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「浦和画家」とは? さいたま市は知られざる芸術の街

首都圏ネットワーク 埼玉発!芸術が街を変える
  • 2023年11月7日

さいたま市は、実は芸術を大事にしてきた街なんです。大宮には盆栽美術館があり、となりの岩槻は人形の街・人形博物館があります。そして、与野のさいたま芸術劇場では、演劇やクラシックコンサートなどが上演されています。
では、浦和はというと…「浦和画家」と呼ばれる画家の集まりがありました。知られざる芸術の街の歴史と魅力を探りました。

さいたま局 キャスター/齋藤恵梨 記者/藤井美沙紀

実は身近な存在! 街に溶け込む“浦和画家”の作品

JR浦和駅前の齋藤キャスター

埼玉県の県庁所在地・浦和。その駅前にやってきました。
しかし、画家の街を思わせるものは、すぐには見つけられません…。

うらわ美術館 松原知子学芸員

そこで詳しい方に案内をお願いしました。うらわ美術館の学芸員、松原知子さんです。
「浦和画家」について展覧会を開いた経験もある、エキスパートです。

松原さん

街の中にも画家の存在が感じられるものがあるんです。
実はこちら・・・建物の壁画です。

松原さんが紹介してくれたのは、浦和駅前の商業施設のモザイク壁画。
原画を手がけたのが「浦和画家」です。

さいたま市役所ロビー

さいたま市役所のロビーでも浦和画家の作品が見られます。

キャスター
齋藤

全然知らなかったです。
私たちの日常に絵が溶け込んでいるんですね。

左から小松崎邦雄 高田誠 渡邉武夫

浦和を拠点に日本の美術界の中心で活躍してきた「浦和画家」。
関東大震災後に東京などから多くの画家が浦和に集まったことがきっかけとされています。
昭和初期には、浦和周辺に40人ほどいたとされています。

なぜ浦和に画家が集まった?そのワケは…

別所沼公園(さいたま市南区)

なぜ浦和が選ばれたのか。

理由にあげられるのが自然に恵まれた町の風景です。絵の題材として魅力的だったといいます。
さいたま市民の憩いの場『別所沼』の周辺には当時、多くの画家が住まいやアトリエを構え、武蔵野の風景を描きました。

林倭衛《-》うらわ美術館蔵

別所沼をモチーフに描いた作品というのもいくつも残っているんです。
作家たちの絵心を刺激するような魅力だったんじゃないかなと思います。

渡邉武夫《浦和風景》うらわ美術館蔵

ほかにも題材として選ばれたのが、当時まだ珍しかった洋風建築。
県庁所在地の浦和には洋風の公共施設が多かったことも、魅力のひとつでした。

そして、もうひとつ、大きな理由が…。
松原さんが示してくれたのが、昭和初期の浦和の地図です。

昭和8年ごろ浦和案内のパンフレットに使用された地図(赤枠が学校)

こちらの地図から、学校が多いことがわかりますか?

たしかに!

このころの地図には、浦和駅から別所沼付近にかけて、師範学校や旧制浦和高校など、複数の学校が示されています。

文教地区として、明治から大正にかけて学校が誘致されたのです。
こうして美術教師として優秀な芸術家が、各地から浦和に集まったといいます。

浦和の環境やこういった風景などが、浦和画家さんをどんどんどんどん、増やしていったんですね。

それぐらい魅力があった街だったんだなと、私は誇りに思ったりします。

浦和を愛した画家  高田誠

高田耕一郎さん

浦和の風景を愛した画家の記憶をとどめる場所が今も残っていると聞き、訪ねました。
出迎えてくれたのは高田耕一郎さん、父親は浦和画家の代表的な存在、高田誠です。

高田耕一郎さん
「父親は穏やかな、人当たりのいいところがありましたからね。画家のなかでも皆から信頼されて、人望があったと思いますよ。だから私はあの父親を超えるということはできないかなと」

浦和画家 高田誠 (1913~1992)

高田誠は昭和初期から活躍した代表的な浦和画家の1人です。
点描による風景画を数多く残し、日展の理事長も務めました。
浦和駅前の商業施設の壁画の原画も手がけました。

