「まともな道路がひとつもない」「重機が持ち込めない」「不明者の情報がない」。
能登半島地震直後、埼玉県警察本部は広域緊急援助隊を石川県に派遣し、救助活動にあたりました。1週間の活動を終えた隊員が、被災地の困難な状況の中での救助活動を振り返りました。
さいたま局記者/海老原悠太
埼玉県警察本部は石川県の要請を受けて、地震発生直後の今月1日夜から8日まで機動隊員など90人あまりを、広域緊急援助隊として石川県珠洲市などに派遣しました。派遣を終えた隊員3人が11日に取材に応じました。
第1次派遣として現地に向かったのは約50人。
1日の夜に車で埼玉県を出発し、翌2日朝には石川県に入りました。そのあと七尾市に向かいますが道路の被害や激しい渋滞でたどりつけず、最終的には3日になって、ようやく能登半島の先端部に近い珠洲市に到着することができました。
第1次派遣を指揮 松宮誠一 警視
「まともな道路はひとつもありませんでした。倒壊した家屋や、電柱が道路を塞いでいる状況で、現地に到着するのに時間がかかりました。生存の確率が一気に下がる72時間のタイムリミットがあるなかで焦りを感じました」
珠洲市に到着した隊員たちは、すぐに安否不明者の救助活動にあたりました。
しかし、どこに取り残された人がいるのか情報がなく、1軒1軒倒壊している家屋に取り残されている人がいないか、確認する必要があったといいます。
そうした中、倒壊した家屋の下敷きになっている被災者がいるという情報を周辺の住民から得ることができ、4日朝から救助活動を始めました。
救助活動に取りかかったのは1階が完全に潰れ、2階だけが残っている木造2階建ての住宅です。近くの住民の話によると、2人が取り残されているということでした。
しかし、地震の被害を受けた道路が重機の搬入を阻みます。
松宮誠一 警視
「道路の状況が悪く、救助に使用する装備を積んだ大型トラックが現場に入れず、十分な装備がなく手作業で活動をすることになりました」
重機を使えずに手作業での懸命な救助作業が続きました。
捜索は夜間まで及び、12時間後に1人を見つけることが出来ました。
翌日も救助活動を続け、もう1人を見つけましたが、結果的に2人の命を救うことはかないませんでした。
今回の地震では余震が相次いでいます。
救助活動も余震のたびに中断せざるを得なかったといいます。
第1次派遣に参加 古澤厚司 警部
「1階部分が完全に押しつぶされて家屋の傾きもあったなかで、余震が頻繁に起きて、なかなか救助活動が進みませんでした。震度3程度の地震が30分に1回くらい起きていて、そのたびに待避して安全を確認していました」
今月4日には第2次派遣の隊員およそ40人も珠洲市に向かい、行方不明者の安否確認にあたりました。
生存者を見つけることはできませんでしたが、困難な状況で救助活動にあたった隊員は、それぞれ強い思いを抱きながら救助にあたっていました。
第2次派遣を指揮 坂巻正和 警部
「わざわざ埼玉から来てくれてありがとうというお言葉もありました。願わくは、願わくは生存していてほしい。なんとか救助したいというような思いで救助活動にあたっていました」
古澤厚司 警部
「救助するため、家屋にあるいろいろな物を壊さないといけないのですが、家族写真や卒業証書といった思い出の品もたくさん出てきました。そういった物を踏みにじらず、家族に返すようにしました」
救助活動中、家族や近所の人が様子をを見守っていました。
手作業での活動でなかなか進まず、家族に状況を説明すると涙ながらにお礼を言われたといいます。
松宮誠一 警視
「私たちが出動する先には必ず救助を待っている人がいて、被災者が頼れるのは私たちだけなのだと実感しました。もし、また派遣されることになれば、安否が確認されていない方の発見に全力を尽くしていきたいです」