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難聴の娘にことばをたくさん覚えてほしい 父親が作ったアプリとは

  • 2021年5月13日

春の公園で過ごす小学生の娘と父親が、記者にこう語ってくれました。

 

娘 「学校から帰ったらね、お友達と公園で遊んでいるの」
父 「少し前から、子どもだけで遊ぶようになったんです。そんなことは夢のまた夢でした」

 

父親が、感慨深げにこう語るのは、難聴の娘にことばをひとつひとつ繰り返し教えた試行錯誤の日々があったからです。さらにその中で開発した、難聴の子どもが楽しみながらことばを学べるアプリはいま、同じような境遇の親子を支えています。
(首都圏局/記者 桑原阿希)

音は聞こえるけど、ことばが聞き取れない

2人は、東京・世田谷区に住む4人家族の父親吉岡英樹さん(50)と次女の玲菜さん(8)です。
玲菜さんは、生まれてまもないころの聴覚検査では、音への反応があり、聴覚の機能に問題はないと診断されました。ところが、玲菜さんが1歳半ごろになると、長女のときと比べ、ことばがなかなか出てこないことが気になるようになりました。

ただ、生まれた病院に行っても「異常はないです」と言われ原因がわからず、いろんな医師に相談する日々が続いていました。

吉岡さん
「2歳にもなると自我が出てくるので、玲菜も何か伝えたいと思うし、私も伝えたいことがある。でもうまくかみ合わないんです。この子も、たくさん泣いていたと思うし、私も正直いらいらする場面もありました」

4歳になる直前に転機が訪れました。

相談した言語聴覚士が聞き慣れないことばで、玲菜さんの症状を説明しました。
「オーディトリー・ニューロパシー」

音そのものは聞こえている一方、ことばとしては明瞭に聞きとれないという聴覚障害だと言うのです。検査の結果、診断が確定しました。その時の気持ちを、吉岡さんはこう語ります。

吉岡さん
「生まれてすぐ判明する難聴だと親はショックを受けると思うのです。しかし、私たちは逆に『難聴じゃないか』と思いながら、それでも『難聴じゃない』と言われてきた期間があったので、診断が下ったことで、ようやく療育、教育の方針が決まりました。そういう意味の喜びが上回ったのです」

ことばの学習の遅れを取り戻すため、この日をきっかけに、娘の玲菜さんに本格的にことばを教える日々が始まりました。

こどもの将来のためにことばを教えたい

この動画は3年前に撮影された、吉岡さんが玲菜さんにことばを教えている様子です。
「つよい、のはんたいは、よわい」という文章の発音を、ひと文字ずつ教えているのです。少し難しい「よ」の発音では、口先をとがらせて「よ」と発音した上で、その形をまねさせます。

聴覚が正常な子どもであれば、耳からことばがシャワーのように入ってきて浴びるように覚えますが、玲菜さんには、それはかなわないことです。

このため吉岡さんは、写真とことばを組み合わせた自作の単語カードを作り、玲菜さんに教えました。

単語カードは市販のものもありますが、子どもは、カードに描かれた「洗濯機」と、家にあるドラム式の「洗濯機」の形が違うだけで、同じ「洗濯機」とは認識してくれません。身の回りのものでカードを作ったほうが効果的だと考えたのです。

吉岡さん
「こうしたカードに加えて、家の中にあるあらゆるものに名前を書いた紙を直接貼り付けていくこともしていました。そうした作業は非常に大変で、仕事もままならない時期もありました。でも、仕事の時間を削ってでも、この子のために将来のためにことばを教えたいと思いました」

アプリを開発 “楽しんで覚える”が可能に

さらに、大学で講師を務める吉岡さんは、専門の情報工学の知識を活用し、学習カードを大きく進化させます。スマホを活用したアプリ化です。

使い方は簡単です。覚えたいものを撮影し、ことばを打ち込むだけ。スマホを使って撮影できるので、身近にあるものを次々にアプリに取り込み、覚えることが出来ます。

カードには「仲間分け」の機能を持たせました。例えば「電話」。「スマホ」や「親機」、「子機」、「公衆電話」など、1つのことばに対して、いくつもの写真を登録できるようにしたことで、「電話の仲間」を一目で分かるようにしました。

吉岡さんは、玲菜さんが楽しそうにしているときにアプリを積極的に使うようにしました。遊園地でうれしそうに乗っていた「観覧車」、入場するときに手にした「チケット」。さらに公園で遊ぶことが大好きな玲菜さんが興味を示した「ちょうちょう」や「とんぼ」などはすぐに撮影してアプリに取り込みました。楽しい記憶に伴うことばは、記憶に定着しやすいと考えているからです。