高田誠《残雪の妙高山麓》うらわ美術館蔵
高田誠《浦和田島ヶ原のさくら草》うらわ美術館蔵

高田耕一郎さん
「普通の家庭と違ってね、絵を描いているもので、一緒に遊ぶとか、どこかに行くということはほとんどなかったですね。朝起きて、朝ご飯を食べて、昼ご飯を食べて、晩ご飯を食べて、その間はアトリエに行って絵を描いている」

そのアトリエを、今回、特別に案内してもらいました。

高田誠のアトリエ

すごい!
ついさっきまで人がいたかのような。

このパレットは 亡くなったときから、ずっとそのままです

このまま置いてあるんですね。
誠さんが今にも絵を描き出しそうですよね。

耕一郎さんは、31年前に父親が亡くなったあとも遺品や絵画を残していて、多くの人に見てほしいと考えています。

高田耕一郎さん
「どこの美術館でもいいけれど、寄贈できれば寄贈したいというか。浦和には高田誠という人がいたよと、こういう絵を描く人がいたんだなということを、分かっていただければいいんじゃないかと思います。美術館とかで代々つないでいってもらって、なるべく多くの方に見ていただきたいですね」

高田誠の最後の作品  今もアトリエに眠る

今も浦和に残る “画家を支えた場所”

いまに引き継がれる「芸術の街」の精神。
浦和の街には、浦和画家を支えてきた場所も残っています。

こちらの施設は、画材販売も行う絵画教室です。
半世紀以上にわたって、営業してきました。

小松崎邦雄の作品
高田誠と斎藤三郎の作品

店頭には額縁や絵の具が並ぶなか、浦和画家の絵も飾られています。
浦和画家から画材が欲しいという要望があったことが、店を始めるきっかけだったといいます。

青山健一さん

絵描きの皆さんが、絵の具がほしいという話を聞いたもので。
よし!やろうというのが私どもの店の始まりですね。

絵画教室の様子

絵画教室にはプロを目指す人から趣味で楽しむ人まで、さまざまな世代が通っています。

絵を描くのは好きですか?

大好きです。
将来の夢はアニメを作ることです。

彩光舎代表 青山健一さん
「57年間おかげさまで順調。これもひとえに浦和画家の皆さんのおかげです。これからも続けて絵描きとともに生活していく。そういう気持ちでおります」

浦和画家の思いを未来へ

最後に訪ねたのは、浦和画家の思いを将来に受け継ぐ人です。

小松崎徹郎さん

洋画家の小松崎徹郎さんです。
油絵やデッサン画など、幅広い作品を手がけています。

ペン画というジャンルが僕は大好きなんですけれど、なぜかというと、ものすごい緊張感があるんですよ。消せないんです。

下書きもしないんですか?

上からペンを走らせて一発勝負です。

浦和画家 小松崎邦雄(1931~1992)

徹郎さんの父親は浦和画家の1人、小松崎邦雄です。
絵の具を塗り重ねて浦和の駅前を描いた風景画や、牛をモチーフに別所沼を描いた作品などを残しています。

小松崎邦雄《浦和東口駅前》うらわ美術館蔵
小松崎邦雄《沼のある夕景》うらわ美術館蔵

徹郎さんが1本の線で勝負するのは、「デッサンの神」とも呼ばれた父親の教えを大事にしているからです。

小松崎徹郎さん
「『すべての基礎はデッサンにあり』という教えのもとにやっていたのが、父であり浦和画家なんですよ。父は乱暴な言い方かもしれませんけど、デッサンさえできてしまえば、あとは色塗りなんだよって。そのデッサン力を僕が継承しようと思ってます」

地元・浦和での活動にこだわり、芸術の街をさらに発展させ、「浦和画家」としての誇りを次の世代につなげることが自身の務めだといいます。

小松崎徹郎さん
「浦和に生まれ育ってこの街が大好きですし、この街で絵を描ける幸せというものを日々かみしめながら、最後まで絵を描く気概ではあります」

取材後記

画家の街・浦和に根付く芸術作品と、関わる人たちの思い。今を生きる私たちも大切に受け継いでいきたいと感じました。

  • 藤井美沙紀

    NHKさいたま局記者

    藤井美沙紀

    2009年入局。さいたま市出身で、秋田局、国際部などを経て現職。さいたま市でお気に入りの場所は鉄道博物館。

  • 齋藤恵梨

    NHKさいたま局キャスター

    齋藤恵梨

    2023年からさいたま局。山形県酒田市出身。さいたま市でお気に入りの場所は毎週行っているカフェ。

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