「ぼく、死んじゃうのかな?」
東京で会社員をしていた男性は、除染のボランティアに行った福島県で小学生からこう言われ、福島の人たちの支えになりたいと、会社を辞めて医師を目指しました。
最大震度6強の揺れ、帰宅困難者、液状化。テレビで目にした大津波と原発事故。東日本大震災が起きた10年前の3月11日を境に、首都圏に暮らしていた人たちの中には、生き方を大きく変えた人たちがいました。
(首都圏局/ディレクター 森田徹)
「地震が来て周りがざわざわし始めて、そのあとすごく強くなって、ちょっとこれやばいなって」
地震発生の瞬間をこう振り返るのは、茂藤優司さん(当時28)は、東京・品川区にある電子機器メーカーで開発の仕事をしていました。
首都圏の交通機関が麻痺する中、深夜2時過ぎになんとか帰宅。翌日、テレビに映し出された惨状に釘付けになったといいます。
茂藤優司さん
「ぼくには水や食料もありましたが、それでも不安でした。ましてや津波で家が流された、家族と連絡とれない…どれだけ不安だったかと思うと何かせずにはいられなかったです」
会社員だった頃
茂藤さんは小学生のころ、苦しむ人を助けられる仕事に憧れて、医者になることを夢見たことがあるそうです。
しかし、医学部への進学は自分には難しいと感じ一般企業に就職しました。
震災が起きた直後、現地にかけつけようと知人に相談にすると、思わぬ言葉が帰ってきました。
「お前一人が行っても何もできない」
茂藤優司さん
「お前一人が行ったって何もできないから今行くべきじゃないって言われたんです。まさか行くことを否定されるとは思ってなかったので。本当に何もできないんだなと。無力だなと」
震災から1年が経ったころ、茂藤さんは、福島市内でボランティアを募集していることを知り、休日を使って、思い切って飛び込みました。
除染作業をする茂藤さん
参加したのは、道路や住宅地などで汚染された土を取り除く除染ボランティアです。茂藤さんは毎月福島に通い土地の放射線量を計測する作業にあたっていました。
ある日、通学路で作業していたときに地元の小学生がつぶやいたひと言に衝撃を受けたといいます。
「ぼく、死んじゃうのかな?」
茂藤優司さん
「ぼく、死んじゃうのかな?っていうような話をしたんです。(放射線量は)きっとそんなことはないだろうっていう数字ではあるんですけど、なんて答えたらいいかも分からなくて…。小さい子なりにそこまで思っているんだな、そこに暮らしている人にはやっぱり大きなことなんだなって」
「苦しむ人の力になりたい」と強く思った茂藤さん。
幼い頃に抱いた「医師」という職業につき、福島の人たちの支えになりたいと考えるようになりました。
震災翌年の8月、茂藤さんは29歳で会社を退職し、医学部入学を目指して受験勉強を始めました。
近所の図書館で1日10時間以上の猛勉強をしましたが、一年目に受験した3つの大学はすべて不合格。それでもあきらめず、受験勉強を始めて1年半が経った2014年春、ついに国立大学の医学部に合格しました。
茂藤優司さん
「とりあえずひと安心でした。震災があって、僕の一生をかけるべきことが見つかった」
去年、大学を卒業した茂藤さんは福島県南相馬市に移住しました。研修医として選んだのは、原発に近い南相馬市立総合病院です。
あの日から10年。38歳になった茂藤さんは、2児の父親になりました。
子どもたちは震災のことは何も知りませんが、自分の選択には大きな意味があったと感じています。
茂藤優司さん
「ここで生活したことが、子どもたちにとって震災を考えるきっかけにはなってくれると思います。あと、僕自身がどうやって今の仕事についたのか伝えることも、もうひとつのきっかけになるのかな」
震災を機に、「生きる力を高めたい」と考えた人にも出会いました。
東京・狛江市に暮らしていた能見奈津子さん(当時26)は、3月11日、東京駅の百貨店の地下で野菜の販売をしていました。
能見奈津子さん
「激しくぐわーっと揺れて、電車とか全部麻痺してストップ。待てども待てども復旧するっていうアナウンスもなく…とりあえず外に出て夜の街を歩き出したんですよ」
