戦争当時広島にいた男性が、被爆の事実を公的に認めてほしいと被爆者健康手帳の申請を行った。男性の年齢は100歳。
その申請はどうして今になったのか。
そこには76年という時の流れの中で「できれば思い出したくない」過去が「それでも“なかったこと”にはできない」ものへと変わっていった男性の思いがあった。
(首都圏局/ディレクター 籾木佑介)
東京・調布市の岩下運雄さん、100歳。妻と娘家族の5人暮らしで、身の回りのことはすべて自分で行う。ゴルフの素振りやウォーキングなど健康管理に余念がなく、読書家で、政治経済の動向にも敏感だ。穏やかに話をしてくれる岩下さんだったが、被爆した当時のことに話が及ぶとその口調は一変した。
岩下さん
「光がピカーと来て、爆風がドーンと来た。昨日のことのように覚えていますね」
東京帝国大学の学生だった22歳の時、学徒出陣で陸軍に召集された岩下さんは広島の陸軍の船舶部隊に所属した。原爆が投下されたときは、爆心地から約4キロの宇品港で潜水艇の出航準備にあたっていたという。
岩下さん
「潜水艇の鉄板に飛ばされ、熱いから光をよけて体を縮めたんだ。まだ原爆なんて言葉も当時はありませんでしたから、火薬庫とガスタンクが同時に爆発したんじゃないかと、なんだかわからないけど、とにかく熱いから出航しろと。潜水して呉の方で浮上して広島の方を振り返ったら、真っ黒な雲が見えました。潜水艇にも雨がものすごい勢いで降っていた。その雨が普通の雨とはまったく違う真っ黒な雨。黒い雨と真っ黒な雲、あれは忘れませんね」
あの日きのこ雲を目撃し、いわゆる黒い雨を浴びたという岩下さん。その後、岩下さんの部隊は爆心地近くに入り約10日間、救護活動や遺体収容に従事した。
岩下さん
「洗面所の水道の水を飲もうとして、はって来て、裸というよりは皮まではげたような、取れちゃったような人もいる。救護所で毛布をかぶっている人がいたから、まだ起きないのかって毛布を取ったら、そのまま死んでる若い女性がいて、今でもよく記憶に残っています。大都市がいっぺんに無くなっちゃった。これはもう悲惨を超えているんじゃないですか。恐怖でした」
戦後、岩下さんは東京に戻り銀行に就職した。結核やガンを患うなど病気がちだったが、結婚し子どもが生まれた。ずっと気がかりだったのが被爆の影響が出ないかということだった。
当時、原爆が投下された広島には「今後100年は住めない」という、うわさが流れていた。被爆の影響が、自分だけでなく子どもに出るのではないかという不安は、消えることがなかったという。
岩下さんと妻の侑子さん
岩下さん
「原爆の影響がたまたま娘には当時出なかったけど、障害のある子どもがひょっとしたら生まれるかもしれないという恐怖心があった。子や孫の人生のどっかの段階で放射能の影響が出てくるかもしれない。これは自分だけではなく、永久の問題です」
さらに、壮絶な被爆当時の記憶は思い出すだけでも苦しく、岩下さんは周囲の人たちに被爆の体験を語ることを避けて過ごしてきた。昭和40年ごろ、銀行の広島支店に赴任していたときには、取引先から広島平和記念資料館の案内を頼まれ、仕方なく一度は入ったものの、展示物を目にするのが怖くなり、すぐに外に飛び出してしまったという。
一人娘の佐和子さんは、そんな岩下さんの様子をこう語る。
佐和子さん
「資料館の中に入った途端に、当時の記憶を思い出してしまったんでしょうね。自分の中で、もしかしたら自然に封印してたのかもしれないですね。それくらい悲惨な体験をしたので、もう思い出したくないんだろうなと。原爆のことはこれまで私にはあまり話さなかったですし、テレビの特集や本も自分から見ようとはしません。ただ、原爆が落とされた8月6日の朝に黙とうをするのはわが家の中でずっと継続していて、詳しく話すことはなくても、父はずっと亡くなった人のことを思っているんだろうなと」
被爆体験の恐怖や、仕事の忙しさもあって、被爆者健康手帳を申請してこなかった岩下さん。しかし、100歳の節目が近づくにつれ「なかったことにはしたくない」という思いが生まれたという。原爆の記憶を鮮烈に残している人が、自分以外にどれだけ生き残っているのだろうと考えるようになったからだ。
岩下さん
「私が死んだらあの体験をした人間がこの世の中にいなくなってしまう。自分の存在とは何なのか。自分が生きている間に、体験したという証明書を持っていたいと思った」
