「このままずっとひとりなのかな。生きている意味が無くなったように感じていました」
9歳から30年近く続いた家族の介護が終わったあと、彼は、生きる意味を見失ったといいます。
それでも、彼はいま、失った時間、できなかった経験、味わったことのない楽しい思い出を、少しずつ取り戻そうとしています。
(NHKスペシャル「ヤングケアラー SOSなき若者の叫び」取材班/記者 大西咲)
9歳から続いた介護が終わった時、彼は38歳になっていました。
彼の名前はカズヤさん(仮名)といいます。今は43歳です。
心臓が悪く体調を崩しがちだった母親に代わり、小学3年生から高齢の祖母の介護と母親の世話をしていました。
カズヤさんは、母親と祖母の世話や介護に時間を割くため進学先に定時制を選びました。友だちと遊びたくても、寝たいときに寝たくても我慢しました。高校卒業後に始めた本屋のアルバイトも、母親が寝たきりになったので、辞めざるを得ませんでした。
アルバイトは「唯一の、外とのつながり」。大好きな本に触れることができる大切な時間でした。だから、本当は辞めたくありませんでした。でも、大好きな母親のため、その思いを表には出しませんでした。
その介護も、5年前の3月に終わりました。67歳で母親が亡くなったからです。
それでも、「開放感」はありませんでした。カズヤさんにとって、母親がすべてだったからです。少しでも元気になってほしい。その思いで、1日1日を乗り切ってきました。
その母親が亡くなった。自分の「使命」を失った。母親の命と同じ重さの「何か」が、自分の中からすっぽり抜け落ちた。そんな感じがしました。
生きていることへの罪悪感もありました。母親が死んだのに、自分だけ生きていくのは卑怯。自分はいなくなった方がいいんじゃないかと思うこともありました。
それに、気付くと自分には何も残されていないような感じがしました。友だちも、彼女もいない。仕事も家庭も、社会との「つながり」もありませんでした。
幼い頃から介護をする中、料理の手間を減らそうと、母親と同じものを食べてきたカズヤさん。寝たきりになった母親が、パンや野菜ジュースなどをミキサーにかけてペースト状にした「ミキサー食」を食べるようになると、カズヤさんも「ミキサー食」を食べました。
しばらくすると、なぜだか「ミキサー食」以外のものが喉を通らなくなっていました。
「当たり前」の暮らしは、できなくなっていました。
そんなカズヤさんを待ち受けていたのは「孤独」でした。
介護をしていたとき、家には大好きな母親がいました。訪問看護師やヘルパーも家を訪れ、「人の顔」を見る機会もありました。
でも、母親が亡くなり介護が終わると、家にはカズヤさんひとり。訪ねてくる人もいなくなりました。
介護をしていたとき、夜中に目を覚ます母親に合わせて、夜何度も起きるのが当たり前でした。そのせいか、介護のない生活になっても、夜に眠くなりませんでした。
朝5時に寝て、昼12時くらいに起きる生活。外に出るのは、スーパーやコンビニで買い物をする時くらい。それ以外は、テレビを見たり、本を読んだりして時間を潰しました。
食事はしばらく1日1食、「ミキサー食」を食べました。生きる意味を見いだせず、食欲もわきませんでした。
なんで生き残ってしまったんだろう。何で自分だけこんななんだろう。ふとそんなことを考えると、寂しくて、誰かとつながりたくてしかたありませんでした。
ただ、そもそも「つながり」が、カズヤさんにはありませんでした。
誰にも会うことなく家に閉じこもる生活は2年ほど続きました。
ただ、そんなカズヤさんに転機が訪れます。
カズヤさんのことを気にかけていた近所の人を通じて、偶然にも、ヤングケアラーの当事者の会とつながることができたのです。
その会は「ふうせんの会」といいました。当時はまだ、存在すら社会にほとんど知られていなかった「ヤングケアラー」を支援するため、2019年に立ち上げられたばかりでした。
幼い頃から介護をしているのは自分だけ。そう思っていたカズヤさんは、ほかにも同じような経験をしている人たちがいることに驚くとともに、話を聞いてみたいと思いました。
2020年7月。カズヤさんは「ふうせんの会」の第1回目の集いに参加。
初めて耳にする、同じ経験をした人たちの声。自分は、ひとりじゃなかったんだ。カズヤさんがこれまで感じたことのない「人とのつながり」を感じた瞬間でした。
集いを重ねるうち、カズヤさんには「友だち」「仲間」と言えるような人たちができました。自分の家以外の「居場所」がある。カズヤさんは、自然と安心感を覚えるようになっていました。