自宅までは20キロの距離。歩いて帰宅する途中、異様な光景を目にしたのを今でも覚えています。
能見奈津子さん
「食べ物とかあればと思ってコンビニに寄ったんですけど無くなっていて。東京は一見すごく便利で不自由なく暮らせて、電力も食べ物も何でもあるような感じですけど、歯車が止まれば全てが麻痺してしまうし、便利さの裏側には弱さがあるというのを本当に痛感して、生きる力を自らつけないとダメだなって思いました」
震災の翌年、能見さんは一念発起し、東京から長野の山村に移住しました。
空き家となっていた古民家を改修し、村の人に教わりながら薪割りや風呂焚きも自分の力で出来るようになりました。自分が食べるための米や野菜も作っています。
能見奈津子さん
「自分が食べる分は十分あって、いざ本当に電気とかガスが止まってもなんとかなる、生きていけるっていう安心感はすごくあります」
去年、村の男性と結婚し、新たな暮らしが始まっています。
震災で、生きることの意味を問われたという人もいます。
坪井博一さん(当時38)は、豊洲にある会社で働いていたときに地震が起きました。
あまりの揺れのひどさに、妻と2歳の娘が心配になり、会社に帰宅したいと申し出ましたが、認められなかったといいます。
坪井博一さん
「今日の給料いらないのですぐに帰してくださいって言ったんですけど、終業まで待てと。すぐに帰すわけにはいかないと。その状況が本当に信じられませんでした」
子どものためにも頑張らなくてはと仕事漬けの日々を送っていた
坪井さんは、終業後3時間以上歩いて帰宅し、ようやく家族の無事を確認することができました。
この時、会社人間として歩んできた人生に疑問を抱きました。
坪井博一さん
「子どもが生まれたときに、もっと仕事を頑張らなきゃってすごく思ったんですよ。当時は朝から晩まで働いて、残業もすごくて、休日出勤も出てこないとダメだぞ、みたいな。でも、そんな時に東日本大震災が起きて、やっぱりこれじゃダメなんじゃないかなと思いました」
坪井さんは、会社を辞め自宅でできる仕事を始めました。子どもたちの成長を間近で見守るためです。
「おかえり」 「ありがとう」
この10年間、子どもたちと交わしてきたささやかなやりとりが、かけがえのないものだといいます。
震災後、地域の父親に向けた子育て支援活動にも取り組むようになりました。
坪井博一さん
「災害って突然で、突然人生が終わる可能性もある。だったらやっぱり後悔したくない。生き方をもう一回考えてみようと。3月11日は、そう問われた日だと思っています」
東日本大震災が起きた3月11日、福岡の大学に通う学生だった私は、揺れを体感することもなく、夜になって駅前で配られていた新聞の号外を手に取るまで、東日本で大変なことが起きていることを知りませんでした。
その後、NHK盛岡放送局に赴任し、あの日の揺れすら体感していない自分に後ろめたさを感じながらも「被災した人たちの声を全国に伝えねば」という先輩たちの姿勢に学びながら取材にあたってきました。
東日本大震災は、「被災地/被災者」という言葉とともに語られてきたように思います。岩手にいたころ、“一括りにできない”ことへの違和感を覚えながらも、私自身もその言葉を放送で使っていました。
しかし今回、首都圏の人たちの10年を取材する中で、そもそも自分と相手を切り分けようとするその言葉こそ、震災を「他人事」にさせてきたのではないかと感じるようになりました。
津波で家族を亡くした人や原発事故で故郷を追われた人たちを取材し、伝え続けていくことには大切な意味があると思います。他者の耐えがたい痛みを少しでも想像しようとつとめ、自分に引き寄せていく行為がなければあっというまに震災は過去の出来事になってしまいます。
同時に、「3月11日、自分は何が問われたのか?」あの日の自分の中にある物語に目を向けて考えてみることもまた、東日本大震災を風化させないために必要なことなのではないかと思います。