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もっと知りたい “私の町で起きた横浜大空襲”

  • 2021年10月29日

飛来したB29爆撃機の数は517機、投下された焼い弾の数は43万個。76年前の5月29日、横浜の町はわずか1時間の空襲で焼け野原となりました。
1945年に起きた「横浜大空襲」についてのドキュメンタリー映画がこの秋、全国各地の映画館で公開されます。
製作にあたった映画監督は、若い世代に空襲の記憶を伝えたいと、横浜市内の学校で映画の上映会と座談会を開きました。空襲の記憶と向き合った若者たちは、彼らの想像力で戦争の記憶を継承しようと動き始めています。
(首都圏局/ディレクター 熊谷百合子)

映画「スズさん」でよみがえる横浜空襲の記憶

今年7月、横浜市青葉区の桐蔭学園でドキュメンタリー映画「スズさん」の上映会が開かれました。
参加したのは演劇部に所属する13人の中学生と高校生です。

描かれているのは、横浜大空襲を生き抜いたある家族の物語です。横浜に生まれた“スズさん”という実在の女性の視点で、戦前・戦後の暮らしを見つめています。
明治43年(1910年)に横浜市鶴見区の農家の長女として生まれた小泉スズさんは、大正12年(1923年)の関東大震災で母を亡くしました。残された家族の生活を支えるために18歳で女中奉公に出た後、22歳でお見合い結婚。昭和7年(1932年)のことでした。映画ではスズさんが経験した戦時下の暮らし、小泉家の子どもたちの学童疎開や建物疎開の経験が、一人称で語られています。

東京・小石川区(現在の文京区)で生活していたスズさん一家が横浜に引っ越したのは、横浜大空襲が起こるおよそ2か月前、昭和20年(1945年)の春のことでした。空襲による延焼を食い止めるため、主要な駅や軍事施設、学校などの周辺の民家を立ち退かせて取り壊す“建物強制疎開”の対象になったのです。住み慣れた自宅を失い、親類を頼って横浜市神奈川区の子安に移りました。
そして迎えた5月29日の朝。けたたましく鳴る警戒警報は空襲警報に変わり、ほどなくして空から焼い弾が落ちてきました。映画では、スズさんの長女で今年88歳になる小泉和子さんが、当時の様子を振り返ります。

「9時頃なんですね。お天気がいい日で。それで警戒警報かと思ったら、空襲がわーわーわーわー鳴ってきて。母が早く防空壕に行けって言って。母と父は行っちゃいけないんですよ。大人は逃げずに消せって言われている。みんなそうだったんですね、あの頃。
防空壕に入ってじーっとしていると町会の人が入ってきて、そうしたら前に建っているおばさんの家に焼い弾が落ちちゃったのね。それで防護団の人が出ろって言われて。で、たちまちに炎になるのね」

わずか1時間の空襲で犠牲になったのは3650人、罹災者30万人以上。横浜の町並みは廃墟となりました。
スズさん一家は空襲を生き延びましたが、子安の家からは焼け出され、終戦を迎えます。

“空襲の記憶を継承したい” 監督の思い

この映画を製作したのは、桜美林大学教授で映画監督の大墻敦さんです。テレビディレクターとして、ヒロシマ・ナガサキの被爆者のドキュメンタリーなどを手がけてきましたが、横浜大空襲は遠い存在でした。しかし、取材を進めるうちにこの空襲の記録を映画として残したいという気持ちが強くなったと言います。

この夏、大墻さんは横浜市中区の大通り公園にある、平和祈念碑を訪ねました。横浜大空襲で焼き尽くされた地区で、祈念碑は平成4年(1992年)に横浜戦災遺族会によってつくられました。
訪れたこの日、地域のボランティアが公園の清掃活動をしていましたが、祈念碑の前で足を止める人は確認できませんでした。毎年5月29日には市民が集まり、この場所で平和への祈りを捧げてきましたが、戦災遺族会も遺族の高齢化で今年4月に解散。横浜大空襲の記憶を若い世代にどうつないでいくのかが課題となっています。

大墻敦さん
「どうしてももう戦後76年、そういった長い年月が経った結果として、どんどん忘れ去られてしまうって言うことはあると思うんですね。そのときにこういった経験をどのように残していくのかっていったときに、やはり映像と音声というのは大きな力を持っていると思うんですね」

