戦後迎えた高度経済成長期。人々の暮らしに豊かさが生まれ、鉄道に「乗る」楽しみが生まれた時代でした。その時代の華ともいえるのが、横浜名物の崎陽軒「シウマイ」を駅のホームで販売する「シウマイ娘」です。60年以上前、「シウマイ娘」として活躍した河鰭(かわはた)トミ子さん(82歳)は、当時を振り返り、人生を変えた時間だったといいます。
日本の鉄道の誕生から150年。「あなたにとっての鉄道とは?」をテーマに、人の営みや心のなかにある鉄道への思いをたどります。
(首都圏局/ディレクター 寺越陽子)
戦後、1950年代後半から迎えた高度経済成長の時代。その成長の原動力のひとつにもなったのが、休むことなく働いていた鉄道でした。
戦時中は中断していた、特急や寝台といった列車が次々と復活しはじめます。人々の暮らしにも余裕が生じるようになると、鉄道は移動手段としてだけでなく、レジャーとしての側面が高まりを見せ、旅行需要が拡大していきます。サラリーマンの出張や慰安旅行、新婚旅行、若者の一人旅、女性の旅行など、鉄道の旅のスタイルも多様化していきました。
鉄道に「乗る」楽しみが生まれたこのころ。横浜駅に登場し、時代の「華」と言われたのが、「シウマイ娘」です。
「シウマイ娘」とは、主に横浜駅のホームで、名物「シウマイ」を手売りする販売員のこと。「戦後の横浜を明るくしよう」という崎陽軒の社長のアイデアから、1950年に登場しました。
赤い制服に、肩には「シウマイ娘」のタスキをかけ、手かごを持った女性たちが、駅のホームで「シウマイはいかがですか」と、売り歩きます。鉄道の窓から客に直接売るため、採用条件には当時としては長身の身長158cm以上という制限がありましたが、応募は殺到。新聞小説の主人公や映画のモデルになるほどの人気となり、当時の憧れの存在でした。
かつてシウマイ娘をしていたという女性に出会いました。
横浜市に住む河鰭(かわはた)トミ子さん(82歳)です。
河鰭さんがシウマイ娘になったのは1958年のことです。
高校を卒業した河鰭さんは崎陽軒に入社。最初はシューマイを包装する部署に所属して働いていましたが、人手が足りなくなったシウマイ娘の募集が社内であり、河鰭さんが抜擢されたのです。
河鰭トミ子さん
「『シウマイ娘』はユニフォームがあったんです。見た目がちょっと華やかっていうのもおかしいですけれども、目立ちましたよ。冬の寒い時なんてね、もうちょっと上に服を着たいんだけど着ないで我慢したりなんてね。お客さんに『あなたたちそんな格好で寒くないの?』なんていうことを言われたりしたこともありました。最初のころは、人前でものを売る仕事をすることの恥ずかしさもありましたよね。それと、商品をたくさん入れたかごを持って売るんですけど、重いんですよ、結構。それで腕が強くなったんだと思いますよ(笑)。とにかく、いろいろと初めてのことばかりですから、それを乗り越えてできればいいかなっていう、そういう感じでしたね。」
ある時には、手かごの中に1箱15個入りを40箱も入れて販売を行いました。コンクリートの駅のホームに立ちっぱなしの仕事は、特に、冬になると寒さがこたえ大変だったといいます。
人々の暮らしが豊かになり、鉄道が大衆化した時代。ビジネスや観光客が増え、シューマイは飛ぶように売れました。河鰭さんひとりで300箱を売り上げたこともあったといいます。
シウマイ娘の給料は歩合制で、売り上げが良ければお給料も上がり、仕事にやりがいを感じていました。人々でごった返す横浜駅で目まぐるしく働く日々のなか、河鰭さんには忘れられない出来事があるといいます。
河鰭トミ子さん
「ある日、お客さんから代金を受け取りそこねたことがあったんです。『ああ、これはもうわたしの失敗だわ』と思ってがっかりして落ち込んでいたら、翌日になって横浜駅の車掌さんが、そのお客さんから預かったからと、代金100円を渡してくれたんです。そのころはコーヒー1杯50円ほどの時代だったかな。そのまま払わないこともできたのに、お金より人のやさしさを感じて涙が出るほどうれしかったですね」
1950年代当時の横浜駅には、知らない人同士でも冗談や世間話を交わせるような、ゆったりとした空気が流れていたといいます。
「あのころの横浜駅はのんびりしていて、ちょっとしたことでもちょっと声をかけあったり、とても親密っていう感じがしました。いまは皆さん忙しすぎて、そういうことはほとんどないと思うんですよね。でも、駅という場所そのものには、やっぱりそういう人と人との交流する場所になってほしいなとわたしは思います」
そして、河鰭さんがシウマイ娘をしているとき、人生の伴侶と出会います。
当時、横浜駅で国鉄マンとして改札係をしていた河鰭潤一さんです。いつも飛ぶように売れる商品を追加するために、手かご一杯にシューマイを持って一日に何度も改札を往復するトミ子さんのひたむきな姿を、潤一さんが見初めたのが二人の出会いでした。
河鰭トミ子さん
「当時は今みたいな自動改札じゃないですからね。切符をはさみでパチン、パチンって切りますから、改札には必ず駅員がいたんです。その時、横浜駅の改札には夫がいて、わたしがそこを何度も通るうちに顔見知りになって、そのうちおしゃべりしたりして知り合ったんです。
夫は本当に国鉄を背負って立っているような人でした。鉄道旅行が好きで、いつも自分で時刻表を見て全部計画を立ててくれて、おかげさまで日本全国歩きました。それが一番わたしの宝ですね」
13年前に潤一さんが他界。いまも、河鰭さんは毎月のように横浜駅にシューマイを買いに出かけるといいます。懐かしいその香りを感じると、横浜を彩った「シウマイ娘」の時代や、最愛の伴侶と過ごした時間が蘇るからです。
河鰭トミ子さん
「わたしにとっては『シウマイ娘』をやったことがきっかけで、そこから人生が始まったっていう、改めてそういう感じはしています。生涯の伴侶にも出会いましたしね。あの時があったから今があるんだっていう、そういう気持ちが多々あります」