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東日本大震災 当時中学生だった私が記した家族のあの日

  • 2021年2月8日

日記をもとに姉が描いた絵

私「卒業式の準備をしていたらぐらぐら揺れ始め、天井から粉が落ちてきた」
弟「おにぎりを食べていたら地震」
父「高校の職員室で揺れた。6階の踊り場から炎が見えた」

東日本大震災が起きた10年前に、当時中学2年生だった女性が記した日記の一部です。家族は、それぞれ別の場所で激しい揺れに遭遇しました。でも、震災前はそんな当たり前のことすら想像できませんでした。女性は振り返ってこう語ります。
「避難訓練をするのは教室だけど、地震は想定していないところで起きます」
あの日の記録から、これからの備えを考えます。
(首都圏局/ディレクター 横山康博)

10年前の日記 コロナの巣ごもり生活中に発見

この日記は、「あの日の記憶を未来に 首都直下地震“未災地”」と題したキャンペーンで、10年前の震災の記憶を元に、近い将来起こるとされる首都直下地震にどう備えていけばいいのか、投稿を呼びかけたところ、千葉県山武市に住む大学院生、小川美幸さん(24)から提供していただきました。

小川さんは、去年5月、コロナ禍で家にいる時間が長くなった中、部屋の掃除をしているときに、日記を見つけたそうです。

小川美幸さん
「よくテレビ取材とかだと、被害が大きい地域の人がメインに取材が行われて、そういう情報っていうのはよく伝わってきますが、私たちのような、そこまで被害は大きくなかったけれど、震災の影響を受けた地域っていうのはたくさんあって、そこの1人の中学生の当時の様子を知ってもらうことで、何か役に立つこともあるのかなと思いました」

あの日の日記は語る

日記には、当時中学生だった美幸さん、高校生の姉、小学生の妹・弟、祖父母、そして、外で働いていた両親がどこであの日を迎えたのかが淡々と記されています。

幸い誰もけがすることもなく、多くの人が経験した揺れや停電の中の暮らしが記されていますが、その日記を読むと、私たちがあの日・あの時何を感じたか、鮮やかによみがえってきます。そして、近い将来起きるとされる首都直下地震にどう向き合っていけばいいのか、考えさせられます。

日記の1ページ目

※一部を抜粋
3月11日金曜日 PM2:46
美幸 

中学校体育館にて卒業式の前日準備をしているとき、友達と遊んでいたらぐらぐらと揺れ始め、体育館が音を立てて天井から粉が落ちてきた。「卒業証書授与式」の幕がすごく横に揺れていた。



国語のテスト中だった。
ベランダにあったバケツ2つの水のほとんどがこぼれた。
地震後、校庭はたくさん保護者であふれかえった。
看板、電柱、防災無線の柱などが激しく揺れた。時計は2:46で止まったまま。


姉・弟・おばあちゃん
応接間で2人でピアノを弾いていたとき、弟はおにぎりを食べていたら地震。
おばあちゃんと一緒に窓から脱出。ちなみに姉がおばあちゃんを呼び、だっこして脱出。


おじいちゃん
ハウスの周りをしめていた。


お父さん
高校の職員室で揺れた。
となりの校舎の屋上にあるプールの水があふれるのを見た。
6階の踊り場でコスモ石油の炎が見えた。

日記は語る(1) 家族は別々の場所で地震に遭遇

当時、美幸さんは中学2年生。翌日に先輩の卒業式を控え、体育館で紅白幕を壁に貼る作業をしていたそうです。

中学生の美幸さん

「ちょっと友達とふざけていて、クルクル回って遊んでいたんですよ。最初は自分が回っているのかなって思ったのですけど、止まってみても何だか揺れているし。そしたら地面からゴゴゴッと音がして、ああ、地震が、すごく大きな地震が来たなと思って。やっぱりちょっと怖いなというか、ドキドキしていました」

当日の美幸さん
(漫画家の姉 慧さんが日記をもとに描いてくれました)

この日、家族全員が再会できたのは夜8時すぎ。最後に父親が帰ってくるまで不安な時間をすごしました。そのときの気持ちを記録しておきたいと、美幸さんは、家族ひとりひとりがどこでどう地震を体験したか、聞きとって日記に書いたのでした。