大墻さんは戦時中の記憶を継承できるのは今しかないと、特別な思いで「スズさん」を製作しました。というのも、大墻さんには亡き両親から戦争体験を聞くことができなかったという後悔があったからです。

大墻敦さん
「僕は昭和38年(1963年)生まれですけれども、戦時中は中学生だった父親は今の北朝鮮で暮らしていました。戦争が終わった後にソ連軍が攻めてきて、祖父は連行されてシベリアで抑留されて亡くなって戻ってこなかったんです。父は5人きょうだいで母親と共に命からがら引き揚げてきたということがあって、そういうのを家族のなかでなんとなく聞いていたんです。だけどちゃんと聞く前に父がもう亡くなってしまって。亡くなってしまうとやっぱり聞いておけばよかったなって」

メイキング映像

肉親の戦争の記憶を継承しきれなかったという思いを胸に、大墻さんは今回の映画で証言を語ってくれた小泉和子さんの戦争体験を記録していきました。

メイキング映像

大墻敦さん
「この映画を見た後に『あ、せっかくだからおじいちゃん、おばあちゃんが生きているうちに聞いてみよう』とか、あるいは孫がいる戦争体験者のかたには『1回ぐらいちゃんと孫と向き合って戦争体験を話してみよう』というふうに思ってもらえればとても嬉しいです」

“戦争をもっと知りたい” 高校生からの声

横浜大空襲の記憶を、地域で暮らす今の若者たちにも受け継いでいってほしいと企画された今回の上映会。
映画を鑑賞した後、生徒たちが大墻さんを囲んで座談会が開かれました。

大墻さん

今日この日まで横浜大空襲っていうのがあったことをどれぐらい知っていました?

白石さん

授業でちょっと出てきて、教科書に載っていた程度です。

 

久保さん

知らないです、多分みんなと同じくらい。

 

自分たちが暮らす横浜で大きな空襲があったことに実感がわかない生徒たち。
大墻さんが映画のなかで印象的だった映像について尋ねたところ、声があがったのが防火訓練や学童疎開について伝えるプロパガンダ映画の映像でした。

岸さん

防火水槽を空けたり、バケツの水をかぶっている映像を見たのが初めてで、実際に火消しをしようっていう努力していたことを知らなかったので、それに驚きました。これで歯が立たないのはちょっと当たり前だなって後から思いました。

久保さん

学童疎開の時の子どもたちが汽車の中で笑顔ですごい手を振っているところの映像を見て、本当はカラ元気というか、家族に見せるために笑顔だけど、めちゃくちゃ悲しんだろうなって。

生徒たちからは授業でも戦争についてもっと取り上げてほしいと要望する声があがりました。

浦さん

実際に経験した思いとかを目で見て耳で聞いてというふうに感じるのは、心に沁みやすいっていうのもあると思うので、映像作品とかもみんなで見る機会ができたらいいなと思いました。

高濱さん

体験した人の話を聞くと、情報じゃなくて体験として理解できるので、こうやって接する機会をもち続けられたらいいなと思いました。

中野さん

私ももっと学校で積極的に教えるべきだと思います。生徒同士がそういう話をする機会を作るっていうのも大事かなと感じました。

もっと戦争について知りたい、知る時間がほしいという生徒たち。
一方で、戦争を身近に感じているという生徒もいました。高校1年生の高濱晃平さんです。ひとクセもふたクセもある役柄を颯爽とこなす高濱さんは、演劇部のムードメーカー的な存在です。

高濱晃平さん
「僕の家族が戦争孤児でして、戦争している間に外国に置いていかれたんですよ。それで、僕も今、外国の血を受け継いでいるんですけど、僕の親戚の戦争孤児だった人は自分の親が未だにわからないんですよ。僕としても自分の祖先がどこから始まったのかもわからないんです。だから戦争っていうのは末代までずっと影響を残してしまうんだなって思って、戦争は起こしちゃいけないと思いました」

普段から明るく、ユーモラスな高濱さんが率直に話してくれた自らのアイデンティティーにまつわる話。その場にいた誰もが心を揺さぶられていたと思います。高濱さんのおばあさんが中国残留孤児だということは、演劇部の仲間も先生も、この座談会で初めて知った事実でした。
戦争は、今を生きる自分自身にとっても地続きの問題だという彼の言葉。戦争について膝をつき合わせて語り合ったなかで出てきた生身の言葉に、演劇部の生徒たちも何かを感じとっているようでした。

