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オーストラリア人監督が撮る東京大空襲 “空襲の記憶を記録する”

  • 2022年3月11日

昭和20年3月10日の未明、アメリカ軍のB29、300機以上が東京の下町を中心に襲い、10万人もの人が命を落とすという世界的にみても類を見ない甚大な被害があった東京大空襲からことしで77年です。
継承が年々難しくなるなか、東京大空襲の体験者の証言や活動を中心に描いたドキュメンタリー映画「Paper City」が製作されました。製作したのは、オーストラリア人の映画監督、エイドリアン・フランシスさんです。
「戦争がどんなものか知るために語り継ぎたい」
そう語るフランシスさんの思いを知りたいと思いました。
(首都圏局/記者 古本湖美)

映画を作るきっかけとなった「なぜ?」の思い

2年前の2020年3月10日。大空襲から75年となった日に、私は墨田区の横網町公園にある東京都慰霊堂を訪れていました。
参拝に来る人々のなかに、スーツ姿の外国人男性の姿が目に入りました。「外国の方がなぜ?」とインタビューを申し込むと丁寧な日本語で応じ「今、空襲についての映画を作っているんです」と教えてくれたのがエイドリアン・フランシスさんでした。

オーストラリア出身のフランシスさんはオーストラリアでドキュメンタリー制作を学んだあと、2008年に来日。映画監督のかたわら英語教師をして生活しています。
東京大空襲を初めて知ったのは、およそ10年前。アメリカのドキュメンタリー映画「THE FOG OF WAR」(マクマナラ元米国防長官の告白)を見たことでした。

エイドリアン・フランシスさん
「一晩で住民が10万人も亡くなったことを初めて知って、ものすごく驚きました。だけど、周りの友だちや知り合いに話しても、詳しく知っている人が本当に少ないと気づきました。広島の原爆ドームのような施設も残っていないことや、これだけ大きな被害があっても、今、この街、東京という街の人々のアイデンティティーにあまり残っていないことがすごく不思議でした。東京に痕跡があまりないということに対して、まず最初に『なぜか?』と思い、それを知りたかった。これがこの映画を作るきっかけです」

語り部だった清岡美知子さんとの出会い

映画を作るにあたってフランシスさんが最初に始めたことが、体験者に話を聞くことでした。
東京大空襲の遺族会の事務所を訪ねたり、空襲に関連するさまざまな集会に顔を出したりして15人ほどの体験者から話を聞いてきました。

その中で出会った1人が清岡美知子さんでした。清岡さんは21歳のときに空襲に遭い、必死の思いで隅田川にかかる言問橋に逃げ、一命を取り留めました。

火の海となった町から川に逃げてくる人たちが燃える光景を目の当たりにした清岡さんは、その惨状を語り部として多くの人たちに語り続けてきました。

「下町は火の海になりました。言問橋が全部焼けていました。炎のアーチです。最も印象に残っているのは死人の焼けた臭い。川では人の頭がどんどん流れてくる。朝になったら死体がごろごろ、真っ黒焦げやら半焼けやら。あたりはすっかり焼けて。あんな恐ろしいこと人生で2度とあってはなりません」

清岡さんは、語り部の活動とともに空襲被害者に対して国に補償を求める活動も進めてきました。日本では戦後、国と雇用関係にあった軍人や軍属には補償が行われたにも関わらず、空襲の被害にあった人や地上戦に巻き込まれた人には補償が行われていないためです。映画では、国を訴えた訴訟などの取り組みにも密着しています。

フランシスさん
「清岡さんたちに初めて出会ったとき、東京大空襲の体験者が日本政府に忘れられたと感じました。30~40年前からいろんな活動をしているのに、政府からは何の返事もない。だから、僕ができればこの人たちのストーリーを撮って、残して、いろんな国に広げたい。語り継ぎたいと思ったんです」

証言で浮かび上がる「街に眠った空襲の記憶」

生々しい証言とともに体験者のなかで“終わっていない戦争”を追いかけてきたフランシスさん。映画では空襲体験者の証言を現場で記録することにこだわったといいます。

墨田区の錦糸公園。空襲体験者の星野弘さんはベンチに座り、子どもたちが遊具で遊ぶ様子を横目に、フランシスさんに「このあたりは全部遺体だった」と空襲当時のことを語ります。錦糸公園は、空襲後に多くの遺体が集められ、仮埋葬された場所で、当時14歳の星野さんは川から遺体を引き上げる作業を手伝い、公園で山積みとなった遺体を目撃したのです。
フランシスさんは現場で証言してもらうことによって、77年がたった東京の街に眠った空襲の記憶が目の前に浮かび上がるように感じたといいます。

フランシスさん
「この街で空襲が起きて、大きな被害があったというのは説明されても本当に想像するのは難しい。でも、戦争を体験したことある方々にそういう話を聞かなければならないと思います。僕みたいに体験したことない人が、戦争の話を受け入れることに意味はあると思います。戦争がどんなものかを知るために」

体験者が亡くなるなかで

丁寧な証言の記録、そして編集期間を経て、構想から7年後に『Paper City』は完成しました。
しかし、この間、映画で証言をした清岡さんや星野さんは完成を待たずに亡くなり映画を見ることはかないませんでした。フランシスさんは、生前の清岡さんから「この映画を世界に広めてほしい」と言われていたといいます。

ウクライナへの軍事侵攻について思うこと

今、ロシアがウクライナへの軍事侵攻を進めるなか、フランシスさんは体験者の話を思い出すといいます。

フランシスさん
「証言をしてくれた体験者の男性が『子どものころ、戦争はほかの国でやっていて東京には来るわけないと思っていた』と言っていました。ウクライナの友人も『ロシアが戦争を始めることは今まで信じていなかった、想像できなかった、本当に戦争になるとは思わなかった』と話しています。日本で戦争が終わって77年平和な時期が続いているので、戦争になることは考えにくいかもしれません。でも、戦争の歴史を知らなかったら、またそういうふうになってしまうおそれはあると思います

そのうえで今のウクライナの現状について、こう案じました。

フランシスさん
「ウクライナの子どもたちが年をとったら、この戦争のトラウマがずっと残っていくと思います。『Paper City』の3人の体験者と同じように、高齢になっても戦争被害のトラウマが最後までずっと残っていますから…」

「Paper City」というタイトルは、木造の建物が多い東京が紙のように燃えてしまったこと、空襲にあった人たちの生死が「紙一重」であったことなどの意味が込められています。映画の本格的な公開はまだ決まっていませんが、フランシスさんは海外の人にも見てもらえるようにするため準備を進めたいとしています。

取材後記

日本に生まれ育っていないフランシスさんが、ここまで東京大空襲の体験者に寄り添って、丁寧に話を聞いて映画で伝えようとする姿を見て、戦争や空襲の被害を「伝える」ことの大切さに改めて気づかされました。
今も世界で戦争が起きている中、体験者が経験したことを、これ以上繰り返さないようにするためには、多くの人が事実に向き合い、過去を知ること、そして後世に伝えていくことが改めて大事だと思います。

  •  古本 湖美

    首都圏局 記者

    古本 湖美

    2011年入局。岡山局、大分局でも戦争の取材を行う。現在、首都圏局都庁クラブに所属。

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