「何丁目」の地域まで分け入り、首都直下地震のリスクや命を守るヒントをお伝えする「#3丁目の防災」。
初回に取り上げるのは、「東京都大田区羽田3丁目」です。
羽田空港のほど近くにあるこの町。「木密」と呼ばれる木造住宅が密集した地域で、火災の延焼のリスクが高くなっています。
この町を歩き、話を聞いてみると、地域の危険には「戦後の占領政策」と関わりがあることがわかりました。
(首都圏局/記者 直井良介・ディレクター 佐々木雄大)
「大田区羽田3丁目」は、多摩川の河口付近、羽田空港から2キロほど離れた場所にあります。
まず町を歩いてみて感じたのが、道が狭く、住宅がひしめき合うように密集していることです。
道によっては、両手を伸ばせば住宅の壁に手が届くほどの狭さの場所もあります。路地を歩いていると、中型トラックが道を通れず、バックを始めることも。
この町のリスクは、住宅が密集しているため火災が延焼する危険があり、さらに消防車が入りにくいため消火も難しいことです。
次に、町を見下ろせる場所に行ってみます。学校の屋上です。
飛行機が飛び交う羽田空港も見える中、多摩川の堤防から学校まで、ほとんど空いている土地もなく、家が建ち並んでいました。
この場所を案内してもらった、この町に親子6代にわたって住む小山幹雄さんに話を聞くと、「海に近い」ことも心配だと言います。いわゆる「海風」が強いためです。
ここから見るとわかるように、家と家がほとんど重なっている。それに、海風も
強いから、火事になったらひとたまりもないと思います。
今回、羽田3丁目を取材した理由のひとつは、東京都の「地震に関する地域危険度測定調査」で、この町が5つのランクのうち最も危険性が高い「5」に位置づけられているためです。
東京都は、建物の倒壊と火災、それに災害時の活動困難度の3つの指標から、都内の5177の町丁目つまり何丁目の単位で地域の危険度を判定しています。
それを示したのが、次の地図です。
地図の下の方、大田区に加え、23区の東部、それに杉並区、中野区などに、ランク「5」の危険な地域があることがわかります。
また、この危険度は、さらにランク付けもされています。それが20番目までを示した下の表です。羽田3丁目は、14番目に「危険」な町とされています。
地震に関する「総合危険度」ランク | |
---|---|
(1) | 荒川区 町屋4丁目 |
(2) | 足立区 千住 柳町 |
(3) | 荒川区 荒川6丁目 |
(4) | 足立区 千住 大川町 |
(5) | 墨田区 墨田3丁目 |
(6) | 北区 志茂4丁目 |
(7) | 墨田区 京島2丁目 |
(8) | 江東区 北砂4丁目 |
(9) | 大田区 羽田6丁目 |
(10) | 足立区 千住 元町 |
(11) | 足立区 柳原2丁目 |
(12) | 墨田区 押上3丁目 |
(13) | 墨田区 東向島1丁目 |
(14) | 大田区 羽田3丁目 |
(15) | 墨田区 八広3丁目 |
(16) | 江東区 北砂3丁目 |
(17) | 足立区 千住 龍田町 |
(18) | 北区 志茂5丁目 |
(19) | 荒川区 荒川3丁目 |
(20) | 足立区 関原2丁目 |
この地図やランキングは、東京都のホームページで誰でも見ることができます。
それではなぜ、羽田3丁目は、危険とされているのでしょうか。
大田区の担当者は、それを示すのに、下の地図を見せてくれました。
赤やピンクで示されているのが古い木造などの燃えやすい住宅です。一方、青い部分は、鉄筋コンクリートなどの燃えにくい住宅です。地図の南側、つまり羽田3丁目やその周辺には、赤やピンクが多くなっています。
これは、一度火事が起きたときに、延焼を止める建物が少ないことを示します。さらに冒頭で見た道の狭さ、さらに海に近い地盤の悪さも含め、危険度が高くなっているというのです。
大田区担当者
「どこかで一度火がつくと止まらないのがこの地域のリスクです。どこか一か所の対策ではなく町全体に対策をしなければならない難しさがある」