そんな中、会ができてから1年半ほど過ぎたある時、「ふうせんの会」からある提案がありました。
希望する人たちで、東京旅行に行ってみないかというものでした。
「旅行」。それはカズヤさんにとって、特別な響きがありました。幼い頃から介護をしてきたカズヤさんは、修学旅行に行った経験がないからです。
ぼくの六年間は、低学年ではあまり思い出がなく、中学年はわりとふつうで、高学年はとにかくしんどかったです。これは並のつらさではなく、一日一日が長く、それまでなんとも思わなかったのに、「あれ、こんなはずとはちがう。こんなんなんかのまちがいやで」と、自分にもお母さんにも言っていました。でも、やっぱり、それは本当でした。ぼくはだんだん淋しい日が多くなり、孤独やなあと悩んだこともありました。(中略)できれば今年の運動会は出たかったなあと思いました。そして修学旅行。これはもっともっと行きたかったです。
小学6年生の卒業文集で、カズヤさんはこう書きました。
当時、祖母の介護をしていたカズヤさん。母親は「修学旅行に行ってもいいよ」と言ってくれました。でも、自分がいない間、祖母の介護は誰がするんだろう。そう思うと「行きたい」と口に出すことはできませんでした。
修学旅行当日の朝。同級生たちが修学旅行に向かうことを想像すると、置いていかれてしまったような気がして、涙がこぼれました。母親に見られて心配をかけないように、布団をかぶりました。
その後も、介護を長く続けたカズヤさんは、地元を離れて旅行に行くどころか、どこかに出かける、家族と外出する、乗り物に乗るという経験を全くしてきませんでした。
だから、東京旅行に参加することを決め、初めて新幹線の切符を受け取ったとき、それは「夢のチケット」のように見えました。
人生で初めての1泊2日の旅行。3日前には髪を切りました。前日は興奮して眠れませんでした。
「夢のチケット」を手に乗った新幹線。見たこともないほど速く流れる車窓から見える景色を見て、思わずカメラで撮影していました。
初日に上った東京タワー。展望台に立つと、目の前には東京の街が広がっていました。数え切れないほどの高層ビル。小さく見える行き交う人々。
これまでの自分は家の中だけが「世界のすべて」だった。母親のこと、自分のことだけしか考えられなかった。でも、ほかにもいろんな人たちの「暮らし」がある。そんな当たり前のことも知らなかった。その景色に圧倒されながら、カズヤさんは心の中で思いました。
その後も、浅草、スカイツリー、神保町の古本屋。行きたいところは目いっぱい見て回りました。
そして、何よりもうれしかったのは、会話ができ、笑い合える友だちが一緒にいることでした。
小学6年生の時、修学旅行から帰ってきた同級生たちが思い出話をしている様子を見ないよう、机に伏せて寝たふりをしました。同級生たちが修学旅行の写真を選んでいるとき、その写真に自分の姿はありませんでした。「自分にはお母さんとおばあちゃんがいるんだ」。そう言い聞かせました。
でも、今は違う。新幹線の中でも、都内を観光しているときも、そして、旅行を終えて地元に帰っても、同じ話題を共有して、思い出を語り合える友だちがいる。
これまでは自分の中に、楽しい思い出を探そうとしても見つからなかった。でも、これからは作っていける。カズヤさんは、そう思うと、前を向いて進んでいけるような気持ちになりました。
旅行を終えた後日、カズヤさんは部屋の掃除をしたり、模様替えをしたりしたと話していました。旅行を機に、これまで気にすることもなかった、身の回りのことにも関心が向くようになったそうです。
またカズヤさんは今、「ふうせんの会」の運営スタッフとして活動に関わっています。今回の旅行で、カズヤさんは、今もどこかで家族の介護をしている子どもたちへの思いを新たにしたといいます。
「こんなに旅行が楽しいものだったなら、子どもの時にその経験を諦めないで済むように、手伝っていきたいと思っています」
東京では、同い年くらいの人が家族とともに子どもを連れて歩く姿を見て「これが幸せの形なのかな」と、少しだけうらやましくも思ったというカズヤさん。
それでも、友だちや仲間を通して知った、人の優しさ、かけがえのない人とのつながり、誰かのことを気遣う尊さを、自分も誰かに返したい。そう、強く思っています。
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カズヤさんについては、5月8日午後9時から放送予定の
NHKスペシャル「ヤングケアラー SOSなき若者の叫び」でも放送されます。
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