ことし、沖縄は本土復帰50年を迎えます。沖縄からの移住者が多い横浜市鶴見区では、沖縄の伝統舞踊エイサーが、長年、踊り継がれてきました。沖縄から遠く離れた横浜で、伝統の踊りを受け継ぐ人たちの姿を取材しました。
(横浜放送局/カメラマン 鈴木雅之)
「エイサー祭り」
3月、横浜市鶴見区で「エイサー祭り」が行われました。ことし本土復帰から50年となるのを祝おうと、会場には関東各地からエイサーを踊る17の団体のおよそ300人が集まりました。
エイサーを通じて、自らのルーツがある沖縄と向き合い始めた少女がいます。
新崎青空(そら)さん12歳です。
新崎青空さん
「沖縄の復帰50年だから、みんなが元気になれるように踊りたい。ちむどんどん(=胸が高鳴ること)するように」
祭りが開かれた横浜市鶴見区には、工業地帯での仕事を求め、戦前から多くの沖縄の人たちが移り住んでいます。
青空さんはこの街で沖縄出身の父と、沖縄にルーツがある母のもと生まれて育ちました。青空さんがエイサーと出会ったのは6年前。毎年行われている商店街のイベントでした。エイサーの練り歩きを意味する“道ジュネー”を初めて見た青空さんは「かっこいいな、自分も踊りたいな」と思ったと言います。
エイサーやりたいと言われたときは、うれしかった
エイサーの動きやリズムに魅了された青空さんでしたが、実は、最初は、沖縄の歴史や文化にあまり関心がなかったといいます。沖縄にはほとんど行ったこともなくよく分からなかったのです。
青空さんは、家族で鶴見のチームに参加して、エイサーの練習を重ねました。所属する「鶴見エイサー潮風(うすかじ)」のメンバーは、10歳から68歳までのおよそ30人。沖縄出身者もいれば、そうでない人もいます。エイサーは祖先に感謝する踊り。青空さんも、沖縄独特のリズムを体に刻み込んでいきました。
さらに、祭りを前にした3月13日、青空さんたちは、沖縄から鶴見区に移住してきた男性からエイサーと、自分たちが暮らす町の歴史の関わりについて話を聞きました。
35年前に沖縄から移住した男性
「鶴見には、沖縄から多くの人が、仕事を求めてやって来た。一生懸命仕事をして、沖縄が懐かしいからエイサーをやろうとなった。君たちも、ここにいても、沖縄の風をうけてエイサーを発展させてほしい」
エイサーに込められたふるさとへの思いを知り、青空さんの意識も少しずつ変化が…。
「これまでは、ただ踊っていただけだったけどこれからは見ている人の気持ちも考えて踊りたい」と考えるようになったのです。
鶴見エイサー潮風の演目
祭り当日、青空さんは、沖縄への思いを胸に踊りました。演目の最後は、貿易船の到着を祝う曲。そこには、地域や出身を超えて、エイサーで喜びを分かち合う人々の姿がありました。
新崎青空さん
「拍手をしてくれてうれしかった。のってくれたからうれしかった。これからも、ここ鶴見でエイサーを踊って、沖縄の文化を広めていきたいです」
エイサーを間近に撮影する中で、大太鼓の重低音と、青空さんがたたく締太鼓の軽やかな響き、ぴったり息のあった勇壮な踊りを実感し、私も”ちむどんどん”を(=胸が高鳴ること)体験することができました。「これからも、エイサーを踊り続けたい」と話す青空さんは、エイサーに欠かせない三線(さんしん)を、週に2日、習っているそうです。そして、将来、エイサーの地方(じかた=三線を弾きながら民謡を歌うこと)にも挑戦したいと話してくれました。横浜市鶴見区で毎年8月に行われている伝統の祭り「道ジュネー」(=エイサーを踊りながら練り歩くこと)は、おととし以降、新型コロナウイルスの影響で、開催できない状況が続いているといいます。沖縄から遠く離れた横浜の鶴見区で、先人たちの思いを受け継ぎ、広めていこうと奮闘する青空さんたちの思いが、これからも絶やされることなく続くことを願っています。