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岩手 大槌町 震災の津波に流された男の愛した子守唄は今

  • 2021年3月13日

今から16年前、当時入局4年目のカメラマンだった私は、岩手県内の地域の話題を取材していました。その時、太平洋に面する大槌町で、地元に伝わる子守唄の伝承に尽力する男性に出会いました。ギター片手に、どこか懐かしいメロディーをゆったりとしたリズムで奏でる姿にひかれ、カメラを回したのです。しかし、その男性は東日本大震災の津波で流され行方不明になりました。
あれから10年。彼が愛した子守唄は今、どうなっているのだろう。取材を始めたところ、東京に住むある若者と出会うことができました。 
(報道局 映像センター/カメラマン 上田敬一郎)

大槌を愛した心優しき男の子守唄

その男性の名は、山崎正通さん(当時55歳)。雑貨店を営むかたわら郷土の歴史を研究し、大槌町に古くから伝わる子守唄を伝える活動をしていました。子守唄は、のどかな風景やユーモラスな人の営みを題材にしたもので、正通さんがつま弾くギターのどこかさみしげな音色と懐かしいメロディーが、小さな子どもをあやすようなリズムに乗って奏でられる心地よさに、私は強くひかれたのです。

山崎正通さんが歌い残した「吉里吉里地方の子守唄」

「吉里吉里地方の子守唄」

ねんねろねろねーろ ねんねろやーえ
ねんねろ子守を 誰ぁかもたーあ

誰もかまねーが 寝ずくりだーあ

ねんねろ猫の尻(けっつ) 蟹コがはさんだーあ
ねんねろねろねーろ ねんねろやーえ

あれに見えるは 誰ぁ嫁だーあ
吉里吉里善兵衛さーま 孫ぁ嫁だーあ

ねんねろねろねーろ ねんねろやーえ
ねんねろねろねーろ ねんねろやーえ

誰が子守をいじめたの
誰もいじめはしないが、ぐずってしまって、なかなか眠ってくれないの
猫のお尻を蟹がはさんだの
あそこに見えるのは誰のお嫁さんですか
吉里吉里善兵衛さんの孫の嫁です

「子どもたちが大きくなったときに歌ってくれたら本望です」

ギター片手に学校を訪れてこの子守唄を弾き語っていた正通さんは、私にこう語ってくれました。当時駆け出しのカメラマンだった私は、そんな正通さんの姿をファインダー越しに必死に追いかけ、番組を制作しました。その後、私は転勤。正通さんの子守唄は、いつしか私にとっても思い出のメロディーとなっていました。

2011年3月11日 行方不明に

2011年3月11日、東日本大震災が発生。
当時、東京に勤務していた私は、現地の地理に詳しいことからすぐに被災地の取材に行くよう命じられました。現地に向かう車の中で正通さんの顔が頭に浮かびました。正通さんの身を案じながら「あの子守唄が被災地に響けば癒やされる人もいるだろう」と、そんな思いを抱きながらようやくたどり着いた大槌で聞かされたのは、正通さんが行方不明になっているという事実。町は変わり果て、正通さんの自宅兼雑貨店があった付近の建物は、ことごとく流されていました。

「おぉーい!!」

弟の守峰さんが兄を探していましたが、愛用のギターや譜面すら見つけることができませんでした。
瓦礫の山をどかしては兄の痕跡を探す守峰さん。私は、何もできない自分の無力さの中で、カメラマンとして目の前の光景を伝えなければならないという思いにすがるように記録を続けました。でも、この日の映像は手元に置いたまま震災から10年たつ今年まで見直すことができませんでした。

震災10年 3月2日の放送より

子守唄は歌い継がれているのだろうか

そして、震災から10年。
町には海と人々を遮る巨大な堤防が建設され、住宅地はかさ上げが進みました。以前の面影がなくなったと言うべきなのか、それとも復興が進んだと表現すべきなのか。逡巡する思いの中で、あることを確かめたいという気持ちが、私の中で大きくなっていました。

