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私もヤングケアラーだった ~YouTuber市岡元気さんが語った母との日々~

  • 2021年6月11日

「教育系YouTuber」として活躍する、サイエンスアーティストの市岡元気さん(37)。
科学のおもしろさを子どもたちに知ってもらうため、実験を披露するイベントを各地で開催し、YouTubeでも動画を配信しています。

そんな市岡さんは、幼い頃から精神疾患のあった母を支えてきました。
みずからの経験から、こんな言葉を伝えています。

「人生なるようになる」

市岡元気さんが、幼い頃からの日々を語ってくれました
(首都圏局/記者 氏家寛子)

いつも笑顔で優しいお母さんだったけど…

母親と弟と3人で写る家族写真です。右側が、私(市岡さん)です。

3歳くらいのときに両親は離婚し、母子家庭で育ちました。長野県松本市に住んでいて、母親は子供服のリサイクル店を営んでいました。
たくさんの友達がいて、いつも笑顔で優しいお母さん。それが記憶に残る当時の印象です。

ただ統合失調症を患っていて、状態の悪いときには、突然叫んだり怒ったりすることもありました。昼間は状態が安定していて明るい感じなんですが、夕方から夜になると気分が落ち込むのか寝ていることが多かったです。

自殺未遂した母親を支えて 弟のためにも「しっかりしなきゃ」

小学3年生のころ、母は精神安定剤を大量に飲んで自殺未遂をしました。
夜、様子がおかしいことに気づいて祖母に連絡すると救急搬送され、そのまま入院しました。

それからは入退院を繰り返すように。
仕事も続けられなくなったのでリサイクル店は閉め、生活保護を受けて暮らすことになりました。

母が家事をできないときは、自分たちで部屋を掃除したり、食事を用意したり。
「できる人がやればいい」という感覚でした。
長男だったので、弟のためにも「僕がしっかりしなきゃ」という気持ちもあったと思います。

リサイクル店の前で弟と

そうした中で欠かせなかったのが、母の服薬の確認です。
飲み忘れると調子が悪くなってしまうので、ちゃんと飲んだのか確認し、調子が悪そうなときには「本当に飲んだ?」ともう一度声をかけてケアしていました。

注射を嫌がって病院に行きたがらないこともあったんですが、そんなときは『早くお母さんによくなってもらいたいな』と言って説得していました。私と弟の言うことは、よく聞いてくれたんです。

母のケアが続くなかで、弟が将来への不安を口にすることもありました。
そんなとき、こう言葉をかけたのを覚えています。

「人生なるようになる」
「頑張っても頑張らなくてもなるようになるから気楽にいこう」

自分を追い詰めないようにという思いからでしたが、今でも子どもたちに伝えている言葉のひとつです。

今でも大切にしていることば

得意な理科をほめてくれた母親 自分の仕事の原点に

今、科学のおもしろさを伝える仕事をしていますが、その原点には母親の存在があります。

小学生のとき、実はいじめを受けていました。
母にそのことは相談していませんでしたが、いつも笑顔で見守ってくれたことが心の支えでした。

勉強は、国語や社会は苦手でした。
一方、理科や数学は得意で、テストでいい点数を取るとすごくほめてくれました。そのことが今につながっていると感じています。

自分の好きなことを自由にやればいい。いつも否定せずに、できたことを大げさなくらい喜んでくれた母親。私のポジティブな性格は、そのおかげかもしれません。

そして、小学6年生のとき。子ども向けの雑誌に投書が採用され、地元の川に宝石を探しに行く記事が掲載されました。

上のほうに「市岡元気くん」と名前が載っている

この経験をきっかけに芸能界の仕事に興味が出て、オーディションに挑戦するように。
母はこのときも、背中を押してくれました。

科学のおもしろさ伝えたい 教育系YouTuberに

大学生のとき

その後、経済的には厳しい状況でしたが、どうしても大学で生物学やDNAを学びたいと都内の国立大学に進学。藻の研究に没頭しながら、教員免許も取りました。

大学時代は役者にも関心があったので、昼間は大学、夕方から役者の勉強のためダンスや演技のレッスン、夜はアルバイトという毎日でした。
そして卒業後は、サイエンスショーを企画するプロダクションでスタッフとして働き始めます。

サイエンスショーでは、1回に100人、200人に。さらにYouTubeであれば、数百万の人に伝えられる可能性があると考えて独立し、人の前に出て科学のおもしろさを伝える今の仕事を始めることになりました。

YouTubeより

元ヤングケアラーとしてできること

精神疾患のあった母を支えると同時に、母の存在や言葉に支えられてきたと語った市岡さん。
最近になって「ヤングケアラー」という言葉を聞くようになりましたが、自分がケアラーだったという認識はなかったといいます。
大変でしたが、ケアするのが“当然のこと”と思っていたからです。

市岡さんは自身の経験を踏まえ、何か自分にできることはないか考えているといいます。

実験をする市岡さん

市岡元気さん
「家族の介護やケアで、勉強の時間を確保するのも難しい子もいると思います。ほかの『教育系YouTuber』とも連携して、そうした子どもたちの支援につながるような動画などをつくれないか考えています」

そのうえで、子どもたちが夢を見つけるきっかけづくりができればと語りました。

市岡元気さん
「以前は、役者になることを目指していたので、YouTubeという舞台や形は少し変わりましたが、夢は叶ったと思っています。私の実験を見たことで、科学に興味を持ったり好きになったりして、将来何か人の役に立つものを開発してくれたらとてもうれしいです。子どもたちが自分の夢を見つけるきっかけづくりができたらいいなと思います」

取材後記 

3人の小学生の娘の父でもある市岡さん。
過去を振り返り、「子どものころ大変な生活を送ったからこそ、小さなことにも幸せに感じているし、頑張れると思っています」と、生き生きとした表情で語る姿が印象に残りました。

これからも当事者の経験談だけではなく、家族の介護やケアを担っている子どもたちの希望や支援につながるエピソードも取材して伝えていきたいと思います。

 

  • 氏家寛子

    首都圏局

    氏家寛子

    2010年入局。 岡山局、新潟局などを経て首都圏局に。 医療・教育分野を中心に幅広く取材。

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