芸者さんが行き来したことから芸者小道と呼ばれる
今回訪れたのは、新宿・神楽坂にある熱海湯。飲食店などが建ち並ぶ表通りから江戸時代の面影を残す小道を通りぬけると、そのいかにもな建物はある。
開店前に店の外観を撮影していると、一人の男性が声をかけてきた。
「この銭湯、昔からあってさ、よくドラマとかの撮影でも使われたんだよ」
近所で飲食店を営んでいるという男性。コロナの影響を尋ねると、ぼやくように答えてくれた。
「もう夜は誰も歩いていないから、夜の営業はやめて昼だけにしているよ。街が死んじゃったみたいだよ」
中に入ると、店主の吉田浩さん(77)と妻の明美さん(68)が出迎えてくれた。2代目としておよそ50年、夫婦で店を切り盛りしてきた。
開店前の浴室の掃除はこれまで浩さんに任せていた。でも新型コロナが流行して以降、さらに丁寧に掃除しようと2人で作業をするようになったそうだ。
明美さん
「これまで以上に丁寧に掃除するようになったから、掃除にかかる時間も30分くらい長くなったんだけど、その分お客さんからは『キレイになったね』と声をかけてもらえるようになったのよ」
銭湯の経営のことを訪ねると、一転して表情は曇ってしまう。
明美さん
「コロナの前は一日130人くらいお客さんが来てくれていたけど、ひどいときは半分も来なくなってしまったの。正直店を休もうと思ったけど、休んだら休んだで『熱海湯はコロナになったんじゃないか』とデマが流れるのもすごい嫌だった。今は少しずつお客さんが戻ってきてくれているけど、それでも100人いかない。ずっと来てくれていた年配の常連さんでも、家族から『人の集まるところに行かないように』って言われているみたい。近くに大学があるけど学生さんも来なくなったし、会社帰りのサラリーマンの人も減ったわ。いろんなことがオンラインになってみんな外に出なくなったのかしらね」
ふと、明美さんが番台からあるものを取り出した。Welcome to TOKYOと書かれたシールだった。今年開かれる予定だった東京五輪の際に日本の文化を海外のお客さんにも知ってもらおうと準備をしていたものだ。延期になってしまったため、貼れずにいるのだという。以前はちらほらいた外国人のお客さんも、いまはさっぱりだという。
明美さんとの話に夢中になり、はたと気がつくと、浩さんは裏手で大粒の汗をかきながら釜にまきをくべていた。
「顔は恥ずかしいから」と撮影は手のアップだけ
新宿区には20軒の銭湯があるが、まきを使っている銭湯は今では熱海湯だけだという。冬場だと1日にくべるまきの量はなんと300キロ。77歳の体にはなかなかのきつい作業だと思うが、熱さを求めてやってくるお客さんのため、いまだにまきにこだわっているのだそうだ。
午後2時45分開店。店を開くと同時に何人かの常連さんがのれんをくぐってきた。みんな顔見知りのようで、ひとしきり汗を流したあと、脱衣場で涼みながら距離をとって近況を話し合う。銭湯ディスタンスだ。
「東京都の感染者はきょうは149人だね」
「次の連休でまた増えちゃうんじゃないかな」
飛び交う話題はもっぱら新型コロナが中心のようだ。
30年以上通っているという70歳の男性に話を聞いてみた。
「銭湯は体をきれいにするところだし、換気も含めて感染対策もしっかりしているから安心してきているよ。家にずっといるとこもっちゃうけど、ここに来ればみんなと話せるし、家よりも家庭的な感じが好きで通っているよ」
脱衣所には注意書きも
午後4時すぎ。繰り返しお湯につかって銭湯を楽しんでいる男性がいたので声をかけてみた。
「きょうは思い切って来てみたんです」
聞けば勤務先がこの近くにあり、通勤途中にある熱海湯はいつも気になっていたという。
「むちゃくちゃお湯が熱かったんですけど、気合い入れて入りました。こういう昔ながらの銭湯が好きなので、無くなってほしくないですね」
番台からお客さんに声をかける明美さんの表情は明るい。おしゃれな手作りマスクを着けていた。
お客さんが銭湯を求めているだけではなく、明美さんもお客さんから支えられている。熱海湯が続くシンプルな理由だ。
午後6時、本来なら混み合っている時間帯だろう。しかしこの日はお客さんが少ないのか、男湯には2、3人しか人がいない。私もちょっと入ってみようかと、服を脱ぎ、体を洗って湯船に入ろうとした。
が、熱い。湯が私には熱すぎるのだ。まきのパワーを思い知った。
一旦足を抜き、洗い場で水をかけて気合いを入れ直す。先ほどのお客さんが気合いを入れたというのはこのことかも・・・とふと思う。かけ湯で体を慣らし、もう一度。
カメラマンから見た湯船
熱いには熱いが、慣れると気持ちよさがじんわりと湧いてきた。とはいえやっぱり熱いため、すぐ上がってしまうのだが、そのあと水をかぶって体を冷やすとまた熱いお湯が恋しくなるではないか。この熱い冷たいループにすっかりはまってしまった私は、結局4回もお風呂に入ってしまった。なんという爽快感だろう。これも記事に書こう。
湯上りの1本 140円でした
午後7時をまわると、熱海湯は別の顔を見せ始めた。会社帰りのサラリーマンの中に、ワイシャツを脱ぐや運動着に着替え始めた人がいたのだ。思わず声をかけると、これから仲間と一緒にランニングをして、銭湯で汗を流したあとに1杯飲みに行くとのことだった。
ランニング人気の高まりと共に、ランナーが活動の拠点にする施設「ランステ」が各地に整備されている。職場や旅先で走って汗を流したいときに着替えをしたりシャワーを浴びたりするための施設だが、街中にある銭湯をこうして利用する人も増えているそうだ。
さっそうと出かけていくその男性を見送って銭湯に戻ると、楽しそうに話す2人の男性の姿があった。声をかけてみると、もともと知り合いではなかったけれど、2人ともプロ野球が好きで、ここで会ったときにはお互いのファンのチーム事情を話し合うようになったとのこと。今はお互いに、応援しているチームが下位に沈んでいるため、かつての黄金期の話で盛り上がっているそうだ。そのひとりの男性が別れ際に言った。
「銭湯にせっかく来るのに、体を洗うだけじゃつまらないじゃないですか」
午後10時、男湯にお客さんの姿はなくなった。浩さんがポツンと番台の横に立つ。今は閉店時間を1時間早めて24時には店を閉めている。
取材を終えて熱海湯をあとにしながら、出会った人たちの言葉を思い返した。それぞれにとって、社交の場だったり、情報交換の場だったり、リラックスできる場所だったり・・・ここはみんなの笑顔の交差点のような場所だなと感じた。
新型コロナウイルスは容赦なく私たちの社会のあり方を問い直している。でも時折、何が本当に大切なのか分からなくなる時がある。そうした曖昧な日々を過ごす中でも、銭湯を心待ちにしている人たちのために、そしてその人たちから力をもらって働き続ける吉田さん夫婦の笑顔がこれからも続いてほしいと願いながら、静かな通りを歩いた。