訓練はいつも教室だけど…

「家族それぞれが違う場所で地震に遭う」
そんな当たり前のことすら、美幸さんにとって全く想像できていなかったことでした。もし、揺れが少し強かったら。もし、誰かが海岸近くにいたら、家族は無事再会できたのだろうか。
その経験から、小川さんの家族はその後、災害時どう連絡をとりあうのか、また、通信が途絶え連絡手段がなくなったときはどう行動するのかを家族で話し合ったといいます。

連絡がとれない場合は、むやみに互いを探して移動することはかえって危険なため、各自が身の安全を確保して落ち着いて行動すること、そして、祖父母と合流できた家族は必ず一緒に行動すること、などを決めました。みんなで意見を出し合い、避難生活に必要なグッズも揃えました。

「避難訓練をするのはいつも教室だけど、全然想定していなかったところで地震が起きることもあるということに初めて気づいた体験でした。首都直下地震は近い将来起こるといわれているので、起きた時に自分がどう行動するかっていうのを、ふだんから家族と話し合っておく。それは、自分が東日本大震災の当時できなかったこと。家族と話し合っておかなかったことは失敗というか反省している点なので。中学生のときの自分を忘れないようにしたい」

家族はそれぞれの場所であの日を経験

日記は語る(2) 電気がない中で過ごした24時間

日記にはその後、断水と停電で真っ暗な中、一日を過ごしたことも記されていました。

※一部を抜粋
3月11日夜
余震が続いていた。トイレは外、晩ご飯はパン(少し)バナナ。
電気も水もなかったので、ろうそくと懐中電灯だけ。


3月12日(土) 午前6:00ごろ
おきた。
朝ごはんは、焼きそば。携帯用ガスコンロと七輪で調理。
おもちをやいて食べた。ろう下で、あったかかった。

午前9:00ごろ
お母さんが鍋でご飯を、おにぎりを作った。
それを食べておいしかった。レトルトカレーも食べた。

当時の様子を再現してくれました

一番印象的だったと美幸さんが話すのは、電気がともった瞬間です。そのときの気持ちを忘れないように、時刻を午後2時52分と正確に記しました。

午後2:52
電気が回復。
すぐにテレビを見ると、すごい(地震の)映像がたくさんあった。

午後6:00ごろ
晩ごはん。おばあちゃんがゆでたそばを食べた。
あったかいごはんが食べられるということは、こんなに幸せなんだと思った。

「電気が回復した時は多分かなり自分でも、ああ、電気が来たって嬉しくて、時間も克明に何時何分って覚えて書いたんだと思います。やっぱり電気がないと暗くて、それこそなんか心もちょっと滅入ってしまうというか寂しく悲しくなってしまうんですけど、それで電気が来てバッて嬉しくなったんです」

電気の復旧は、一方で、自分たちとの状況とは比べものにならないほど深刻な被害にあっている人たちのことを知った瞬間でした。

「津波の映像がテレビで流れていたんですけど、実際に私の住んでいるところでも『津波が来ますよ』みたいな防災無線が流れていて、自分の地域の沿岸部の状況がどうなのか、その津波の映像を見て、自分の住んでいる地域もこんなふうになってるのかなという思いになって、とても心配でした」

震災を心に 24歳のいまの思い

あれから10年。震災の経験は、小川さんの心の中に残り続けてきたといいます。
高校生のときには、被災した東北の水族館再建のために学校の仲間と募金活動を行いました。そして、スキー合宿で訪れた福島で、除染された土が山積みにされているのを見たことがきっかけで、その解決に役立つ勉強をしたいと分析化学を専攻、研究を続けています。

大学院で学ぶ小川美幸さん 将来は高校の教師に

将来は、高校で理科の教師になることを決めたという小川さん。高校生たちに自分の体験についても伝えていきたいと考えています。
特に今、気になっているのが災害とインターネットの関係です。情報が錯綜する中でいかに正確な情報を手に入れ、命を守っていくのか。そんなことも伝えていければと考えています。

「今、必要な情報っていうのはすぐに得られるんですけど、必要な情報の近くにはちょっと正しくない情報もインターネット上にいっぱいあります。それこそコロナウイルスもそうで、インターネットがある時代だからこそ、震災が起きた時っていうのも必要な情報は自分で見極めなくちゃいけないのかなとは思っています。中学生のときの自分を思い出しながら、防災教育に関わっていけたらと思います」

中学生だった美幸さんが記したあの日の出来事。それは、かけがえのない家族との暮らしが脅かされたことへの驚きと恐れだったのではないでしょうか。その日常を守るための心がけを、10年前の記録は物語っているように思います。

祖父母、両親、兄弟の8人家族(右端が美幸さん)

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