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中野に刑務所が? 残された“門”が現代に問いかけるもの

  • 2020年12月30日

えっ!?小学校が移設される場所が、昔は刑務所だったなんて…。中野区が12月、戦時中に思想犯などが収監されていた刑務所の跡地を国から買い取り、小学校を移設することを決めたと聞いて、中野に刑務所があったことを初めて知りました。どのような刑務所だったのか、公園の片隅に残されたレンガ建築の門を訪ねると、ものが言いにくい時代に命がけで発信を続けたある哲学者の生涯に触れました。
(首都圏局/記者・山内拓磨)

公園の片隅にたたずむものは…

東京・中野区の区民の憩いの場になっている「平和の森公園」の片隅に、高さ9メートルほどの赤レンガの建築物があります。かつてあった刑務所の門です。

この門は大正期の建築家・後藤慶二氏が設計し、大正4年(1915年)に建てられたものです。西欧の模倣ではなく、近代の新たな建築様式を模索し始めた時期の建築物で、いまも良い状態で保存されています。 

地元に住む建築士の十川百合子さんに案内してもらいました。

十川さん
105年前に作られたもので、レンガ建築の最高峰と言われました。37年前に刑務所が閉鎖されて建物のほとんどは取り壊され、今の公園になりました。当時のまま残されているのは、この門だけです。

 

記者
どのような人がこの刑務所に入っていたのですか?

 

十川さん
社会運動家や宗教家、文学者などです。大杉栄、亀井勝一郎、戸田城聖や小林多喜二も入っていました。大正14年に治安維持法ができると、主導的な立場の思想家たちが続々とここに入っていったんです。この門を出ることができた人もいますが、出られなかった人もいます。
時代ゆえに暗い歴史になってしまったわけですけれど、この門は近代日本の歴史を伝える大事な生き証人なんです。

思想が取り締まられた時代

大正14年に施行された治安維持法。当初は共産主義の運動を押さえ込むことが目的でしたが、その後、国家の方針に従わないという理由で取り締まることができるようになり、多くの学者や文化人も思想犯や政治犯として検挙されました。太平洋戦争が始まった昭和16年の5月には、「予防拘禁制度」が導入され、刑期を終えても「再犯の恐れがある」として刑務所内に留め置かれた人もいました。

旧中野刑務所と表門

中野の刑務所に収監されたうちの1人に改めて注目すべきだという専門家を訪ねました。日本女子大学の田中久文教授です。 

田中久文 教授
「いろんな有名な方がいますけど、私が1番注目するのは三木清です」

ものが言いにくい時代に闘った哲学者・三木清

哲学者の三木清は、京都帝国大学で哲学者の西田幾多郎のもとで学び、ドイツに留学し研究を深めます。帰国してから法政大学で教べんを執っていましたが、昭和5年、知人に渡した金が共産党の資金源になったとして検挙され、中野の刑務所に送られました。

その後、刑務所を出た三木は、首相も務めた近衛文麿のブレーンとして活動するかたわら、新聞や雑誌で政府に対する批判的な意見を発信し続けます。

三木が連載を続けていた新聞記事では、遠回しな表現や難解なものもありますが、次第にものが言いにくくなる中、三木なりの“スタンス”で一貫して批判的な視点は欠かしていないように感じられます。

青年将校らがクーデターを企てた、二・二六事件の起きた昭和11年の記事
「権威を有しない権力は暴力に等しい。権力の権威は大衆性を基礎として考えられる。大衆の意志の現れるためには言論の自由が許されねばならぬ」

昭和13年 国家総動員法が成立した昭和13年の記事
「政府の政策が何でも国策と呼ばれ、従って神聖化され、これを批評することはすべて国策に反することであるかのように考えられる傾向がありはしないであろうか。むしろ個々の政策に対して正しい批評を行うことが、真に国策に協力する所以である」

昭和14年の記事
「本来からいえば、私など、政治について論じなくてもいいのだし、また論じたくもないのである。しかるに社会の現実に触れると、これでいいのか、これでいいのか、と思わざるを得ず、またしても筆をとらねばならぬ気になるのである。そしてそのあらゆる場合において政治の貧困ということに突き当たる」

 

田中 教授
「三木は固定化したイデオロギーで批判するのではなくて、常に現実の中に入っていって、“内側から批判する”ということをしていました。1度刑務所に入ったことで、法政大学は辞めざるを得なくなりましたが、彼なりのスタンスで当時の政治の状況を批判し続けたと思うんです」

しかし、こうした三木の批判は、時代がさらに厳しくなる中で政府や軍部からにらまれるようになります。

“狂人の真似をしなければ、正しいことが言えない”

この頃、三木がつけていた日記が、かつて教べんをとった法政大学に残されていました。

「杉並署の特高の刑事が来た」
「狂人の真似をしなければ、正しいことが言えない時世かもしれない」

日記からは、二・二六事件が起きた日に、三木は「帝都の騒擾を避けるため」として東京を離れ、妻の実家の三重県に身を寄せていたこともわかりました。

田中 教授
「三木は、自分が付け狙われていたというのは知っていたと思うんですね。今日からは想像がつかないような難しい時代の中で、まさに命がけで発信していたということだと思います」

三木はその後も批判を続けますが、昭和20年、治安維持法違反に問われた作家の知人に服を渡すなどしてかくまったとして検挙。再び中野の刑務所に送られ、獄死しました。敗戦から1か月が経った、昭和20年9月のことでした。三木の死をきっかけに、GHQが治安維持法の廃止を急いだとも言われています。

“臨危不変” 自由を奪われた時代でも

なぜ、三木は身の危険を感じながらも批判を続けたのか。ふるさとの資料館に、三木が最後まで大切にしていた額が残されていました。

「臨危不変」
どのような状況にあっても変節しない。

大学時代の恩師である哲学者の西田幾多郎から送られた額を見つめながら、三木は「発信し続けたい」という思いを奮い立たせたのでしょうか。

田中教授は、かつて学者や文化人が言論や自由を奪われた時代があったことに、もう一度、目を向けてほしいと話しています。

田中 教授
「どうやったら本当に根っこのあるデモクラシーが作れるのか、民衆の中に根ざしたデモクラシーとはどうあるべきなのかというのをもう一度考え直し捉え直す、それが三木の狙いだったと思います。何かに縛られないで自由に議論して新しいものをつくっていくべきで、言論の自由というのはその大前提であり、それを抑圧するようなものはよくないということだと思うんですね。だから言論の自由というのを最後まで問題にしていたのだと思います。現在の日本でも決して古いものではない感じがします」


中野の街にたたずむ、時代を見つめてきた赤レンガの門。現代を生きる私たちに、大切なことを問いかけています。

刑務所の跡地を買い取った中野区は、門を保存したい意向ですが、どのように保存するのかはこれから議論されるということです。

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