青天を歩け!青天を歩け!

渋沢栄一ゆかりの人々

政治家編

井上 馨いのうえ かおる

1836-1915

井上 馨
栄一も高く評価した辣腕(らつわん)

長州藩(山口県山口市)の郷士(ごうし)の子。尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に励み、維新後は参与、大蔵大輔(おおくらたいふ)となるが辞職、三井組の最高顧問となった。その後政府に復帰し、外務大臣などを歴任。実業界との信頼も深く、大蔵省時代より栄一を重用して財政健全化を目指した。のちに、首相候補として内閣組閣の命を受け、栄一を大蔵大臣にしようとしたが、固辞され、やむなく組閣を断念した。

徳川 慶喜とくがわ よしのぶ

1837-1913

徳川 慶喜
江戸幕府最後の将軍

水戸藩(茨城県水戸市)藩主徳川斉昭(なりあき)の七男。名声があり、一橋家の養子となって十四代将軍位の後継を望まれたが慶福(よしとみ、改め家茂・いえもち)が継承。安政の大獄(たいごく)後に将軍後見職などを歴任する。そのころに栄一は一橋家・平岡円四郎(ひらおかえんしろう)の紹介で慶喜に仕えることとなった。パリ万博に弟の昭武(あきたけ)を派遣する際、慶喜は栄一を随行させるなど信頼を寄せている。十五代将軍就任後に大政(たいせい)を奉還(ほうかん)し、以後は政界から一切退いた。栄一は終生慶喜を尊敬し続けた。

大隈 重信おおくま しげのぶ

1838-1922

大隈 重信
栄一を新政府にスカウト

佐賀藩(佐賀県佐賀市)藩士の子として生まれ、尊王攘夷派の志士となる。佐賀の英学校では宣教師フルベッキに学んだ。維新後に大蔵大輔(おおくらたいふ)となり、静岡で商法会所を立ち上げた栄一を明治政府に出仕させるよう、熱心に勧誘し、それを実現させている。政変で失脚後に東京専門学校(のちに早稲田大学)を創立し、栄一はその発展に尽力した。その後も、政界を引退するたびに熱心な要請を受け、その都度復帰。首相などの要職も務めた。

伊藤 博文いとう ひろぶみ

1841-1909

伊藤 博文
明治日本をけん引した元老

周防(すおう)国(山口県)の農家に生まれる。松下村塾(しょうかそんじゅく)に入門して頭角を現し、尊王攘夷運動に身を投じた。維新後は岩倉使節団に参加、大久保利通(おおくぼとしみち)の信頼を得て、大久保の死後に内務卿(ないむきょう)を継いだ。やがて内閣制度を創設して初代内閣総理大臣となり、帝国憲法の制定を主導した。栄一は銀行制度の導入などで伊藤に協力しており、伊藤を強力な指導者として尊敬していた。伊藤がハルビンで暗殺されたという報を受けた栄一は驚がくして嘆いたという。

実業家編

岩崎 弥太郎いわさき やたろう

1835-1885

岩崎 弥太郎
三菱財閥の創始者

土佐藩(高知県高知市)の郷士の子。長じると藩営の商社・開誠館(かいせいかん)に勤めた。維新後に九十九商会(つくもしょうかい)を創設、やがて同会は三菱商会・郵便汽船三菱会社へと変換する。台湾出兵以後の戦役で兵たんを担い、莫大な利を得て一代で三菱財閥を築き上げた。財閥を嫌った栄一とは海運などをめぐって対立するが、東京海上保険などの設立時には協力し合っている。

大倉 喜八郎おおくら きはちろう

1837-1928

大倉 喜八郎
大倉財閥の創始者

新発田(しばた)藩(新潟県新発田市)の大名主の子として生まれる。上京して乾物屋を、続いて鉄砲店を開業し、戊辰戦争で巨利を得た。維新後は大倉組商会を創設して貿易業に進出、新政府の外征にともない急成長を遂げ、大倉財閥を築き上げた。札幌麦酒帝国ホテルなど、数々の事業を栄一とともに立ち上げている。

安田 善次郎やすだ ぜんじろう

1838-1921

安田 善次郎
安田財閥の創始者

富山藩(富山県富山市)の下級藩士の子。江戸へ出て数々の商家に奉公し、やがて日本橋小舟町(こぶなちょう)で両替商として独立、屋号を安田屋とした。維新後は太政官札(だじょうかんさつ)や公債などの取引で財を成し、第三国立銀行(のちの安田銀行)を創設した。栄一は競合相手であったが、お互いの才能を高く評価し、東京瓦斯(ガス)帝国ホテルなどの共同出資者となっている。

浅野 総一郎あさの そういちろう

1848-1930

浅野 総一郎
浅野セメントから財閥へ

能登半島・薮田(やぶた)村(富山県氷見市)の医者の子。若年から地元で商売をはじめるも失敗。東京へ出て竹皮・石炭などを扱う商人となり財を築く。やがて栄一の後見を得て、取引先であった官営の深川セメント工場を払い受け、浅野セメントを設立した。また、安田や栄一らの支援を受け、東京湾埋め立ての計画を実現させるとともに、浅野財閥を築き上げた。