戦争の記憶と向き合うということ

桐蔭学園での上映会から2か月あまりが経った10月上旬。私は大墻さんとともに横浜市内のある小ホールを訪ねました。演劇部顧問の秋庭俊一先生から「横浜市高等学校演劇発表会」に出る生徒たちの舞台をぜひ見てほしいと声をかけてもらったのです。

演目「スノードーム」の舞台は太平洋戦争末期の日本の地方都市。B29の不時着で負傷した若いアメリカ人兵士と日本の少年の友情が描かれています。架空の物語ですが、戦況の悪化で若者の友情が引き裂かれていく様子とともに、戦争に翻弄される当時の人々の心模様が、生徒の熱演でリアルに表現されていました。
脚本を担当したのは部長の三木優輔さんです。三木さんはこの脚本を、大墻さんとの座談会の直後にわずか数日で仕上げたと言います。

三木優輔さん
「座談会で自分の意見を口に出すことで、更に戦争について学んで知っていきたいという気持ちになりました。映画を見て、当時は食べるものも乏しくて貧しい生活だったことや、空襲で焼い弾が次から次と落ちてきたという証言が印象に残ったので脚本にも盛り込みました。台本を作るうえで歴史や戦争について学び直して、当時の人の気持ちに寄り添う作品にしたいと思ったので、戦争に対する意識がより深まったと思います」

家族が戦争孤児であることを話してくれた高濱さんは、主人公の戦友のアメリカ人兵士を演じています。
この舞台の制作を通して、部員たちの間でも戦争について話をすることが増えたといいます。

高濱晃平さん
「僕の台詞に『正しい戦争なんてない。みんな間違ってんだ』というのがあるのですが、それが今回の僕たちの舞台のメッセージです。大墻さんとの座談会がきっかけになって、僕たちのなかで何か化学反応みたいなものが今起きている気がしています。舞台をよりよいものにするために、資料を読んで知った情報を共有したり、当時の人たちの気持ちを想像することで、頭ではなくて心から戦争はイヤだと感じるようになりました」

戦争のことをもっと知りたい、という生徒たちの言葉が演劇というかたちでこんなにもすぐに結実したことに、大墻さんも驚いていました。

大墻敦さん
「制作者として率直に心底嬉しいです。若い世代の方々に映画の内容が響いたのだと。演劇部の皆さんが作り上げた舞台からは、複雑系の世界をつくりあげる大きな要素が『人が人を思う気持ち』であるというメッセージを発しているように私には感じられました。若い世代の方々に映画の内容が響いたことに感激しています」

顧問の秋庭先生も、生徒たちの変化を感じ取っていました。

顧問の秋庭先生
「舞台で着る衣装や小道具を選ぶところから、モノが不足していたあの時代に『子どもはどんな服を着ていたんだろう』とか、『食器はどんなものを使っていたんだろう』とか、時代考証から真剣に議論する様子を間近で見ています。この年代の子どもたちの貪欲に知りたいというエネルギーはすごいなと感じています」

作品は地区大会で最優秀賞に選ばれ、11月の神奈川県大会を目指して更に完成度を高めようと、演劇部の練習は続いています。

取材後記

取材を進めると横浜市内には今も空襲の激しい炎で焼け焦げたイチョウの木が点在していたり、鶴見区のJR国道駅の外壁に空襲の実弾射撃の跡と言い伝えられる痕跡が残っていることを知りました。目を凝らしてみると戦争の傷跡は今もあるのに、それを知らずに過ごしていたことに私自身も愕然としました。
戦後76年が経ち、戦争体験者が少なくなるなかで記憶の風化が課題となっていますが、今回、桐蔭学園の演劇部の皆さんの変化を垣間見て、戦争体験者の記憶を映像として残すことの可能性を感じることができました。放送メディアに関わる一人として伝え続けていくことを諦めてはいけないと感じる取材でした。

  • 熊谷百合子

    首都圏局 ディレクター

    熊谷百合子

    2006年入局。福岡局、報道局、札幌局を経て首都圏局。沖縄戦のひめゆり学徒隊の証言を語り継ぐひめゆり資料館の戦後世代の説明員の記憶継承の取り組みや、太平洋戦争で出兵した兵士の遺骨のDNA鑑定で、遺骨の帰りを待つ遺族の取材に関わってきた。

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