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私もヤングケアラーだった ~“病名のない”母を介護した6年~

  • 2021年8月16日

「盗聴されている」 「ひとりにしないで」

高校生だった私は、不安を訴える母から離れることはできませんでした。
母が何の病気なのかさえ分からないまま、6年間ひとりで続けた介護。
そして私は、限界を迎えました。

母に異変 私しかいなかった

母の様子がおかしいと感じたのは、私(さやかさん・仮名・30代)が中学校を卒業する頃でした。
明るかった母が近所のトラブルをきっかけに、ふさぎこむことが多くなったのです。

高校に入学する頃には、母は朝起きられなくなり、弁当は自分で用意するように。
同級生が親に作ってもらう“きれいなお弁当”と比べると、上手に作れなかったのを覚えています。

父は長期出張が多い仕事で、半年に1度くらいしか帰ってきません。
4歳上の兄もすでに家を出ていました。

母ができなくなった家事を担うのも、不安を訴える母の話し相手になるのも、私しかいませんでした。

高校2年生になると、母の状態は悪化します。
「盗聴されているから小声でしゃべって」とか「ひとりにしないで」と訴えるようになりました。

テレビをつけると母が過敏に反応するため見られなくなり、友達との話にもついていけなくなりました。
当時、人気だったお笑い番組も見ていなかったので話を合わせることができず、つらかったです。

“家族のことを話したくない” 友達を作るのをやめた

だんだんと増えていった家事の負担や母のケアで、学校に遅刻することもありました。
先生からは「まじめそうなのにどうしたの」と聞かれましたが、本当のことは言えませんでした。
周囲とは違う自分の生活を理解してもらえないと思っていたからです。

友達に遊びに行こうと誘われても、断ってばかり。
自分から親しい友達を作ることもやめてしまいました。
仲よくなると、家族のことを話さないといけなくなるからです。

当時、母は何かしらの病気だと思っていましたが、病院に通っていなかったので、よく分かりませんでした。

あのときの私には、どうすることもできなかった。

いま振り返っても、そう思います。

“母が心配” カラオケ楽しめず

母親が中心の生活を送っていたので、「自分は将来何になりたいのか」「何を学びたいのか」を考える余裕はありませんでした。

受験勉強をして県内の大学に進学しましたが、高校時代と生活が大きく変わることはなく、生活の中心は母の介護でした。

母の状態がいつ悪化するか分からなかったので、アルバイトをしたこともありません。
そんな自分のことをこう思っていました。

「世間知らず」だと。

学生時代、1回だけ友達と朝までカラオケに行ったことがあります。
友達にとっては日常の1コマだったと思いますが、私にとっては特別な経験でした。

でも結局、母のことが心配になってしまい、トイレに行くふりをして何度も電話して無事を確かめました。

母のいない自分の時間を、心から楽しむことはやっぱりできませんでした。

そして限界が…

大学に入ってから、徐々に、母の症状は悪化していきました。

そして、自宅にいると幻覚が見えてしまうと訴え、真夏でもシャッターを閉めきって真っ暗な部屋の中で過ごすようになったのです。

母とホテルやカラオケボックスで一夜を過ごすこともありましたが、結局、自宅とは別の場所にアパートを借りました。

たまにしか母と顔を合わせない父たちは、母がここまで症状が悪化していることも知らなかったと思います。
いま思い返せば、自宅があるのに別のアパートを借りるなんておかしいですよね。
仕事にまい進する父に迷惑をかけてはいけないと、ひとりで抱え込んでいました。

でも父の定年が近づいたある日、限界を迎えます。

私は泣きながらこう父親に伝えました。

「もう1人では母を介護することができない」

父は仕事をやめて、母のケアに専念してくれました。

母は病院に行くことを嫌がりましたが、数か月後にようやく病院に。
そこで「統合失調症」だと診断され、入院することになりました。

そのとき私が介護を始めてから6年以上が経過していました。

もっと早く誰かとつながれていれば

さやかさんが経験談を話してくれたのは、今苦しんでいるヤングケアラーの子どもたちに伝えたいことがあるからです。

母親を介護する日々が“当たり前”になっていた学生時代。
友人に家族のことを打ち明けました。

その友人が書いてくれた手紙を、さやかさんはずっと大切に持っています。

「もっと自分を大切に」
「自分を犠牲にしないで」

友人にかけてもらった言葉は、父親にSOSを出すきっかけになりました。

さやかさんは今も、父親と一緒に母の介護を続けていますが、ヤングケアラーだった当時とは状況が大きく違うといいます。

母が病院に通うようになったのをきっかけに、精神疾患の家族会とつながることができたからです。
同じ困難を味わってきた人たちに悩みを話し、解決策も共有しています。

「もっと早く、誰かとつながれていれば」

満足に味わえなかった青春時代も、そこで得るはずだった経験も、もう手にすることができません。

だからこそ、今、苦しんでいるヤングケアラーの子どもたちが誰かとつながり、支援が行き届いてほしいと訴えています。

さやかさん
「自分の限界が分からず、無理をした生活を送っているかもしれないけど、その生活に光が当たる日がくること、今苦しんでいることを誰かに話せる日が来ることを信じてほしいです。自分を責めないで、自分の味方でいてほしいと思います」

取材後記

さやかさんは自身の経験を語ったあと、いくつかのインターネットのサイトや本を紹介してくれました。
いずれも精神疾患の家族向けのもので、症状や接し方、経験談、困ったときの相談先がまとめられています。
さやかさんが高校生の頃に知りたかった情報です。

国内でのヤングケアラーに対する支援策の検討が一気に進んでいるように感じるという声もありますが、子どもが子どもらしく生活をしたり、青春時代を過ごしたりする時間は長くはありません。

具体的な支援策が急がれる一方で、ひとりでも多くの人がこうした問題にまずは目を向けてほしいと強く感じました。

  • 石川由季

    首都圏局 記者

    石川由季

    2012年入局。大津局、宇都宮局でも福祉の問題を取材。

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