白血病と闘い、16歳という若さで亡くなった高校生が主人公となった短編映画「DONOR(ドナー)」が、いまSNS上で話題になっています。
映画には、骨髄移植にいちるの望みをかけたものの、提供者=ドナーが見つからず、病に打ち勝つことができなかった少女の思いが描かれています。
新型コロナウイルスの取材で出会った医療関係者などから、この映画のモデルが宇都宮市の少女だと聞いたことをきっかけに、私は取材を始めました。
(宇都宮放送局/記者 平間一彰)
映画「DONOR(ドナー)」より
映画のタイトルは「DONOR(ドナー)」。骨髄移植の提供者という意味です。
骨髄移植が普及することで、救える命が増えてほしいという少女の思いが描かれています。
映画は、実話にもとづいたもので、亡くなった少女が通っていた高校の関係者が制作しました。俳優らが演じるおよそ30分の映画です。
制作資金はクラウドファンディングで集め、ことし4月にネット上で公開しました。
映画のモデルは、宇都宮市内に住んでいた少女だと聞き、自宅を訪ねました。おととし4月に亡くなった宇都宮市の小山田優生(ゆい)さん。
自宅の仏壇には、友達に囲まれた優生さんの写真が、所狭しと飾ってありました。
家族によると、おしゃれすることが大好きで、ヘアーメークアップアーティストになるのが夢だったといいます。
優生さんは、夢をかなえるため、ファッションを学ぶことができる東京の高校を受験。
白血病を発症したのは、高校の合格通知を受け取った中学3年の夏のことでした。自宅近くで突然倒れ、病気がわかったのです。
入学式(右から2番目が優生さん)
その後、入院して白血病の治療を続けていた優生さんは、3年前の4月、一時退院して高校の入学式に出席しました。
真新しい制服を着て、めいっぱいのおしゃれをして、友人と記念の写真や動画を撮りました。高校生活への期待で胸いっぱいでした。
しかし、この入学式が優生さんにとって最初で最後の登校となりました。
抗がん剤治療を受ける優生さん
病院に戻った優生さんを待っていたのは、厳しい抗がん剤治療です。
毎回、激しい吐き気などに襲われ、ベッドの上では、苦しんだり、涙を見せたりすることもありました。
そんな中でも、病室で付き添っている家族には「もう帰って大丈夫だよ」と優しい気遣いを見せることもあったといいます。
医師と優生さん
白血病は、8割の患者が抗がん剤治療で治るとされています。
しかし、残る2割は、抗がん剤が効きません。優生さんも、抗がん剤で病気の進行を食い止められませんでした。
そこで、医師から提案を受けたのが「骨髄移植」。
新しい血を作り出す細胞をほかの人から移植するというものです。
2人の兄
「最後のとりで」ともいえる骨髄移植。2人の兄は、白血球の型が合うかどうか検査を受けました。適合の可能性は、兄弟がもっとも高いからです。
ところが、2人とも適合しませんでした。
最後の望みは、血縁関係のない一般の人からの移植です。ただ、適合率は、数百人から数万人に1人の確率といわれています。
父親 小山田義憲さん
「わらにもすがるような気持ちでした。そこに望みをかけるしかないという気持ちが強かったです」
入学式から2か月後の令和元年6月。父親は医師に呼ばれました。
そこで告げられたのは、「ドナーが見つからなければ余命2か月」。
医師からは、優生さん本人にも伝えたほうがよいと言われました。
父親 小山田義憲さん
「なんでこんなことを本人に伝えなきゃいけないのかと思いました。移植に耐えられる体力が残っているうちに、なんとかドナーが見つかってもらいたいという思いでした」
父親の義憲さんが優生さんに余命宣告を伝えるのに、1か月の時間がかかりました。
厳しい現実を告げられた優生さん。
しかし、涙ひとつ見せなかったといいます。
父親 小山田義憲さん
「やりたいことたくさんあるし、こんなところで死んでいられないっていうすごく強い意志を感じました」
何度も見舞いに訪れた友人の村田帆琉(ほたる)さんです。
優生さんは、友人にも弱音を吐くことはありませんでした。
ドナーが見つかることを信じ、また制服でおしゃれをして、学校に通える日を楽しみにしていたといいます。
友人 村田帆琉さん
「『余命宣告なんて関係ない、その日を越えてやる』みたいなことを言っていました。つらいとかも言っていませんでした」
その年の12月。ドナーが見つからない優生さんは、死を意識し始めました。
兄の誕生日に投稿したSNS
兄の誕生日に投稿したSNSには「余命宣告されてバリバリ6か月?生きてますけども!」と書かれ、気丈な様子が伝わってきます。
その一方で、「やりたいって思ったことはすぐに実行することおすすめよ!時間無駄にしないでね」とも書かれていました。
この直後、一時退院した優生さんは、久しぶりに大好きなスケートボードに乗りました。兄からプレゼントされたスケートボードです。
優生さんは、ウイッグにキャップをかぶり、短パン姿でした。転んでけがをしてしまったら、出血が止まらず命取りになりかねません。それでも、自分らしさを失いたくないと思ったからです。
父親 小山田義憲さん
「もしかしたらこれがスケボーに乗るのも最後になるかもしれないと思いました。後悔するのは嫌だという気持ちが伝わってきたので、一緒に見届けました」
その後、再び入院生活となった優生さん。
翌年3月には父親に「家で過ごしたい」と伝えました。そのとき優生さんは「ここに住みたい」と、携帯電話で調べたアパートの物件を父親に見せたといいます。
リビングにつながる部屋があり、ベッドで寝ていても家族の顔が見えるからです。優生さんは、家族と過ごす最後の時間を大切にしたいと考えていました。
優生さんは医師や看護師20人ほどが見送るなか、病院をあとにしました。
家族といっしょに新居に移った優生さんを待っていたのは、回復を願う友人たちでした。
2階の優生さんの部屋から見える駐車場には、友人4人が集まって横断幕を掲げていました。
そこには「大好きな家族と家でゆっくりと過ごしてね」の文字。
優生さんはベッドの上から友人たちに手を振り、笑顔を見せていました。
自宅に戻って5日後。優生さんの呼吸は、徐々に弱くなっていきました。
兄は、枕元で優生さんの頭をなでながら、「吸って、吐いて」と繰り返し呼びかけました。
優生さんは、この数時間後、家族に見守られながら息を引き取りました。
父親の義憲さんは「何もできなかった無力さを感じる。ほかの誰にも同じような思いをしてほしくない」「ドナーが見つかっていれば…」と悔やむ様子で話していました。
ドナーが見つかったとしても、骨髄移植はとても過酷な治療です。移植する細胞を体が受け入れられるよう、大量の抗がん剤の投与で、みずからの細胞の働きを抑え込む必要があるためです。
しかし、骨髄移植は、命をつなぐ最後の望みの綱でもあります。
ただ、ここ数年、登録者数は若者を中心に減少傾向。コロナ禍で、大学での骨髄移植の説明会などが開催できないことも影響しています。
今回の取材を通じ、私たちがドナー登録することで、救える命があることを強く感じました。
もし、ドナー登録のハードルが高いと感じれば、患者のウイッグを作るために髪の毛を提供するヘアドネーションなどもあります。ひとりでも多くの人が、幼い命や若い命に寄り添える社会になってほしいと感じました。