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東日本大震災ツイートマッピング 「あの日」のつぶやきを「いつか」のために

  • 2021年3月11日

Twitterで変わった地図を見つけました。
東日本大震災が発生した2011年3月11日14時46分から24時間以内にTwitterでつぶやかれた文章が位置情報をもとに地図上に表示されているものです。
引きつけられたのは、見たまま感じたままの、誰に向けられているとも知れない素朴な言葉。震災関連のドキュメンタリーやインタビューで見るものとは、全く異質に感じられました。
ここにこそ、「あの日」をさまざまな立場から目の当たりにした人たちの率直な思いが残されているのではないか。そう考えて取材をはじめました。あなたは「あの日」のことを覚えていますか? 
(首都圏局/ディレクター 松田大樹)

"つぶやき×地図” すると…

宮城県七ヶ浜町の高台からのつぶやき

「東日本大震災ツイートマッピング」と名付けられたその地図は、地震発生から24時間以内のつぶやきを地図にしたものです。位置情報がついたつぶやきは約6000にのぼります。
大きな揺れと津波の被害があった東北地方の海沿いでは、つぶやきの分布はまばらです。被害を伝えるつぶやきや、家族の無事を願うつぶやき・・・。切迫した状況が想像できます。
一方、関東地方はつぶやきの数の多さに驚きました。画面を白く覆うほどの書き込みがあります。いまでは不謹慎だと言われてしまいそうなものも。東北と比べ、受け止め方の違いが妙にリアルに感じました。

東京の中心地 地図を埋め尽くすつぶやきの数

“心が写しとられた”あの日のつぶやき

この地図をつくったのは東京大学大学院の渡邉英徳教授です。
白黒写真のカラー化や戦争・災害のアーカイブなどの作品を発表してきました。
震災から10年のタイミングで、自分にできることはないかと考えた結果、この地図をつくることを思いつきました。

リアルな内心がつづられているのは、この10年でTwitterの使い方が大きく変わったことが理由だといいます。

「今はたくさんの人が読んでいて、例えば炎上したりとか、不謹慎だと攻撃をされたりすることを皆さん知っているので、内心をそのまま書くってことはあんまりないんですけど、10年前のツイッターは、当時はまだ本当に感じたことをそのまま書き出す場として機能していました」

「10年前のまさに揺れているときにどんなことを感じたのか、今起きていること、そのまま心の中にあることを書いたんだと思います。当時のツイッターには、その時その時の人々の心が写しとられた状態で残っています。自分が忘れかけていたその日の出来事と接続して、リアルにその時を思い出せるようなトリガーになるものが多かったので、それをより多くの人に伝わりやすい形で提供できないかなって考えたのが、作るきっかけです」

「あの日」のつぶやきから見えてきたもの

渡邉さんは「あの日」のつぶやきから人々の心の動きを読み取ろうとしています。

たとえば、関東圏では大きな駅の周辺に固まってツイートが見られました。
単に人口が多いということではなく、地震後の混乱の中でどう行動するか迷った人々が、心を落ち着ける場所としてとりあえず通勤で使いなれた駅までたどりつき、そこで次の目的地を考えるという行動が見えてきました。
誰に報告する必要もないのに「駅に着いた」とつぶやく、その行為を不安の中でよりどころにしていた人々の状況が想像できると渡邊さんは言います。
また、丁寧に見ていくと、「不安の裏返し」ともとれるような言葉にも気がつきました。

「たとえば『うほ、地震なげえ』っていうツイートがあって、『うほ』ってふだんは言わないはずなんですけど、皆さん想定していない大きなことが起きたとき、つい苦笑いしたりしてしまうことがあると思うんですよね。そういう心境を表しているように読むことができます。『さすがに死ぬかとオモタ』。そういうスラング的な書き方をついついしてしまったり。くだけていたりちょっとコミカルな書き込みは、書くことで不安な気持ちを解消しようとしているんじゃないかなと読みとることができます。環境の激変に対応して、何とか自分の心を平静に保とうとしているからこそ、そのときの気持ちを書き出した。そんな記録がたくさん残されているように僕は読んでいます」

きっかけは自身の経験

この地図をつくるきっかけは、渡邉さん自身が東京で地震を体験したことでした。

京王新線に乗っていた渡邉さん。音楽(松田聖子さんだったそうです)を聴いていたため、最初、揺れには気づきませんでした。
電車は急停車。しばらくしてから電車を降ろされ、笹塚~新宿間の暗いトンネルの中を歩かなければなりませんでした。

渡邉さんが撮影した動画から(2011年3月11日)

強烈な経験。しかし、そのときの心の動きは思い出せません。

「やっぱり動転してたんだと思うんですけれど、現実感がなかったですね。だからどう感じていたのかは、僕も忘れてしまっていて」

どんなことを考えていたのか、どんな行動をしたのか。薄れていってしまう記憶を残すためにはどうすればいいのか考えはじめたといいます。

ひとりひとりが「あの日」の当事者であることを忘れないこと。それが震災の記憶の風化を防ぐのではないか。渡邉さんがつくったのはそのための地図だったのです。

「被害が大きかったのはたしかに東北だが、東京の人も当事者という意識を持っていいのでしょうか?」と私が尋ねると、渡邉さんはこう答えてくれました。

「家が流されたわけでも、肉親が亡くなったわけでもないので、被災者ですっていうことを言いづらいと思うんですけど、地震によって日常がひっくり返ってしまって、あの災害を我が身で体験したっていう意味では、東京にいる方も被災者と呼べると思いますし、それは他の人に宣言することじゃなくて、自分の心の中でそう位置付けられればいいのではないでしょうか」