小山幹雄さんは、この地域に住宅が密集している理由がわかるという場所に連れて行ってくれました。
それは、羽田空港に隣接する、京浜急行の「天空橋駅」のバスロータリーにありました。
「旧3町顕彰の碑」と書かれたこの碑。
羽田3丁目からほど近い、羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町の歴史が刻まれています。
終戦後、日本にやってきたGHQが、羽田の飛行場を広げようとこの地区を接収したんです。この碑は、強制退去させられた住民たちが、自分たちが暮らした町を忘れてほしくないと作りました。
地元では“48時間退去”と呼ばれています。
戦後すぐ、GHQが飛行場としてこの地を接収。暮らしていた住民たちを、48時間以内という期限で退去を迫ったのです。
突然、土地を失った人たちの一部が親せきなどを頼り、羽田3丁目周辺に押し寄せました。こうした人たちを小山さんの父親など地区の人は受け入れ、空き地や庭先に家を建てさせたと言います。
その様子は、下の2つの航空写真からも見てとれます。1936年に画面右の地域にあった住宅が、1947年には飛行場となっているのです。
これは、東側の現在の羽田空港のあった地域から、羽田3丁目などの町に多くの人が移り住んだことを示します。
ただ空いてる場所に家を建てたような感じです。普通は区画整理をして家を建てるのが 手順でしょうけど、なにせ時間がないですから。手当たりしだいに掘っ立て小屋でも何でも作って住んだわけです。道もなにも関係ありません。
こうして、羽田地区の「木密」の歴史は始まりました。
羽田3丁目やその周辺では、リスクを抱える一方、戦後、家を寄せ合って混乱を乗り越えてきたのです。
それでは、この地域ではどのような対策を行っているのか。
そのひとつが、住民主導で毎月訓練していることです。
訓練の内容は、消防ポンプを動かすこと。小型のもののため、消防車が入るのが難しい狭い路地の先でも入っていけるのが特徴です。
およそ15年前に購入されたものですが、こまめに整備することで、スムーズに使用できます。日々のメンテナンスなどは、業者に頼まずとも、住民の中で作業が得意な人がやってくれると言います。
参加人数が少ないこともありますが、毎月続けることを心掛けていると言います。なぜ、ここまで地道な取り組みを続けられるのか。
小山さんに聞いてみると、その理由として、この地域の住民同士の結びつきの強さを理由にあげました。そのことを、小山さんは、「下町ならではの“親密感”」と表現しています。
このことは、私が取材しても感じることでした。「木密」と呼ばれるこの場所は、決してリスクがあるというデメリットだけでなく、人と人の距離が近いといういいところもあるということです。それが、羽田3丁目の防災の秘訣かもしれません。
さらに、大田区は、住民と連携して安全な町にするための取り組みを進めています。
具体的には、消防車などが入れる道路幅まで道を拡張する事業や、燃え広がることを防ぐための広場の設置、そして、燃えにくい家への建て替えの推進です。
いずれも、対象になる住民の土地を一部買い取るなど、協力が不可欠で、区と住民が長期的な視点に立って話し合いながら徐々に事業を進めています。
延焼火災のリスクと向き合い住民と行政が協力して進める大田区羽田3丁目の防災。
最後に小山さんに、命を守るために何が大切だと思うか、聞きました。
小山幹雄さん
「皆さんが協力しようという力があるからこそ消防ポンプの訓練ができています。安全安心のまちづくりだというのが一番の目標で、町への愛着があればこそ防災対策を続けることができると思います」
今回立ち上げた、シリーズ「#3丁目の防災」
シリーズでは防災を都道府県や区市町村だけでなく「ひとつひとつの町」にしぼって見ていくことにこだわり、色々な町の防災を取り上げていきます。
この町を取り上げてほしいなどのご要望や、もっとこういうところを調べてほしいなどの要望がありましたら、こちらの投稿フォーム からご意見をお寄せください。