「正通さんが愛した、あの子守唄は歌い継がれているのだろうか?」

大槌町の関係者に電話やメールでたずねてみました。

「今覚えている人はいないのでは」

「若い人で知っている人はいない」

「サビの部分だけなら聞いたことがある」

私は、町を離れた人にも、つてをたどって聞いてみました。

これは大槌のメロディーですよ

しばらくすると、東京に住む大槌出身の音楽家にたどり着きました。臺隆裕さん(26)。東京を中心に活動する若きジャズトランペッターです。実家は正通さんの家の近所で、震災前は正通さんが営む雑貨店にもよく出入りしていたといいます。ただ、「子守唄のことははっきりと覚えていない」とのことでした。そこで私が取材し、震災前に放送した正通さんを紹介するニュース番組の映像を見てもらいました。すると、臺さんの表情が変わりました。

「これはまさに大槌のメロディーですよ」

私が感じた正通さんの子守唄の魅力を、プロのミュージシャンである臺さんは一瞬で見抜き、こう語りました。

臺隆裕さん
「3つのコードだけで作られていて、まるでブルースです。暗い雰囲気の中に明るいコードを織り交ぜてユーモアも表現しています。芯が強くて根は明るい⼤槌の⼈っぽさがにじみ出ています」

正通さんが伝えようとしていた子守唄は、そこに暮らす人たちの営みそのものを伝える唄だったのです。10年前に正通さんにひかれてカメラを回した理由が、今になってより深く理解できた気がしました。

15歳当時の臺さん

実は、臺さん自身も15歳で震災を経験。家族は無事でしたが家を失い大きな被害を受けました。そんな時に励ましてくれたのが音楽で、次はその音楽で自分が誰かを励ましたいと考え、音楽の世界に飛び込んだそうです。
その震災から10年たって聞いたのが、正通さんの奏でる「ふるさと大槌のメロディー」でした。

臺さん
「10年たってあの山崎さんからメッセージを受け取ることになるとは思いませんでした。山崎さんがやろうとしていたことを⾃分なりに咀嚼して形にしたいです」

正通さんの思いが、次の世代の若者に引き継がれた瞬間でした。

新たな命を吹き込まれる子守唄

臺さんは、毎年3月11日に大槌で開かれる追悼コンサートで披露することを目標に作業を続けました。正通さんのギターと歌というシンプルな編成から、自身が取り組むジャズの要素を取り入れ、これからの大槌を担う世代も楽しんで聞けるように編曲しました。素朴な子守唄のメロディーに現代的な響きが加えられるその作業は、正通さんと臺さんのセッションのようにも思えました。

しかし、残念ながらコロナ禍のため大槌での披露は断念せざるを得ませんでした。臺さんは、演奏の様子を撮影してネットで公開することにしました。2月、都内のスタジオに仲間たちが集まり、様々なアレンジを試しながら2時間近くも演奏し、無事収録を終えました。

臺隆裕さん率いるバンド「TSUCHINOMI」による演奏

臺さん
「もう会えない⼭崎さんの⾔葉を10年後の僕が聞いて形にできたことに⼤きな意味を感じました。⼤槌の⾵景は変わってしまったけど、⼭崎さんも⾃分も共通しているのは⼈が好きなこと。好きな⼈が住むあの町のためにこの曲を語り継いでいきたいです」

震災を超えて受け継がれた子守唄

この演奏の収録後、私は10年ぶりに山崎さんの弟・守峰さんと、お墓の前で再会することができました。

守峰さん
「兄貴、本望だったんじゃないかな。好きなことやりきって。亡くなっても皆さんにつないでもらっているんだなという感じです」

私は手を合わせ、スマホに収録した臺さんの新しい「子守唄」を流しました。震災を超えて受け継がれた子守唄の旋律が、再び東北の空に響きました。
カメラマンとして、大槌を愛しふるさとの子守唄を奏でる2人の男たちの橋渡しが出来たとしたなら、これ以上の幸せはないと感じました。

  • 上田敬一郎

    報道局 映像センター カメラマン

    上田敬一郎

    2001年入局 盛岡局、大阪局などを経て2018年から現所属。スポーツを中心にニュース、ドキュメンタリーの取材を手がける。

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