、「戦争の狂気」が浮かびあがりました。
(首都圏局/記者 中西大)

「西の原爆ドーム」「東の変電所」

東大和市内の公園の片隅に建つ「旧日立航空機株式会社変電所」です。

壁には、戦時中に受けた空襲のすさまじさを物語る無数の銃弾痕があり、「西の原爆ドーム」「東の変電所」とも言われています。

巨大な軍需工場として

この旧変電所を含めた一帯には、かつて軍需工場があり、航空機のエンジンを生産していました。

終戦の前年、昭和19年には1万3000人以上が働く、エンジン生産の拠点とされていました。

終戦の年、工場は3回にわたり空襲を受けます。3回目の空襲ではB29爆撃機によって1800発余りが放たれ、最終的に工場の8割が壊滅。従業員ら100人以上が犠牲になりました。

空襲によってもたらされた事実を伝えるため、旧変電所の中には、関連の資料が展示されています。

ガイドを務める楢崎茂彌さん(74)。東大和市に隣接する立川市内の高校で日本史を教えていた楢崎さんは、校舎が建つ敷地も、かつて米軍基地として使われていたことなどから、地域の戦争の歴史を本格的に調べ始めました。

楢崎茂彌さん
「僕もこの地域が空襲を受けて爆弾が落とされたことは知っていたけど、調べないと単なる知識で終わってしまう。調べてみるとそれを体験した人がいて、家族を亡くした方もいる。そうした体験をした人たちが次々と亡くなっていて、『今じゃないとできないんじゃないか』という気持ちが強く働いた」

「NO DAMAGE」の空襲

楢崎さんが工場の空襲を調べる中で、特に関心を寄せた米軍の記録があります。

3回の激しい空襲のうち、4月19日の2回目の空襲だけ「NO DAMAGE」。工場に被害を与えなかったと記されているのです。しかしその一方、「THREE KILLED」。3人を殺害したと書かれていました。
この空襲はいったい何だったのか。
当時を知る男性が、この日、旧変電所を訪れました。

軍需工場で働いていた宮下貞美さん(92)。
楢崎さんは、当時の状況について宮下さんに尋ねました。

宮下貞美さん
「米軍機が頭上を回っているのが見えた。正門に行ったらトラックがあったので、俺は一番最後に乗った。逃げたんですよね。トラックが止まったから転げ落ちて土管に入ってそれで俺は助かった」

命からがら、必死だったという宮下さん。ただ、その空襲は、わずかな時間であったと記憶しています。

「米軍機は向こうから来てダーッて行っちゃった。工場の攻撃目的でやってきたのではないのではないか」

こうした証言や米軍の記録から、楢崎さんは、この日の空襲が特殊なものだったのではないかと考えています。

楢崎茂彌さん
「この日のミッションは神奈川県の厚木海軍飛行場を攻撃するということで飛び立ったが、一部の部隊が多摩川上空に出たので、もともとの場所と違うということで目につくものを撃った。『ついでにやった』という空襲だと。そして、宮下さんたちが攻撃されるということが起きた」

旧変電所では空襲の犠牲者を追悼しています。宮下さんも狙われた2回目の空襲では、その後の調査で、少なくとも5人が命を失い、この中には、社員の家族もいたと見られています。

「3歳の子が寮の陰に隠れているときに撃たれたという記録がされています。それで3歳の子は頭を打ち抜かれてというふうに書いてあります。推測すると3歳の子をお母さんがおんぶして逃げて撃たれたというふうなことを思うと、とてもやりきれない」

楢崎さんは旧変電所を訪れた人たちに、体験者の証言など、空襲のことを伝え続けています。

「そこで彼(宮下さん)も飛び降りて、下へ逃げて土管の中に隠れてなんとか一命をとりとめた。工場がひどくやられたことよりも、むしろ人を狙って『バババババ!』と撃った。そう考えていただくと本当に非人道的」

来場者

コンクリートの厚い壁を打ち抜く弾丸で人間を撃つという、なんてひどいことなのだろうと思う。

「戦争の狂気」を伝える

楢崎さんは、空襲体験者の証言を映像に残す取り組みにも力を注いでいます。これまでにインタビューを撮影した体験者は80人以上。証言を通じて「戦争の狂気」を知ってもらいたいと、楢崎さんは考えています。

楢崎茂彌さん
「戦闘そのものではなく、戦争によって人が異常になってしまうことがあるんじゃないかと、すごく感じる。当時の状況を具体的に残しておくことは、見る人にリアリティーをもってもらうことにつながる。大事なことだと思う」

戦争の悲惨さを伝える旧変電所。
楢崎さんは今後も活動を通して、平和の尊さを訴え続けることにしています。旧変電所は、毎週日曜と水曜の午前10時半から午後4時まで公開されています。 

  • 中西 大

    首都圏局 記者

    中西 大

    2003年入局。北海道や北陸などで勤務。首都圏局は5年前に続き2回目の勤務。

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