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シベリア抑留 “最後”の帰国 孫が記録からたどる祖父の11年間

  • 2022年1月12日

戦後、元日本兵や民間人57万人余りが当時のソ連などに留め置かれた「シベリア抑留」。ほとんどの人が5年以内に帰国する中で、11年間の長期にわたって抑留された人たちがいました。
「全く話さないまま亡くなってしまったので、なぜ11年も抑留されたのかよく分からないんです」
こう話すのは都内に住む小畑真理子さんです。
最長の11年抑留された祖父が帰国したのは、真理子さんが2歳だった65年前の1956年12月26日。なぜ抑留は11年にも及んだのか。見つかった祖父のアルバムや手紙に触れ、11年の間に何があったのか、たどりたいと思うようになりました。       (首都圏局/記者 山内拓磨)

見つかった祖父の記録

都内に住む小畑真理子さん(67)は、数年前のある日、自宅を整理していたとき大量のアルバムや手紙を見つけました。

とじられていたのは、モノクロの写真。軍服を着た祖父が世界各地で撮影したものでした。そのかたわらには祖父の字で当時の出来事がびっしりと書き込まれていました。

小畑真理子さん
「これまで本人も語らず、私自身も仕事で忙しかったこともあって祖父の人生について振り返ることもありませんでした。でも、今になってこの資料が出てきたことを受けて、祖父がどのように抑留された期間を過ごしたのか、一度立ち止まって調べてみてもいいのではないかと思うようになりました」

最も長く抑留された祖父

真理子さんの祖父は、小畑信良元陸軍少将。
戦後シベリアに抑留された人の中でも最も長く、抑留期間は11年に及びました。
65年前に真理子さんが2歳のときに、最後の引き揚げ船に乗って帰国しました。

祖父は、人員や兵器、食料などの供給を整え、前線の部隊を支援する兵站が専門でした。終戦の2年前の昭和18年、ビルマの部隊の参謀長を務めていた際には、多くの犠牲者を出したインパール作戦について「無謀な作戦だ」と訴え、中止を進言したとされます。

アルバムには、この進言が結果としてシベリア抑留につながったことを示す記述がありました。

「第15軍参謀長としてビルマに赴任せるも、牟田口軍司令官と作戦上の見解を異にし、左遷させられビルマを去った」

上司の怒りを買って異動した先は中国東北部の満州。小畑は戦後、この地でソ連軍に連行され、抑留されたのです。

“抑留”そして“死刑判決”

さらに詳しく読んでいくと、アルバムや手紙には祖父が帰国後にシベリア抑留中のことを振り返って書いたとみられる記載もありました。

昭和20年8月18日 ソ連軍のふ虜となり抑留 記載
「20年8月18日、ソ連軍幹部が空から奉天に降り、19日最高指揮官の到着を迎えよとの命令で飛行場に集まったところを、ふ虜と宣告。その場から飛行機でチタ(旧ソ連の南東部)に送られた」

アルバムと共に保管されていた自筆の「伝言書」と書かれた手紙。抑留が始まってから5年後の昭和25年1月に書かれたこの手紙は、先に帰国した同じ陸軍の元幹部の手によって祖母のもとに届けられました。多くの抑留者が帰国を遂げる中、「帰国」とはほど遠い、死を覚悟したかのような厳しい状況が綴られていました。

「今度の監禁訊問で、或いは来たるべき将来について覚悟した」
「もとより当たるべき罪の之あるはずはない」
「これも持って生まれた運命であって、戦場で死の隣に現れたのも同じと諦めるほかはない」
「ただ、家族には気の毒だ。ことに富子(妻)、永年の貞実なる奉仕に対してその老後に報い得ずしてかえって心労を煩わすことは不憫に堪えぬが、いかんとも致しがたい」
「決して希望を捨てないで、甲斐ある余生を送るべき途を開かれたい」

この手紙の5か月後、祖父が重大な局面にあったことが、アルバムの中に記載されています。

昭和25年4月
「25年4月大部(分)の将官は最後の輸送にて帰還したが、我々はハバロフスク監獄に移され裁判を受け、戦犯として、予は6月25日、死刑を宣告された
「控訴の結果、25年刑となり、10月上旬ハバロフスク第21分所に収容」

多くの人が帰国する中で、後に懲役刑に変更されたものの、1度は死刑判決を受けていた祖父。
なぜこのような状況に置かれたのか、そしてその後も6年にわたって抑留が続いた理由は何なのか。真理子さんは、シベリア抑留に詳しい専門家にアルバムと手紙を分析してもらいました。

抑留が続いた11年に迫る 専門家は…

訪ねたのは国文学研究資料館の加藤聖文准教授。
シベリアなど海外からの引き揚げについて研究しています。

加藤准教授がまず注目した点が、小畑とともに抑留されていた陸軍の元幹部からの手紙です。送り主は堤不夾貴元陸軍中将。昭和25年に先に日本に帰国し、小畑の「伝言書」を家族に届けた人物です。このとき、伝言書だけでなくみずから小畑の状況をしたためた手紙を家族に送っていたのです。

「本年(昭和25年)1月中旬、訊問の再開の道程において、約2週間、暗く身を入るるだけの小室に監禁され、調査官の極めて不快なる調査を連日受けておられました」
「さればこそ、小畑君も深く覚悟を定められ、不当の罪を問われ、長期の罪人人生に陥るべきを予感・予断致し、『伝言書』を案じられました。そして之を私に渡され、非常な熱意をもって之を家族に伝えられん事を請われたのです」
小畑真理子さん

祖父が入れられたという「小室」というのは、独房のようなものですか?