「思いがけずレインボーブリッジに・・・」つぶやきの裏には

ツイートマップに目を戻すと、首都圏では情報が少ない中で混乱が続いていました。

地震後にどう行動するか、迷うつぶやきが多くありました。
交通機関がマヒし、大勢の「帰宅困難者」が歩いて長い道のりを帰って行くニュースの映像は目に焼き付いていますが、その中のひとりひとりに「決断」があったこともわかってきました。

東京・港区の三田駅周辺で書き込まれた、あえて海側に向かうか悩むつぶやき。結局どんな判断をしたのだろうか・・・と気になりました。

地図上でここから1キロほど離れたレインボーブリッジに目を向けると…渡っている人もいたようです。

調べていくと、なんとこの2つのつぶやきの主が同一人物だということがわかりました。この方は悩んだ末、レインボーブリッジを渡る判断をしていたのです。

ツイッターのダイレクトメッセージで連絡を取ってみると・・・

取材の許可は頂いたものの、やはり10年前のこととなると記憶はあいまいになっているようでした。

後日、改めてインタビューをお願いすると、少しずつ思い出しながら話をしてくれました。
現在、長野県に在住の瀬戸口光宏さんが地震に遭ったのは東京・恵比寿にある会社で働いていたときのこと。

地震のあと、まっさきに頭に浮かんだのは妻と生まれて2か月の息子のことでした。当時、自宅があった千葉県浦安市までは25キロの距離。電車は全てストップしていたため、歩いて5時間かかります。

「新生児と妻だけが家にいる状態で。なによりも早くそばに駆けつけたいと思ったんですよね」

「最短距離で考えてレインボーブリッジ渡ることを決めたんです。あとで考えてみると、レインボーブリッジを渡っている最中に大きい地震があったらどうなったんだろうと怖いです。でもそのときは考えなかったです」

つぶやきは、無我夢中で家に帰ろうとしていた気持ちの表れだったのです。

25キロの道の途中。瀬戸口さんは通った場所や風景を記録していました。

目にしたのは車が一台も通らない首都高。冠水した道路。このとき浦安市は液状化現象が起きていて、関東圏で唯一被災地と認定されていました。

午後10時半過ぎに家に着くまで、瀬戸口さんを励まし続けたのはツイッターでつながった人たちでした。

「職場の同僚だとか家族とか友達とか、ツイッターでつながっていたので、大変だったのをやれたのは、連絡が取れたからかなと思いますね」

震災当時、生後2か月だった長男は、まもなく小学5年生になります。
瀬戸口さんは今回、10年前のことを振り返ったことをきっかけに、自身が体験したことをいつか息子に伝えたいと話していました。

「あの日」のつぶやきを「いつか」のために

つぶやきから明らかになった、人々が目にした光景や抱えた思いを次の災害に生かすことができるのではないか。渡邉さんは考えています。

「人は次から次に起きる出来事で記憶を上書きしていくので、地震から歳月が経てば経つほど、当時リアルタイムに自分たちが何を感じて、とっさにどう行動したのかを忘れていってしまうものだと思います。でも、当時のつぶやきを振り返ることでこの中の一人が自分だったって感じた瞬間に、“そうだもう忘れかけていたけどあのときは大変だった”っていう思いは皆さん振り返ると思うし、10年前のみんなの心の動きから近い将来起きるであろう大地震に向けての備えを学ぶ場として活用してもらいたい」

取材後記

取材を終えて一息ついた時、地図上のつぶやきを眺めていて、よぎったのは私自身の「あの日」の体験でした。

2011年3月11日、私は新潟県の高校3年生。数日前に大学の合格発表があり、地元を離れることが決まった私は、会えなくなる同級生たちとカラオケボックスにいました。
大きな揺れはなかったものの、建物が古かったため、店員にうながされて、外に避難。ガラケーを開くと「東北で震度7」の文字が飛び込んできました。建物を出るとき、怖かったか?そのあとどう家に帰ったのか?あの瞬間に何を考えたのか、10年後の今、記憶は曖昧になっています。

ただこういう機会に記憶をたどると、思い出すこともありました。
進学した茨城県にある大学は、地震で体育館の屋根が破損。入学式は青空の下行われました。入学後、たびたび余震があり、(かなり古かった)学生寮のドアはいつでも逃げ出せるように開けたまま過ごしていたこと。スーパーでは茨城県産の野菜がとても安くなっていたこと。同級生と「放射線が漏れていたら隣県の自分たちは・・・」とささやきあうこともあったように思います。

ひとりひとりが「あの日」のことを思い出すこと、当事者であろうとすることが大切なのだと思いました。
 

  • 松田大樹

    首都圏局 ディレクター

    松田大樹

    2015年入局。長崎局で国境離島や原爆関連を取材し、2019年から首都圏局。 これまで五輪や災害関連、コロナ禍の教育現場などを取材。

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