益田 孝ますだ たかし

1848-1938

益田 孝
三井物産の初代社長

佐渡奉行下役の子。父の転勤先の箱館(はこだて)で英語を学び、江戸に出て池田筑後守長発(いけだちくごのかみながおき)の遣欧使節(けんおうしせつ)に随行。帰国後は貿易商を営み、井上薫(かおる)の勧めで大蔵省入りする。その後栄一らと同時に同省を辞し、先収会社を起業。新設の三井物産会社に合流し、初代社長となった。栄一の事業にも数多く出資し、三井財閥を発展させた。
「青天MAP 耕牧舎」

大川 平三郎おおかわ へいざぶろう

1860-1936

大川 平三郎
栄一の書生から大川財閥へ

川越藩(埼玉県川越市)藩士の子。母は栄一の最初の妻・千代の姉。栄一の書生となるが、家計が苦しく学問を断念、抄紙(しょうし)会社に就職。努力を重ねて数々の技術を習得し、専務取締役となる。三井が同社に加わると栄一とともに退社、栄一の支援を受けて全国各地で製紙会社を立ち上げ、「製紙王」と呼ばれた。

思想・文化人編

三島 中洲みしま ちゅうしゅう

1830-1919

三島 中洲
二松学舎(にしょうがくしゃ)の創立者

備中国窪谷郡中島村(岡山県倉敷市中島)出身。山田方谷の牛麓舎、江戸の昌平黌(しょうへいこう)などで学び、備中松山藩(岡山県高梁市)の藩校・有終館の学頭を経て、維新後は司法省に出仕、判事などを歴任し、二松学舎を創設した。明治41年(1908)に栄一と出会い、栄一の経済道徳観を「論語算盤(ろんごそろばん)」と位置づけた。三島と意気投合した栄一は、その後二松学舎の舎長などを務めた。

福沢 諭吉ふくざわ ゆきち

1835-1901

福沢 諭吉
明治を代表する教育者

豊前(ぶぜん)国中津藩(大分県中津市)の出身。緒方洪庵(おがたこうあん)から蘭学を学び、三度の渡米・渡欧の機会を得て、開明的な教育者となり、慶應義塾を創立。在野を貫き、日本の教育近代化に大きく寄与した。儒教を身分制度のもととなる悪習と考えたため、論語を重視する栄一とは相いれず、意外なほど接点は少ないが、教育機会の均等化や女子教育普及などでは協力し合っている。

森 有礼もり ありのり

1847-1889

森 有礼
大臣も経験した教育者

鹿児島藩(鹿児島県鹿児島市)の出身。藩校の開成所で英学を学び、五代友厚(ごだいともあつ)らとともに英国へ留学、維新後は外交官などとして活躍した。その後第1次伊藤内閣で初代文部大臣となり、教育制度の確立に努めた。明治8年(1875)、産業界の指導者育成を目指し、銀座尾張(ぎんざおわり)町(東京都中央区銀座)に商業講習の私塾を設立。清(しん)国公使となって、渡航する際に栄一に託し、同塾は商法講習所(のちの一橋大学)となった。

高峰 譲吉たかみね じょうきち

1854-1922

高峰 譲吉
アドレナリンなどを発見

越中国高岡(富山県高岡市)の町医者の子。藩校・明倫堂(めいりんどう)ののち適塾(てきじゅく)などで学び、明治になって工部大学校(のちの東工大工学部)の化学科を卒業。英国留学ののち農商務省などに属し、明治20年(1887)に栄一らと東京人造肥料会社を立ち上げた。やがてアメリカへと渡り、タカジアスターゼやアドレナリンを発見。帰国後は理化学研究所を立ち上げ、栄一も設立・運営に尽力している。

成瀬 仁蔵なるせ じんぞう

1858-1919

成瀬 仁蔵
日本女子大学校の創立者

周防国吉敷村(山口県山口市吉敷)出身。維新後、山口県の教員養成所を卒業して教師となる。女子教育研究のために米国留学し、その発展に努めた。栄一は大隈重信の紹介で成瀬と出会うと、その理念と熱意に動かされ、明治29年(1896)に日本女子大学校の創立委員になり、その後校長にも就任している。

新渡戸 稲造にとべ いなぞう

1862-1933

新渡戸 稲造
「武士道」を世界に紹介

盛岡藩(岩手県盛岡市)藩士の子。札幌農学校を卒業後、東京帝大に移るも中退して米国に留学する。帰国後は東京帝大教授などを歴任、一貫して「人格主義教育」に努めた。その後国際連盟事務局次長に就任、国際派の知識人として国内外で世界平和を唱えた。著書『武士道』で日本を世界に広め、日米民間交流に努めた栄一にも、たびたび協力している。

そのほか

ユリシーズ・S・グラント

1822-1885

ユリシーズ・S・グラント
アメリカ合衆国第18代大統領

オハイオ州生まれ。陸軍士官学校を経て、米墨(べいぼく)戦争などに従軍、南北戦争では北軍の総司令官として同軍を勝利に導いた。1867年に大統領選挙で勝利し、任期中に岩倉使節団と会見。退任後の1879年には夫人をともない世界一周旅行を挙行、栄一は民間代表の接待役となり、飛鳥山邸などで歓待した。

出典:NHK大河ドラマ歴史ハンドブック
「青天を衝け〈渋沢栄一とその時代〉」(NHK出版)
ライター:上川畑 博
写真提供:浅野総一郎 東亜建設工業株式会社
三島毅 二松学舎大学
高峰譲吉 金沢ふるさと偉人館
ユリシーズ・S・グラント © National Portrait Gallery, London
by London Stereoscopic & Photographic Company,
after Gurney & Son albumen carte-de-visite, 1860s
その他 国立国会図書館蔵

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