 

加藤聖文
准教授

「小室」というのは本当に小さいスペースで、人が1人入れるくらいの場所だと思います。寝ることもできない、動くこともできないような状況で、「これはお前の罪だろう、認めろ認めろ」と、ずっとやられるわけですから、さすがに参ってきます。肉体的苦痛だけでなく精神的苦痛も与えるというやり方を受けていたと考えられます。

その上で、加藤准教授は小畑が厳しい尋問を受けた背景についてこう説明しました。

 

戦犯じゃないと長期抑留する理由がないということです。何も罪のない人を長期間ソ連国内にとどめて、しかも強制労働させる根拠はない。ソ連にとって「ちゃんとした犯罪」として、国家に対する重罪を行ったとすれば、より長期間の拘留が可能になる。そうなると、取り調べる側は自白させることで「罪を作る」というのが既定路線ですから、何が何でも自白させないといけないわけです。実際に刑期が確定すると労働をさせられるので、一時期は小畑も強制労働をしていたと考えられます。

なぜソ連側は長期の抑留を強いたのか。加藤准教授は小畑にはソ連側から特に関心を持たれる事情があったと指摘しました。それが小畑が満州で就いていた役職です。インパール作戦に異を唱えて満州に異動した際に就いたのは、奉天の「特務機関長」というポジションでした。

 

特務機関のような諜報機関というのは、情報収集と内部をかく乱させるという業務で認識されているので、小畑が短期間とはいえそのポジションにいたということが大事になります。
当時の小畑のポストは実際にはソ連の情報収集よりも、戦況が悪化する中で満州の経済資源をどのように戦争に動員するかに力点を置いていました。ところが、ソ連からはそう見られない。特にソ連では諜報機関の部署の責任者というのは、対ソ連工作を担う人物として重要なターゲットになったというわけです。

抑留から5年がたっても厳しい取り調べを受けていた事情が少しずつ見えてきました。

一方で、アルバムには抑留から10年後(帰国の1年半ほど前)の写真とともに、「日本の代議士団が収容所を見舞いに来てくれた際の写真を写して留守宅へ届けてくれた」という記載もあります。緊迫した様子は、あまりうかがえません。

 

抑留が始まって時間が経過するに従って、その理由も変遷したと言えると思います。ソ連にとっては重罪人だとして長期間抑留しましたが、次第にアメリカなどから国際的な圧力が出てきます。だからといって、ただで帰したのでは圧力に負けて解放したとなってソ連にとってメリットがないので、途中からは「外交カード」になっていきます。日本とソ連の間の国交回復の交渉の中で、日本は長期抑留者の早期帰還と領土問題の両方を解決したいと考えますが、ソ連にしてみれば領土問題に触れられるのは避けたい。領土で妥協せず、「戦犯」を日本に帰すだけで日本と国交が結べれば“安上がり”となりますから、そうした切り札として留め置かれるようになっていったのです。そうなってくると死んでもらっては困るということで、後半は特に厳しい労働はなかったとみられます。それでも、そもそも帰国が出来るのかという、先行きが全く見えない不安は強くあったと思います。

 

死刑判決を受け、罪人のように強制労働をして、最後は外交カードに。一番最後まで抑留されてしまったのは、そういう理由があったんですね。

祖父が残した“記録”の意味

戦争やシベリア抑留の話をすることはなかった祖父。

なぜ記録を残したのか、その意味について、加藤准教授は真理子さんの問いに答えました。

 

自分が辛い目にあったということを、小さい子どもだった私にはまだ言ってもむだだなと思ったのでしょうか。

加藤聖文
准教授

言いたくないという部分もあったと思いますし、あまりに体験が重いので、言葉として伝えようがないというか、言葉にできないというのもあったと思います。でも、だからといってそのまま忘れられてしまったり、そんなことがあったことを誰も知らないのも嫌だという、やっぱりどこかに自分の体験を誰かに伝えたいし、少なくとも家族には最低限、残したかったのだと思います。

 

 戦争の本質は国家と国家の戦いで、個々人の意思や主体性は全く関係がなくなってしまう。国家の論理の中で戦犯にされ、長期間抑留され、気づかないうちに外交カードとして使われて、最後に帰国できることも本人の意思と関係なく決まる。戦争が現実に起こると、個人の意思なんてゼロに近いという現実を、小畑の人生やこの記録は示してくれると思います。社会で十分共有できる、記憶を共有できる貴重な資料だと思うので、是非ちゃんとした形で残していただきたいと思います。

 

今回、祖父の11年の一端を知った真理子さん。
残された資料についてさらに詳しく調べて、いずれ資料館などに託していきたいと考えています。

小畑真理子さん
「祖父が細かいアルバムを残してくれたのは、『大きくなったら読みなさい』という意味だと思うのですが、やっと今、向き合えました。
知るのは辛い話もありましたが、実際に起こったことなので、やはり知って良かったと思います。通り過ぎてしまうところをちょっと立ち止まることができたので、祖父がせっかく書いてくれたものを読み返して、もう1度考えてみようと思いました。
その上で、私は祖父が残した記録を知っていただく役目なのかなと思いましたので、どこまで皆さんが読んでくださったり役に立てて下さったりがあるのか分かりませんが、見ていただきたいなと思います」

  •  山内拓磨

    首都圏局 記者

    山内拓磨

    首都圏局 2007年入局。長崎局、福岡局を経て報道局社会部。検察担当などを経て、2020年から首都圏局。憲法やコロナ取材を担当

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