家族にも後押しされ、岩下さんは2年前、東京都に被爆者健康手帳の交付を求めて申請を行った。
しかし、岩下さんの被爆者認定は難航を極めた。
被爆者であることを公的に証明する被爆者健康手帳の取得には、原則として罹災証明書など公的機関の証明か第三者の証言が必要とされる。岩下さんが被爆の証拠として提出したのは、広島市が刊行し原爆関係の基礎資料とされる「広島原爆戦災誌」。ここには昭和38年に聞き取りが行われた岩下さんの証言が収録されている。
被爆した事実を証明する唯一の証拠。しかし岩下さんの下の名前が「運雄」ではなく「一夫」と誤って記載されていたため、証拠とはみなされず申請は却下された。
唯一の証拠が認められず、あきらめかけていた岩下さんを支えたのが娘の佐和子さんと大学生の孫の蔵人さんだった。全国の資料館や図書館に通って情報を集め、研究者に問い合わせた。東京の被爆者団体の機関誌で、証人がいないか情報を募ったりもした。
佐和子さん
「当時たまたま広島に軍として行っただけなのに、そこで証人をと言われても難しい。釈然としない思いがありました。でも父の年齢を考えたときに、あれだけ悲惨な体験をしてこのままいなくなるのはどうかという思いがあって私たちも頑張って動きました」
孫の蔵人さん
「僕たち家族からしたら完全に祖父は被爆者と確信していたんですけど、手帳がないということで周囲の人たちに話すことができませんでした。祖父は悔しさを通り越してあきらめが強かったのかなと思いますね。なんとしても認めさせてやるというか認めてもらおうという思いで調べました」
有力な手がかりが見つからないなか、家族が注目したものがある。岩下さんの証言を聞き取った戦災誌の原稿だ。広島市公文書館から原稿の原本の写しを取り寄せ確認したところ、そこには当時の岩下さんの勤め先の銀行が書かれていた。
佐和子さんが銀行に事実関係を確認して欲しいと依頼。過去5年間の在籍者を調べてもらった末に「同音異字の人物は当時他にいなかった」という証明書を得ることができた。
この証明書に基づいて、広島市公文書館はデジタルアーカイブの戦災誌に収録された証言者名を「岩下運雄」に訂正。証言が岩下さん本人のものだと確認された。
被爆者健康手帳の申請手続きなどを支援する団体で相談員を務める的早克真さんによると、岩下さんのように今になって申請をしたいと訪れる人は後を絶たないという。
差別を恐れて孫が結婚するまで被爆したことを誰にも言えなかったという人や、元軍人の自分が被害を訴えていいのか、申請をためらっていたという人もいる。
一方で、認定に必要な被爆したという証拠を探すハードルは年々上がっていく。そもそも終戦前後の混乱期で資料が乏しいことや、同じ部隊に所属し当時を記憶している人が亡くなっていくからだ。
的早さん
「これだけ時間が経ってから手帳の申請をする方は、事実を事実として残しておきたいという気持ちから決断されているようです。確かに被爆したんだ、という証しが手帳の交付じゃないですか。だから手帳が必要なんです。時間が経つ中で確たる証拠をそろえるのは難しくても、状況証拠などで柔軟な対応がされることもあります。被爆の経験・記憶がある人はあきらめないで相談してほしいです」
7月、岩下さんたちはこの新しい証拠を添えて手帳の再申請を行った。今回は無事受理され、自宅に被爆者健康手帳が届いた。待ち望んでいた手帳を目にした岩下さんが口にしたのは、複雑な胸の内だった。
岩下さん
「一区切りついた、そういうことでしょうね。手帳を見るといろいろなことを思い出して悲しい気持ちになる。偶然爆心地から離れて生き残ってたからもらえるけど死んだらもらえないし。でも被爆しても生き残っていたという証しなのかな」
戦後76年経ってようやく得た「被爆の証し」。岩下さんは70年以上封印してきた被爆の体験を多くの人に伝えていきたいと考えている。
岩下さん
「自分が被爆者であることを公に認められたという事が一番大きいです。被爆したことだけは確かだから、認められようと認められまいと、俺は被爆したんだって思いはあったけれど、認めてもらえれば、どこに行っても被爆者として話が出来る。相手も信用してくれる。地元の被爆者団体にも参加して、みなさんと一緒に話してみたいです」
被爆者・家族の相談先(東京都)
一般社団法人 東友会
https://t-hibaku.jp/
電話 03-5842-5655