吉岡さん
「記憶に定着しやすいのは体験を伴うことです。どこか遊びに行ったりとか、ふだんの生活の中で何か楽しいことがあったりしたら絵日記にしてことばにする。このアプリで使う時も同じで、一緒にお散歩に行ったり、旅行に行ったりしたときに、そこで起きたことを写真で撮って教材にしてしまうと、本人も楽しかった記憶とともに覚えてくれるので定着しやすいんです」

7歳の誕生日 アプリを無料配信

吉岡さんは、開発会社と協力して制作したこのアプリを「Vocagraphy!」(ボキャグラフィー)と名付けました。「vocabulary」(語彙)と「photography」(写真撮影)をあわせた造語です。そして、ことばを教えるのに、日々大変な労力を注いでいる親子に使ってもらいたいと、去年3月、無料で配信を始めました。その日は、玲菜さんの7歳の誕生日でした。

吉岡さん
「このアプリは、娘が生まれてこなければ、開発することはありませんでした。多くの苦労を親子で乗り越えようとしたからこそ生まれたアプリです。娘の成長を願うとともに、同じような境遇の家族を支えたいと思います」

難聴と診断されてからおよそ4年。
玲菜さんは、父親が作ったカードやアプリでことばを学んだことに加え、いまは人工内耳を装着していることで、騒がしくない場所では、日常の会話にはほとんど支障はなくなりました。
吉岡さんが、「夢のまた夢」と語っていた子どもだけで遊べるような日々が、現実のものとなりました。

通学路で「ことば」と「安全」を覚える

都内在住の坂本春香さん(35)と小学校に入学したばかりの娘の夏帆さん(6)です。アプリの使い方を見せてもらいました。夏帆さんは生まれたときから難聴で、いまは人工内耳を装着しています。ふだんの会話に大きな支障はありませんが、聞き取りづらいことばもあるため、ことばの勉強は欠かせません。

夏帆さんはこの日、母親と通学路を歩きました。アプリが入ったスマホで目にしたものを次々に撮影していきます。

春香さん

なっちゃんは今、どこを歩いているんだっけ?

夏帆さん

ほどう

春香さん
春香さん

歩道を歩くんだよね。この白い線ってなんて言うんだっけ?

夏帆さん
夏帆さん

(首を振る)

春香さん
春香さん

白い線は「はくせん」っていうんだよ。写真撮っておいて!はくせんの内側を歩くんだよ

春香さんは、ことばといっしょに、安全に通学するために必要なことを教えていました。

続いて見えてきたのは、正面が学校のフェンスになっているつきあたり。このつきあたりを右に曲がらないと学校にはいけません。春香さんはここで「つきあたり」ということばを教えようとします。

春香さん
春香さん

こうやってまっすぐ進んで行き止まってばぁーんと(ぶつかるところは)なんて言うんだっけ?

夏帆さん
夏帆さん

忘れちゃった!

春香さん
春香さん

ええっ、もう忘れちゃったの。はや~い

 

実は2人は、わずか数分前に別のつきあたりを左に曲がったばかり。さっき教えたことばだったのです。でも、子どもには少し難しいことばのようです。

春香さん
春香さん

なんて言うんだっけ?つき…つき…

夏帆さん
夏帆さん

つき……

春香さん
春香さん

つきあたり。覚えにくいね。はい、ここ写真撮って!

 

春香さんと夏帆さんは、撮影した写真に「つきあたり」と入力しました。他の場所で撮影したつきあたりも同じフォルダーに入れることで、ことばの意味を視覚的に覚えます。

坂本春香さん
「子どもって写真撮るのが好きですよね。自分が撮った写真が使えるのも楽しいポイントみたいで、いつも自分で撮った写真に文字を入力するのを楽しんでいます。もともとは『言葉の教室』とかで、『まずはお母さんが絵を描いてそれにことばを添えてカードを作って』と言われて、ただでさえ忙しいのに、しかも絵をかくの苦手なのに、絵をかけってと言うところから始まる、途方に暮れるあの体験を知っているから、このアプリはすごい強力な味方という感じです」

取材後記

ことばを学習をするのではなく、暮らしの中でことばを覚える。
吉岡さんが開発したアプリは、そんな当たり前のことを、難聴の子どもにも可能にしました。吉岡さんは勤務する東京工科大学で、今年度からデジタルの技術を活用して聴覚障害者を支援するための研究室を立ち上げました。
「聞こえる、聞こえないに関わらず、同じように生活できる社会をつくりたい」
吉岡さんの思いは、共感を呼び、広がろうとしています。

アプリ「Vocagraphy!」について、詳しくはこちらからご覧になれます。
http://www.blw.jp/

  • 桑原阿希

    首都圏局 記者

    桑原阿希

    富山局を経て、2020年から首都圏局。 これまで新生児の聴覚検査の 費用補助の課題も取材。

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